火雷神社
からいじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】火雷神社 上野国 那波郡鎮座

   【現社名】火雷神社
   【住所】群馬県佐波郡玉村町下之宮524-1
       北緯36度18分10秒、東経139度9分5秒
   【祭神】火雷命 (配祀)那波八郎 保食命 菅原道真
       度會延経『神名帳考証』「陽霊火産霊命、香々背男」
       明治神社明細帳 火産霊命

       当社は水神・雷神・農業神という同一の属性からなる自然信仰に由来するものであろう。

   【例祭】4月3日 例大祭
   【社格】旧郷社 上野国八宮
   【由緒】崇神天皇元年創祀
       延暦15年(796)8月官社「日本後紀」
       延久4年(1072)神殿造営
       延元元年(1336)8月新田義貞幣帛
       康永2年(1343)社殿再築
       貞治3年(1364)那波教元社殿修復
       天正18年(1590)那波氏滅亡により衰微
       正保2年(1645)築造
       明治5年7月郷社
       同39年12月神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】上毛野君(朝臣)の同族と佐味君
   【鎮座地】天文年間洪水のため現今の地に神社を遷
        旧社地は「本村ノ西北隅古ヘハ字黒木ト云フ、今変遷シテ山林トナリ上田ト云フ」

   【祭祀対象】雷神など自然信仰
   【祭祀】江戸時代は「火雷天神宮」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神樂殿・水屋・社務所

   【境内社】飯玉神社・蚕霊神社・八坂神社
   【旧別当】東林寺

上州名物の一つ火雷神をまつっている。
麦蒔コジンジ(御神事)は火雷神社に伝わるお祭りで物忌祭と思われる、貞観4年(862)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの神事を行い、今日まで伝え行っている。
上野国の式内社は、賀茂・美和・倭文・火雷など、大和の国から遷されたと思われるものが多い。


火雷神社

この神社は、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神をまつってある。
景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、平安時代の延暦15年(796)官社となり、延喜の制では小社に列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神とかかれている。
鎌倉時代の始め、建久2年(1191)大江広元の子政広は那波氏となり、その後佐波郡地方の領主となって四町歩の田を神社に献じた。
天正年間那波氏の滅亡で神社も衰えたが、明治5年(1872)郷社となった。現在の建物は、江戸時代中期以降の建造で本殿は三間社流れ造りである。また、伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源ともなっている。
麦蒔ゴジンジ(御神事)−火雷神社に伝わる祭りで、貞観4年(862)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝え行なっている。旧暦10月末午の日丑の刻に神官が礼拝を始めると代表が神社の四面にシメ縄を張り、神官が退出する時に丁度張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎し、シメ縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止(馬がいた時は鈴もはずした)であり、シメ縄を張るのを「ゴジンジに入る」という。深夜に行なわれるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる。

社頭掲示板



火雷神社

延喜式内上野十二社火雷神社略記
一.鎮座地 郡馬県那波郡玉村町大字下之宮524番地
一.社名 火雷神社
一.祭神 火雷神(主祭神)
配祀神
保食命 菅原道真命 那波八郎明
火産霊命 大物主命 建御名方命
誉田別命 素盞鳴尊 高於賀美命
字迦御魂命 大日霊貴命 少彦名命
一.由緒
当社は第10代崇神天皇元年創立東國太都督御諸別王の尊信あり。
桓武天皇延暦15年8月官社に列せられ、官幣に預かる村上天皇天暦2年5月三条天皇長和年中国祭に預る。後当郡の領主那波氏累世尊崇甚だ厚く宏大な社殿造営奏り、四季の祭典を興し宝作無窮国家安泰を祈らる。後現在に改む。又新田義貞幣帛神殿を奉りて武運復興を祈らる。
当社に古来神事あり。清和天皇貞観4年より毎年陰暦10末の午の日夜丑の刻秘密神事を行う。灯火を用いず微声を以て祝詞を奏す。 翌11月初の午の日迄境内に注連縄を張り参拝者の出入りを厳禁、過ちて犯し入る者あれば忽ち大風或いは雷鳴を起こすと云う。
而して此の神事中は村中鳴り物高声を禁じ各謹慎す。
古より伝えて那波の御神事と云う。
一.祭日
4月3日 例祭(年1回大祭)
10月17日小祭
昭和46年10月吉日記

社頭掲示板



水舎

当社は火雷神を主祭神とし配祀神として学問の神様である菅原道真命を御祭りしてあり、昔より多くの人々の信仰を集めている社であります。
この水盤は道真公が特に好んでいたと云われる梅の花の形を基礎として造られたものです。
鬼瓦にも梅花を配し道真公をしのんでいます。
享保12年(1727に)造られたものであります。水屋は平成12年3月改築を行い現在に至っています

社頭掲示板



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