隼神社
はやぶさじんじゃ
梛神社 境内社
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   【延喜式神名帳】隼神社(月次/新甞)
          (旧地)隼神社」【旧地】

   【現社名】隼神社
   【住所】京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2
       北緯35度0分11秒,東経135度44分38秒
   【祭神】建甕槌神 (配祀)経津主神
   【例祭】11月17日 隼神社例祭
   【社格】
   【由緒】貞観2年(860)6月15日従五位下『日本三代実録』
       貞観7年(865)6月4日従五位上『三代実録』
       貞観10年(868)11月17日従四位下『類聚国史』
       貞観16年(874)8月4日従四位上『三代実録』
       天慶3年(940)9月4日従三位『日本紀略』
       久安6年(1150)正月16日奉幣帛於東三條角振隼神社
       康和2年(1100)7月6日奉渡東三條二角神『大府記』

   【関係氏族】
   【鎮座地】大正7(1918)年に梛ノ宮神社に並んで祀られることとなった。
        旧地は中京区壬生御所ノ内町
        北緯35度0分21秒,東経135度44分39秒。石標有り

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「ハヤクサ」と称していた
   【社殿】本殿一間社流造桧皮葺
       社務所

   【境内社】

坊城通と四條通の両方に面した小さな境内地に梛神社と隼神社の両本殿が南北に相隣り共に南面して鎮座している。
隼神社は大正7(1918)年には中京区壬生御所ノ内町から移転された。
『都名所図会拾遺』には「古は社頭巍巍々たり、今小祠となる。世人隼をハヤクサと謬り通称し、又謬り略して瘡(くさの)神ともいう、瘡毒平癒を祈願の者土にて団子の形をこしらへ土器に盛つて神供とす、かようなる謬見所々にあり、是しかしながら心再拝の謹啓に頭を傾けぬればなとか利生なからんや、只世俗に從うて信仰すべし」とある。


隼神社記要

式内隼神社
延喜式に據れば左京四条に坐す神一産隼神社と曰うとあり、京中に坐す神三座の内にて貞観2年6月15日朝廷より従五位下の神階を贈られ7年、10年、16年、級階を累進して従四位上に位す。天慶3年9月4日従三位を給はる延喜の制に大社に列し四度官幣を受けたことは延喜式、三代実録、日本記略等の正史に記載されてあります。往昔は壮厳な大社であることが明白であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




梛神社(元祇園社)

素戔嗚尊を主神とし、宇賀御魂命、伊弉冉命,誉田別尊などを配祀する。
 貞観11年(876)京都に疫病が流行したとき、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰から勧請して鎮疫祭を行ったが、このときその神輿を梛の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀したとき当地の住人は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。これがのちの祇園会の起源といわれる。また、当社は八坂神社の古址にあたるので元祇園社と呼ばれる。維新の頃は田圃の中の一小祠であったが、明治7年(1874)と昭和4年(1929)の復興を経て現在に至った。
 境内の隼神社は延喜の制度の大社で、大正7年(1918)蛸薬師坊城からこの地に移祀された。梛神社とともに厄除け、疫病払いの神である。

社頭掲示板



【社地】

『三代実録』当時に四条に所在した後院は朱雀院であることから、当社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている。朱雀院の復元研究においても院の南西角に鎮守として石神明神・隼社があったことが明らかとなっており、当時の隼社の位置は四条大路と皇嘉門大路交点の北東角、すなわち現在の中京区壬生花井町の南西部分と推定されている。
その後、隼社は左京四条坊内坊城小路に移されたのち、大正7年(1918年)に現在地の梛神社境内に遷座した。

社頭掲示板



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