「第五姫宮(だいごひめのみや)」「五護之宮(ごごのみや)」ともいわれる。 第11代垂仁天皇が東国に発生した大干ばつを収めようと勅使を派遣して祈らせたところ、この地に大国主神が現れて雨を降らせ、乾燥した大地が潤って水量豊かな渕ができたという。その伝承が渕名(ふちな)という地名にもなっている。 |
由緒 延喜式神名帳に上野國大國神社、上野國神名帳に鎮守十二社として従一位大國神社として記される。垂仁天皇の15年9月、丹波国穴太郷より五媛「日葉酢媛命・淳葉田瓊入媛命・真砥野媛命・薊瓊入媛命・竹野媛命」奉遷して配祀神とした。称徳天皇の御代の神護景雲元年(767)、勅を奉じて当地に来た従五位上佐位采女が大国主命を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として社殿の修造した。光格天皇の文化元年(1804)、現在の社殿に改築。明治7年には熊谷県北第十六第区の佐位郡那波郡四十二ケ村の郷社に列せられた。明治40年3月25日、無格社御手洗神社・八坂神社を合祀して今日に至る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大国神社 上野国式内十二社大国神社縁起 境町大字下渕名字明神鎮座 祭神大国主命 配祀神 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁帝皇后、眞砥野媛命、筋瓊入媛命 外三柱 罔象女旧御手洗神社祭神、素盞嗚命、事代主命旧八坂神社祭神 延喜式神名帳に上野国大国神社あり上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。 縁記に曰く人皇第11代垂仁天皇の9年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ東国には百済車臨遣はされて車臨この地に来り老松の樹下に宿る之即ち御手洗の亀甲松であった。偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふに叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。汝は誰だと車臨容を正して吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である願くは国家の為に大難を救助し給へと翁唯々と答ふ言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。 因ってこの郷の名を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。仝年15年丙午の年9月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した此の時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内大須賀左内生形権真人石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。 後称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅に奉して上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し仝42年2月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。 世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は2476坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山遠くは常陸の筑葉山と相対し遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云之。社前は延徳2年庚戌4月16日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、本御手洗の社前より移したものといふ。 祭日 大祭 10月22日 中祭 3月29日 小祭 7月25日 大祭は古来獅子舞の神楽を演じ奉納する習あり 午時 昭和55庚申年10月22日 平成9年10月吉日 総代長 新井昭二 社頭掲示板 |
大国神社の石幢 指定重要文化財 大国神社の石幢 昭和42年2月10日指定 村の人たちが、「御手洗の后燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畔で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。 石幢は鎌倉時代に中国から伝えられ、日本では幢身にじかに笠を乗せた単制のものと、当石幢のような石燈籠ふうのものが発達した。石幢は仏教でいう「輪廻応報」「罪業消滅」という人々の願いをこめて建立されたものと考えられ、ガン部と称する部分を火袋として点灯し浄火とした。 全体では、自然石の芝付の上に大きい角石の台座を置き、その上に竿塔・中座・火袋・屋蓋・相輪と積み重ねられ、台座からの総高は2.38mもある立派なものである。特に中座と火袋がよく安定した感じを出し、屋根の流れと軒反りのはね方は室町時代の作風をよく表わしている。また輪廻車が当石幢にもあったらしく条孔が残っている。 笠部には磨滅がひどく定かではないが、次の銘文が読みとれる。 本願主法名 清本秀行 延徳二年庚戌4月16日 願主の清本秀行なる人物については全く不明である。また火袋に日月と梵字があったと考えられる。 社頭掲示板 |
下淵名の獅子舞 伊勢崎市指定重要無形文化財 下淵名の獅子舞 平成18年6月15日指定 下淵名大国神社の獅子舞は勇壮活発、かつ格調高い舞と評され、平佐々良・畏まり・橋がかり・雌獅子隠しの四種類が伝承されています。 流派は火挟流と言われ、栃木県の文挟村(現日光市)に起り、足尾を通り、銅街道沿いに下淵名に伝えられたものと考えられています。一人が一匹の獅子に扮し、法眼・雌獅子・雄獅子の三人一組が連れ舞います。かつて、夕方から盛んに獅子舞を披露したことから、この獅子舞を夕がかりと呼ぶことがあります。 毎年10月最終の日曜日の大祭には、村回りを行なった後神社に奉納されます。村回りでは所々でシャギリを上演し、神社に奉納する際には祭礼棒が先陣を清めます。 道具の収納箱には正徳元年(1711)と書かれていることから、この頃には諸道具類が整備されていたことが推測でき、獅子舞の起源はこれを遡るものと考えられます。 平成24年3月 伊勢崎市教育委員会 社頭掲示板 |