『三河国官社考集説』では当社を兵主神社の論社としている。 山下の六所神社(下宮)と六所山頂の六所神社(上宮)及び蜂ケ峰神社の三社をもつて構成されている。 上宮は六所山の山頂にほど近い山麓に鎮座し、八ケ峰神社は上宮よりわずかに北にあり、下宮の所在地は坂上町字地蔵堂。 1377年(永和3年・天授3年)8月19日、松平宗家初代松平太郎左衛門親氏が奥州より鹽竈(しおがま)六所明神(鹽竈神社の六所宮の神)を六所山に勧請した。 |
六所神社 [松平(徳川)氏の創建] 社殿によれば、永和3年(1377)松平(徳川)氏の始祖松平太郎左衛門親氏が、吉木山(現在の六所山)の山頂に陸奥国一之宮鹽竈六所明神を勧請し、松平氏の氏神として、奉祀したことに創まると伝えられています。 [隠居神様] 往古は、吉木山そのものを神体山とし、大山祇神を祀り、産土神として奉拝していましたが、客人神である鹽竈六所明神にその社地を譲り、同じ山頂の東北にある峰に遷り、八ヶ峰神社となりました。里人たちが「隠居神様」と呼んでいるのは、この事情を物語っています。 [六所神社の再建奉加帳] 大永7年(1527)12月野火により社殿が全焼しました。この社殿再建のために、松平宗家五代長親(道閲)は嫡子六代信忠と共に、「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり」と、六所神社造営奉加帳(豊田市指定文化財)を松平一門宛てに出しています。 [徳川家康生誕・岡崎城主] 徳川家康が天文11年(1542)12月、岡崎城に生誕のとき、当六所神社に礼拝がなされたといいます。家康が岡崎城主となった永禄年間(1558〜1569)岡崎城に近い高宮村(現在岡崎市明大寺町)の六所神社へ、当神社御祭神六柱のうち三柱の神が勧請遷座されました。文化年間「松平家文書」の中に、「六所神社は永禄年中に、高宮村の六所神社へ衣冠束帯の神像三体、地蔵尊三体を遷御した」とあります。 [徳川家康初穂料を奉献] 慶長7年(1602)家康は、高月院の祖廟参詣の節に当社へ二十石の初穂料を献じています。 [県社に昇格] 明治6年六所明神を六所神社と改称し、社格を「郷社」に列せられ、大正11年9月26日県社に列せられました。 由緒書 |
六所神社の舞台 豊田市指定第27号 六所神社の舞台 民俗有形文化財 この舞台は、明治5年に建てられ、明治中期以前の二重仕掛け(梁の一部がきれていて、舞台の一部が登場者などをのせて上下する仕掛け)の古式をよくとどめている。とくに舞台間口12.6mを一本の通し梁の巨木(90cm×60cm)で支え、また茅葺屋根を支持するため、合掌の用材の中間に梁を組んでいる。舞台の材科は六所山の大木を使用し、用材はスギ、ヒノキ、クリ、モミなとである。 山からの搬出は、近隣の氏子が多数出て、岩角に突きあたって動かなくなると、岩角を削っておろしたと言われている。 豊田市教育委員会 社頭掲示板 |