六所神社
ろくしょじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】兵主神社 三河国 賀茂郡鎮座

   【現社名】六所神社
   【住所】愛知県豊田市坂上町地蔵堂23
       北緯35度3分50秒,東経137度16分14秒
   【祭神】猿田彦命 事勝国勝長狹神 岐神 (配祀)日本武尊
   【例祭】9月22日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】永和3年(1377)8月19日松平宗家初代松平太郎左衛門親氏が勧請
       応仁元年(1474)松平親忠造営
       永正元年(1520)松平長親造営
       大永7年(1527)12月野火で社殿が全焼
       元和3年(1617)松平由重造営
       寛永15年(1638)松平重和造営
       明治6年六所大明神から六所神社と改称
       大正10年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「六所大明神」と称していた
   【社殿】本殿 流造銅板葺
       拝殿・祭文殿・渡殿・拝殿・神楽殿・舞台

   【境内社】秋葉神社・神明社

『三河国官社考集説』では当社を兵主神社の論社としている。
山下の六所神社(下宮)と六所山頂の六所神社(上宮)及び蜂ケ峰神社の三社をもつて構成されている。
上宮は六所山の山頂にほど近い山麓に鎮座し、八ケ峰神社は上宮よりわずかに北にあり、下宮の所在地は坂上町字地蔵堂。
1377年(永和3年・天授3年)8月19日、松平宗家初代松平太郎左衛門親氏が奥州より鹽竈(しおがま)六所明神(鹽竈神社の六所宮の神)を六所山に勧請した。



六所神社

[松平(徳川)氏の創建]
 社殿によれば、永和3年(1377)松平(徳川)氏の始祖松平太郎左衛門親氏が、吉木山(現在の六所山)の山頂に陸奥国一之宮鹽竈六所明神を勧請し、松平氏の氏神として、奉祀したことに創まると伝えられています。
[隠居神様]
 往古は、吉木山そのものを神体山とし、大山祇神を祀り、産土神として奉拝していましたが、客人神である鹽竈六所明神にその社地を譲り、同じ山頂の東北にある峰に遷り、八ヶ峰神社となりました。里人たちが「隠居神様」と呼んでいるのは、この事情を物語っています。
[六所神社の再建奉加帳]
 大永7年(1527)12月野火により社殿が全焼しました。この社殿再建のために、松平宗家五代長親(道閲)は嫡子六代信忠と共に、「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり」と、六所神社造営奉加帳(豊田市指定文化財)を松平一門宛てに出しています。
[徳川家康生誕・岡崎城主]
 徳川家康が天文11年(1542)12月、岡崎城に生誕のとき、当六所神社に礼拝がなされたといいます。家康が岡崎城主となった永禄年間(1558〜1569)岡崎城に近い高宮村(現在岡崎市明大寺町)の六所神社へ、当神社御祭神六柱のうち三柱の神が勧請遷座されました。文化年間「松平家文書」の中に、「六所神社は永禄年中に、高宮村の六所神社へ衣冠束帯の神像三体、地蔵尊三体を遷御した」とあります。
[徳川家康初穂料を奉献]
 慶長7年(1602)家康は、高月院の祖廟参詣の節に当社へ二十石の初穂料を献じています。
[県社に昇格]
 明治6年六所明神を六所神社と改称し、社格を「郷社」に列せられ、大正11年9月26日県社に列せられました。

由緒書




六所神社の舞台

豊田市指定第27号
六所神社の舞台
民俗有形文化財
この舞台は、明治5年に建てられ、明治中期以前の二重仕掛け(梁の一部がきれていて、舞台の一部が登場者などをのせて上下する仕掛け)の古式をよくとどめている。とくに舞台間口12.6mを一本の通し梁の巨木(90cm×60cm)で支え、また茅葺屋根を支持するため、合掌の用材の中間に梁を組んでいる。舞台の材科は六所山の大木を使用し、用材はスギ、ヒノキ、クリ、モミなとである。
山からの搬出は、近隣の氏子が多数出て、岩角に突きあたって動かなくなると、岩角を削っておろしたと言われている。
豊田市教育委員会

社頭掲示板



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