人家に埋もれた街中の小社。豊臣秀吉が聚樂第を築いたとき、福井綱長井の二坐を合祀してその第内にあつたが、廃第後、現在の地に移したと伝え、水神として崇敬されている。 福井神・綱長井神はいずれも井戸の神で、元は宮中の井戸を守護する神であったとされる。 天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったとされる「洛中洛外図屏風」では、すでに現在の場所において福長神社が確認される。 |
参拝のしおり 縁起(水神)謹んで按ずるに当社はもと一条猪熊に鎮座ましませる座摩巫祭神五座(生井神、福井神、綱長井神、波比伎神、阿須波神)の中 豊太閣 聚楽邸を起さるる際し(天正十五年)福井綱長井の二坐を合祀し、其の二字を取り福長大明神として当町に遷されたるものなり。 (神社記録)往古 諾冊 二神 多くの神を生み、萬物を掌るべき を分かち授け給ふ、其の中 生井、福井、綱長井、三社の神、御井の神として吾人の飲料を守護し給ふ。我国唯一無二の水神なり。 (大日本神祇史 人皇六十代醍醐天皇 御宇 今を去る千百余年前)延喜式修せらるるに及んで大いに神祇祀典の制度を明らかにせられし時、朝廷の記録に載せらるる神社三千百三十二座、其祭神に依て大、中、小の別を立て奉幣の数を定めらるや当社は実に中祀に属し奉幣の儀式最も厳かなりき。然るに時世の変遷に伴ひ、報本反始の観念衰ふると共に廃頽を来たし今や僅かに告朔のki羊も営なまざる微小の祀社の存するに至るなり矣 (注)kiは食扁に氣 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
福長神社 本社は福井神、綱長井神、稲荷神を祭神として祀る。社名は、福井、綱長井の二神を合祀することによるが、稲荷神も合祀することから「福長稲荷」とも呼ばれた。 福井神と綱長井神は、平安京大内裏内の神祇官西院(現在の大宮竹屋通辺り)に祀られていた延喜式内社、宮中神の座摩巫祭神(いかすりのかんなぎのまつるかみ)五座(生井神(いくいのかみ)、福井神(ふくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)、波比祇神(はひきのかみ)、阿須波神(あすはのかみ))のうちの二座である。 現在の地に遷された経緯については、社伝によると天正年間、豊臣秀吉の聚楽第造営、あるいは廃城の際と伝えられるが、天正2年(1574)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる洛中外図屏風(狩野永徳筆)には、すでに現在地に福長神社が描かれている。 天明の大火(1788)で焼失した後は小さな祠となったが、明治時代以降も「水の神」(屋敷内の井戸や泉の神)として地元の人々から篤く信仰されている。 京都市 社頭掲示板 |