伊保川の北、田籾川との合流点の上伊保集落を前面にした北山頂上に鎮座している。保見中学の西、トンネルの上にある。 社名のイホは郷名より名付けられたと考えられる。 |
由緒 射穂神社由緒記 古伝に三河国賀茂郡高橋の庄伊保郷開発和銅6癸丑歳改むとあり村名射穂とも又伊穂とも書き、後に伊保村、御獄市場を合して上伊保と称す。 神社地は藩政時代城主の戦國地と称せるも火災焼失多くありたるため鎮座地を池之坊洞より御獄山頂に移し、また三祖山に移し明治維新の際北山と改称す。 鎮座地 愛知県西加茂郡猿投町大字上伊保字北山弐拾六番地 境内地 1170坪 神社名 射穂神社 祭神 左相殿 春日山田皇女 中殿 安閑天皇(廣國押武金日尊)右相殿 神前皇女 延喜式内3132座の内三河国加茂郡伊穂之神社祭神蔵王大権現とあり通称伊保天神とありしを享保年間より蔵王宮と称し、その後射穂神社と改称せり。和漢三才図絵に言ふ蔵王大権現祭神は不祥なるも社伝に清見原之皇子大友皇子御征伐之節御勝利祈願のために白鳳年間御即位に神社御建立とあり古代の創建なること知るべし。明治5年8月郷社に列せらる。明治43年末社八幡宮、八柱神社、秋葉神社、津島神社、武稲神社、神明社、伊豆社、御鍬社を合祀す。昭和18年8月県社昇格の申請を了し社格昇格の内定を得しも大東亜戦争終息により無に帰せり。旧氏子区域は上伊保村、田籾村、伊保堂村、殿貝津村、下伊保村、挙母町、宮口村、本地村、千足村、土橋村、梅坪村、金谷村、下市場村、下林村、長興寺村、今村、山室村、福谷村、黒笹村、莇生村、三好村、西一色村、福田村、明知村、打越村の25町村なりしが、明治15年頃挙母町ほか10余町村は挙母神社氏子へ分区せり。例祭は陰暦9月10日なりしが明治維新より陽暦10月15日に改む。特殊神事には鎮火祭、御粥占豊年祭あり。例祭には奉納献馬棒ノ手、空砲等の行事を慣行し氏子下各村提灯をもって参拝する例ありし。今般氏子一同より本殿再建の建議なり、昭和39年11月吉日仮遷宮。昭和40年3月23日夜御殿入り、翌24日完終了。 昭和40年3月吉日誌 射穂神社社務所 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
射穂神社 一、 創祀沿革 白鳳元年9月(672)創建 永承7庚午年(1052)再建 上伊保村領主松平左兵衛尉定勝建立 永正7年(1510)戦焼後再建 松平右兵衛佐建立 二、 社 格 六等級社 昭和52年9月(1977)認証 「明治の制(郷社)」 三、 祭 神 広国押武金日皇命(安閑天皇) 春日山田皇女(欽明天皇二女) 神前皇女(安閑天皇御妹) 四、 御末社 八幡神社・津島神社・秋葉神社 他十社 五、 宝 物 伊保郷印・仏像・鏡 六、 例祭日 10月(第二日曜日) 七、 特殊神事 豊年祭「おためし」(5月) 左儀長祭(1月) 社頭掲示板 |
保見町のおためし 戦前戦後、現在に至るまで連綿と続いている保見町のおためしは、白鳳元年(672)に創建された格式のある射穂〔いぼ〕神社でお百姓さんの祭事として伝わっています。 おためしは、農作物の豊凶を占うものです。飾り付けは、右の間〔田所〕と左の間〔畠所〕に分かれ、それぞれ正面の高い所に三人の神様がその年の気候を占い、白、赤、青色の法衣を着分けて農民に知らせます。白の法衣の神が多ければ風が吹き、赤い法衣の神が多ければ日照り、青い法衣の神が多ければ雨を降らすといわれています。また右の間は、水田における作物の豊凶を、左の間は、陸田における作物の豊凶を占う神事です。 現在気候(法衣の色)は、熱田神宮の暦によって飾り付けられているとか。この飾り付けを見てお百姓さんたちに、個人の判断で農業に生かしてもらうため、行われているものといわれています。 社頭掲示板 |
射穂神社 「日本書紀」に名を匂大兄、諡を広国押武金日天皇とする。縫体天皇第一子で母は尾張連草香の娘日子媛である、幼少の頃より器量に優れ武威にたけ、寛容な性格と伝えられている。安閑天皇は奈良県橿原市曲川町の匂全橋に都を遷し仁賢天皇の皇女春日山田皇女を皇后とした。許勢男人大臣の娘紗手媛、その妹香香有媛、物部木蓮子大連の娘宅媛の三人を后妃とした。 安閑天皇は九州から関東にかけて多くの屯倉を設置し匂舎人部や犬養部などを置いた。天皇は安閑天皇2年12月に七十歳で崩御され、古市高屋丘陵(大阪府羽曳野市古市)に葬られた。 由緒書 |
射穂神社由緒紀 (神社本庁平成7年「全国神社祭祀祭礼総合調査 より抜粋) 延喜式内3132座の内三河国賀茂郡伊穂之神社祭神蔵王大権現とあり通称伊保天神とありしを享保年間より蔵王宮と称し、その後射穂神社と改称せり。和漢三才図絵に言ふ蔵王大権現祭神は不詳なるも社伝に清見原之皇子大友皇子御征伐之節御勝利祈願のために白鳳年間御即位に神社建立とあり古代の創建なること知るぺし。 明治5年8月郷社に列せられる。 旧氏子区城は上伊保村・田籾村・伊保堂村・殿貝津村・下伊保村・拳母町・宮口村・本地村・千足村・土橋村・梅坪村・金谷村・下市場村・下林村・長興寺村・今村・山室村・福谷村・黒笹村・筋生村・三好村・西一色村・福田村・明知村・打越村の二十五町村なりしが、明治15年頃拳母町ほか十余町村は拳母神社氏子へ分区せり。 明治43年末社八幡宮・八柱神社・秋葉神社・津島神社・武稲神社・神明社・伊豆社・御鍬社を合祀す。 由緒書 |
射穗神社 射穂は伊保と訓べし、和名鈔、(郷名部)伊保、○祭神詳ならず○上伊保村に在す、今蔵王と称す、(私考略)例祭 月 日 神位 國内神名帳云、正五位下伊保天神、 神社覈録 |
郷社 射穗神社 祭神 廣国押武金日皇命(安閑天皇)春日山田皇女(欽明天皇二女)神前皇女(安閑天皇御妹) 旧と蔵王権現とも称す、永承年間の炎上の際古記古文書儘く灰燼に帰し、今由緒を詳かにする能はすといへども、古老の口碑に云く、白鳳元年9月三穂の國造の勧請に係ると、延喜式内社にして、國内神名帳に「正五位下伊保天神」と見えたり、文禄年間には社領二百五十四石三斗を有せしが、遂に之れを失ひ、社家離散して近古以来村内永福寺にて神勤の事となりしと、古来伊保材の産土神にして、領主の崇敬厚く、三宅加賀守居城の際は御供田として二段歩を奉納し、寛永7年領主松平左兵衛定勝再建のことあり、又織田信長山村十五町歩を寄進す、今尚存す、明治5年8月郷社に列せらる。 社殿は本殿、神樂殿、拝殿を具備し、境内地1170坪(官有地第一種)あり、当社宝物に伊保郷印あり、名高し、三河古蹟盛云、蔵王権現社は中殿大兄廣国押武金日尊(安閑天皇)左殿は春日山田皇女(欽明天皇二女)右殿は神前皇女(安閑天皇御妹)を祀れり、社は山上に在て宝暦の比までは加納和泉と云ふ社家ありしが、今絶て永福寺と云ふ禅寺神勤す、さて寺僧に問へば中藏王、左観音、右は薬師なりと云ふ云々、又云く「千足本云蔵王堂の地高き由なり、神陵にてもあらん歟」と見ゆ、記して後考に備ふ。 明治神社誌料 |