神名の傍に「本社坐大和国十市郡天香山坐櫛真〔智〕命神」という書入れがある。 久慈眞智神社は四條坊門坊城の西に在つた。 この神は、ト事主宰の神。 廃絶したものと考えられる。祭祀を継承した神社も不詳。 |
久慈真智太命神 『三代実録』貞観5年(863)12月3日の條には「在京職正六位上戌亥隅神授從五位下」とあつて、左京職がその廃舎の西北隅に一社を建てこれらの神を祀つてゐたことが知られる。左京職は左京敬業第一坊の大學寮の南に、朱雀大路の東、姉小路の北に方四十丈の地を占めて置かれてゐたことから、その西北隅といへば、その位置はほぼ現在の二條城の西南、神泉苑の西に隣る近邊に當るものと推定せられるが、今日その社壇の遺跡は不幸全くこれを見出すことは出來ない。椎るに、中古以來一般に律令制の衰退、ことには御体御占、亀ト等の儀の廃絶とともにこれらの神々の祭祀も次第に忘れられ、また平安京の衰微とも相伴なつて、その跡を失ふに至つたものと思はれる。 九條家本には「本社(坐大和国十市郡天香山坐櫛真命神)」と傍書がある。 式内社調査報告社 |
久慈眞智命神 久慈真智命は椴字也〇祭神明か也〇四時祭式上、(祈年祭條)卜定神祭二座とある一座也、 四時祭式下、相嘗祭條には、太詔戸社二座と前神の如くにも載せられて、総ては太詔戸神を主として、此神の上までは称さざりける也、されば此神を言挙せるものなし、旧説に大和国より遷せりといへり、 類社 大和國十市郡天香山坐櫛真智命神社(大月次新嘗、元名大麻等乃知神、) 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲甲、奉授左京職從五位上久慈真智神正五位下、 連胤按るに、此二柱はト庭を守り給ふが故に、遷都の時に、社を建て、大和國なるを、今の京にも奉齋れるなるべし、然て後は自から帝都に近き方を尊崇せられけむ、本社たる大和国太祝詞神社には、神位の事も見えず、対馬國なるは、やうよう正五位下に叙じ、また大和国櫛真智命神社も、別名もて從五位上を授け給ひ、共に当社には後れたり、かゝる例は古今に多き事也けり、 〇因に云、此二神を祭らせ給ふ濫觴は、祈年祭を主とせるにあらず、卜御体の時に祭れるぞ起源なるべき、さて其神を祈年にも祭らるゝ事、神舐官八神殿に同じかるべし、故その根本は、御体御トにあれば、其式文をもこゝに挙て知らしむる也 神社覈録 |