機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。 |
由緒 当社の御祭神は天羽槌雄命で天の岩戸開きに功績のあった神としてその子孫の倭文氏が誇りを持って崇め織物・養蚕・農耕の神として崇敬されている往古の名社として貞観元年(860年)に官社に列せられ従五位を授けられる。その後、延長5年(927年)に延喜式神名帳に倭文神社の名が載せられたその創建は11代垂仁天皇の年と伝えられている。その後、戦国時代に兵火にかかり荒廃し江戸時代になり寛永年間(360年前)に再建され真言宗慈眼寺実秀が別当に定められ慶安元年(340年前)朱印地十石を下賜され将軍吉宗の許可を得て江戸府内を始め上野の国内からも浄財の寄進を仰ぎ社殿・鳥居などが再建されたが慶応3年11月19日火災により灰燼となってしまった。現在の社殿は明治13年10月14日に再建されたもの。 ◆田遊祭(神事)…中世祭祀のおもかげを残す行事にて、1月14日午後6時ごろより開始される。笹振り四人、長持ち二人、太鼓持ち二人、太鼓打ち一人の人達が、白装束を着て神官は社殿で祝詞を奏上し、その時一同も参列し終ると神官、区長、副区長、総代が提灯を回して、太鼓に合わせて御神歌を歌いながら祭り事を行う。 ※田遊神事の神歌…えーとう/えーとう/えーとう/前田の鷺が御代田にぎろり/ぎろぎろめくのは/なんだんぼ/一本植えれば/千本になる/唐々芒子の種//えーとう/えーとう/えーとう/乾のすまの/掃部の長者/つじゅう十石ざらり/ざらざらめくのは/なんだんぼ/一本植えれば/千本になる/唐々芒子の種 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
倭文神社略由緒 倭文神社略由緒 鎮座地 伊勢崎市東上之宮町380番地 延喜式内 上野十二社 九之宮 主祭神 天羽槌雄命 配祀神 倉稻魂命 木花咲耶姫命 譽田別命 菅原道眞命 大己貴命 素盞嗚命 豐受姫命 大山祇命 菊理姫命 当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第11代垂仁天皇の御宇3年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録)その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって上野国の九之宮とも称された。 その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615〜23)から寛永年間(1624〜43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光のれ慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約80年を経て、享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。 現在の社殿はその後、明治13年10月24四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正14年には、神饌幣帛料供進社に指定された。 今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。 社頭掲示板 |
倭文神社 伊勢崎市指定重要無形民俗文化財 倭文神社の田遊び 平成19年8月17日指定 倭文(しどり)神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年1月14日に行われる田植えの予祝行事です。 笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌を奉唱しながら鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行します。戻ると再び鳥居に整列し.鳥居と拝殿の間を三往復します。 昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるとされていました。 この田遊びの、ご神歌は中世期まで遡り、貴重です。 御神歌 工ートウ、工ートウ まえだの鷺が御代田にぎろり ぎろぎろめくのは なんだんぼ 一本植えれば千本になる とうとうぼうしの種 工ートウ、工ートウ 乾(いぬい)のすまの掃部(かもん)の長者 つじゅう十石ざらり ざらざらめくのは なんだんぼ 一本植えれば千本になる とうとうぼうしの種 平成20年3月1日 伊勢崎市教育委員会 社頭掲示板 |