漢国神社
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   【延喜式神名帳】園神社 宮内省坐神三座 並名神大。月次。新嘗。
   【延喜式神名帳】韓神社 宮内省坐神三座 並名神大。月次。新嘗。
   【延喜式神名帳】狭岡神社八座 大和国 添上郡鎮座
   【延喜式神名帳】率川坐大神神御子神社 三座 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】漢国神社
   【住所】奈良県奈良市韓国町 6
       北緯34度41分0秒,東経135度49分30秒
   【祭神】園神 大物主命
              韓神 大己貴命 少彦名命

   【例祭】10月17日
   【社格】
   【由緒】推古天皇元年大神君白堤が勅により園神を祀る
       養老元年(717)藤原不比等 韓神の二座を祀る。
       同5年(721)百済王が献上した白雉を元正天皇奉納
       神亀元年(724)にこの雉を埋めた白雉塚がある。

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】林神社

社名は韓神は漢、園か国に転じたとされる。
推古天皇元年大神君白堤が勅により園神を祀り、養老元年(717)藤原不比等・韓神の二座を祀る。同五年百済王が献上した白雉を元正天皇奉納。神亀元年(724)にこの雉を埋めた白雉塚がある。奈良曝には漢国から七賢人が来て居住し、雉子を愛したので氏子は一生雉子を食べないといわれる。
平安京の園神社・韓神社は当地より遷座と伝える。


由緒略記

漢國(かんごう)神社由緒略記
祭神三座
園神 大物主命(そのかみおおものぬしのみこと)
韓神 大己貴命 少彦名命(からかみ おおなむちのみこと すくなひこなのみこと)
一、鎮座由来(ちんざゆらい)
当神社は推古天皇(すいこてんのう)の元年2月3日(今より約千四百年前)、大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)と申(もう)す方(かた)が、勅(みことのり)を賜(たま)いて園神(そのかみ)の神霊(しんれい)をお祭りせられ、其後元正天皇(げんしょうてんのう)の養老元年11月28日、藤原不比等公が更に韓神(からかみ)の二座を相殿として祀(まつ)られたのが漢國神社(かんごうじんじゃ)であります。
古(ふる)くは春日率川坂岡社(かすがいさかわさかおかしゃ)と称しました。
一、平安城宮内省(へいあんじょうくないしょう)へ勧請(かんじょう)
清和天皇の貞観元年正月27日、平安城宮内省に当社の御祭神を勧請して皇室の御守護神とせられたのであります。
一、御神徳
御祭神は第一に国土経営の御大業をなされ、第二には国民の為に衣食住の根基(もとい)を樹(た)て給いし最(いと)も尊い神々で、殊(こと)に医薬造酒(いやくぞうしゅ)の粗神(そ じん)でもあります。また、家康公に因(ちな)み開運招福の霊験を崇ばれております。
一、林神社
林神社(りんじんじや)は、林浄因命(りんじょういんのみこと)を御祭神として御祀りする我国で唯一の「饅頭(まんじゅう)の社」であります。
林浄因命は中国浙江省の人、林和靖の末裔で、貞和五年に来朝され、漢國神社社頭に住まいされるや、我国で最初に饅頭を御作になり好評を博しました。その後、足利将軍家を経て、遂には宮中に献上するに至り、今日全国の菓業界の信仰を集めています。また、室町末期から桃山初期にかけて林家では碩学の林宗二が、初期の国語辞書である「饅頭屋本節用集(まんじゅうやほんせつようしゅう)」を著し、印刷・出版の嚢祖(のうそ)として知られています。
一、徳川家康公鎧と鎧蔵
慶長19年11月15日、大坂陣の際、徳川家康公木津の戦に破れ当社境内の桶屋に落忍ばれ九死に一生を得給う。依)って報賽祈願の為翌十六日当社に御参拝、御召鎧一領を御奉納遊ばさる。其後鎧蔵を建立し累世の将軍家は年々使者をお立てになりました。
(鎧は現今国立奈良博物館に出陳中)
一、白雄塚
元正天皇は当社御崇敬の念厚く、養老5年4月に百済王が献上した白雉を当社へ奉納遊ばされました。其の後神亀元年9月18日この雉を埋め、塚を築いたのであります。

由緒書




漢国神社

奈良のメインストリートである大宮通りと、やすらぎの道の交差点を少し南へ行くと、右側に、「縣社漢國神社」と「饅頭の祖神林神社」という二本の石標に挟まれた参道があり、その奥に、周囲の喧燥をよそに、静寂の気の漂う漢国神社がある。
「漢国神社」というと、中国からの渡来の神様がお祀りされているような印象を受ける。けれども、この神社の由緒は古く、推古天皇の元年(五九二年)勅命により、大神君白堤が大物主命を、その後、元正天皇の養老元年(七一七年)、藤原不比等が大己貴命と少彦名命を合祀されたという。大物主は大国主命の和御魂、大己貴は荒御魂であるから、御祭神は、天孫降臨の前に、協力して国を治め、呪術、医薬等を教えて人々を慈しまれた三輪系の国津神(地主神)である。
神社の宝物の一つに、徳川家康が奉納した黒革威甲冑一領がある。慶長19年11月15日、大阪冬の陣の折、徳川家康は真田幸村に破られ、ほうほうのていで奈良まで逃げてきた。漢国神社の前まで来ると、そこに桶屋があって、トントンと桶のたがを締めていた。それを見た家康ば、桶屋に頼んで桶の中へ入れてもらった。家康をかくまった桶屋は、素知らぬ顔で、またトントンと桶を叩いていた。さすがの幸村も、仕事中の桶の中に隠れているとは気がつかず、行き過ぎたので、家康は九死に一生を得た。翌日、漢国神社にお礼参りをされた時、御召鎧を奉納されたのが、この鎧だといわれる。
漢国神社の境内に、林(りん)神社という、日本で初めて饅頭を売り出し九林浄因(りんじょうしん)をお祀りしたお社がある。奈良が饅頭の発祥の地であるというと、つい、聖武天皇や光明皇后も饅頭を召し上がっていたような連想をしてしまうが、中国の饅頭はともかく、餡の入った和菓子の元祖ともいえる饅頭は、1350年に元から帰国した龍山徳見禅師に伴われて来日した林浄因の工夫によるものと伝えられる。
元来、中国における饅頭の始祖は、三国時代の諸葛孔明だといわれる。孔明が率いる蜀の軍が、中国南方を平定して蜀に帰る途中、暴風雨のために濾水という川が氾濫して渡ることができなかった。
地元の孟獲という将が、「ここは蛮地であるから邪気が強く、49人の人間の首を切って神に捧げなければ川を渡ることはできない」と言った。しかし、孔明は部下を殺すに忍びず、首の代わりに、小麦粉をこねたものの中へ牛や羊の肉を入れて人間の頭の形を模したものを四十九個作って川の神に奉ると、翌日、氾濫は治まり、孔明の軍は無事に川を渡ることができたという伝説がある。蛮地における儀式に、人の頭の代わりに用いられたところから、蛮頭だったのが、饅頭になったという。
ところで、日本に来た林浄因は、奈良に居を定め、中国のマントウにヒントを得て、「饅頭」を作り始めた。肉や脂が入ったものは仏様にお供えできないので、小豆を煮詰めて甘葛と塩で味を調えたものを、小麦粉で作った皮に包んで蒸し上げたのが、我が国の饅頭の始まりと伝えられる。フワフワした皮の柔らかさ、餡のほのかな甘さは、人々が初めて口にする美味しさで、「奈良饅頭」として大評判になった。評判が評判を呼んで、後村上天皇に饅頭を献上することになった。饅頭はいたく天皇の御意にかない、浄因は、その後たびたび宮中に召され、天皇より官女を賜ったそうである。その結婚式の時、紅白の饅頭を各所に配り、その一組を、子孫繁栄を願って、丸い石の下に埋めたのが、林神社の裏に今も残っている「饅頭塚」だという。代々砂糖屋を営む我が家にとっては、恩人の神様である。
良き配偶者を得た浄因は、日本に帰化して、漢国神社社頭の林小路で店を開いていたが、門前市をなす大繁盛で、「日本第一番饅頭処」の看板を許されたそうだ。
昭和61年10月24日、林浄因から34代目の子孫が経営する塩瀬総本家によって、浄因の故郷、杭州西湖のほとりの聚景園に建立された、林浄因の顕彰碑の除幕式が挙行された。日本からは、梅木林神社宮司、上村奈良菓子工業組合理事長、福岡副理事長等、51名が出席して、日中の菓子業界の親善を図られた。林家のご子孫が、今なお、宮内庁ご用達の菓子舗として繁栄しておられるのは、誠におめでたいことである。
林神社では、毎年4月19日、例大祭(一名「まんじゅう祭り」)が執り行われる。奈良県をはじめ全国から菓子業者が集まり、祭りは盛大に催される。
また林家は印刷の祖でもある。
林浄因より七代目の子孫、林宗二は、室町末期から桃山初期に活躍した知識人で、歌道にも優れていた。中でも、百科事典の祖ともいわれる、イロハ引きの国語辞典のような「饅頭屋本節用集」を出版したので、印刷業界の祖とも仰がれている。奈良県印刷工業組合では、印刷週間中の九月十五日、顕彰祭を営み、文運隆盛を祈願している。

奈良町の伝説 「漢国神社と林神社」 増尾正子



漢国神社

漢國(かんごう)神社は、推古天皇の元年(593)、勅命により大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が大物主命(おおものぬしのみこと)を、その後、養老元年(717)には藤原不比等公が大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を合祀。古くは春日率川坂岡社(かすがいさがわさかおかしゃ)と称す。本殿は三間社流造・桧皮葺で桃山時代の建造物で奈良県指定文化財。
境内には、室町時代のはじめに中国から渡来し、わが国に初めて饅頭(まんじゅう)を伝えた林浄因(りんじょういん)を祀る林神社がある。

社頭掲示板



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