赤城山の旧噴火口大沼の南畔に鎮座していた。 現在の鎮座地はかつては厳島神社が祀られ、竜宮城とも呼ばれており、大洞の弁天宮脇から、船で渡り参拝していた。 昭和45年に赤城神社が御遷座され、現在は神橋を歩いて渡り、御参することができる。 |
由緒 所謂上毛三名山中、最も雄大にして極めて幽邃千景万趣、超、凡脱俗人をして自ら霊化するを覚えざらしむるもの赤城山とす。山は勢多郡北嶺の総称にして利根郡の陽を蔽い、海抜1820m、山頂は黒桧山(当山中最高)神庫岳(地蔵岳と呼ぶ。大神の神宝を納めし所)荒山、鍋割山、鈴ケ岳(以上をあかぎ五峰という)等数峰に分れ、その中央に大湖あり。旧噴火口にして澄碧の水、万古の神秘を湛えて万象をうるおす。赤城湖(大沼、一名くずはだか又は石垣沼ともいう)と言う。湖東一小島あり。原始的樹木繁茂し苑然湖中に浮べるが如し。小鳥ケ島と(赤城神社所有)名づく。元神社は湖の南畔に鎮座し、神苑には老樹うっそうとして千歳の翠滴り、現在飛地境内地なり。350有余年を経て社殿荒廃につき、昭和45年7月、小鳥ケ島に改築す。 赤城大神は上古より当国に鎮まります。創始は上古即ち崇神天皇(人皇第十代紀元564年)の御宇、皇子豊城入彦命、毛野国に入るや天神地祇をまつり尚国土経営主神大国主命を奉斎し東国の経営を祈り、また疫病絶滅祈願のため初めて此の山に勧請し給う。元の社殿は、平城天皇の御宇即ち大同元年の造営なり。(人皇51代紀元1466年) 赤城湖は元慶4年、上野国赤城沼神として信仰せられ、特に従四位上授かる。また宝暦13年正月9日、正一位を授かる。(三代実録記載による)爾来、大沼、小沼は赤城神社の神領にして、群馬県庁永年保存公簿、明治10年、群馬県庁地理課調査社事境内取調帳(抜粋)によると、大沼一一四丁一反六畝三十歩、小沼三十四丁三反二畝一歩とあり、沼神として実に信仰偉大なるものあり。 是より遥か後、天文の頃剣術諸流の祖、上泉伊勢守秀綱、大神を信仰し妙術を得たり。徳川時代に至り特に幕府は前橋城主に営繕を命じ、笠間明玄、長野、長尾謙忠、平岩氏、酒井氏、松平氏相次いで前橋城主となり、代々崇敬厚く、中でも三代徳川家光公は藩主酒井河内守重忠公に社殿営繕仰せつけ、また酒井雅楽頭忠世赤城山御願御成就上、社頭不残又御建立仰付。酒井雅楽頭御代寛永18年巳3月、一山を炎焼仕侯に付き社頭不残御建立旨仰付侯、御番人差置侯事「姫陽秘鑑」(姫路酒井藩の記録)中「神祇」の項による。 先の酒井雅楽頭忠世上田三反三畝十八歩寄進す。また、重臣川合勘解左衛門は寛永11年6月、同川合左近は明暦3年6月に各鉄弓を奉納す。また城主歴代、毎年米二十包献り、大祭には城主自ら奉幣せられ、尚また水千病災等に際しては、五穀豊熟、無病息災の祈願の執行を例とす。 かかる故、当国は言をまたず、近国に至るまで衆庶の崇敬深甚にして上野国大鎮守と称え奉り、其の信徒は五百二十余村に亘れり。登山口八か所の鳥居も当時の信者の奉納なり。当神社の分社は各地にあり、中でも文明年中城主笠間明玄氏厩橋城築城の際、城の未申方分社建設これを敬奉し、その他各地に有り。 以来明治維新廃藩に及び、各社請願により合併す。明治20年より明治43年の間に近郷の八か村二十二神社末社九十八柱合併す。 元の社殿、本殿、幣殿、楽殿、長屋門、末社五社、厳島神社(小鳥ケ島)弁天社以上の建物は寛永19年、前橋城主酒井雅楽頭忠清公再建のものなり。昭和45年7月、社殿荒廃につき、元の社殿跡小鳥ケ島に改築する。 旧4月8日(卯月8日)現在5月8日、例祭並びに赤城山山開き祭りが行われる。山頂黒桧山、神庫山、荒山、鍋割山、鈴ケ岳に向かい神社より山清の御使者が登り、登山者、山の無事安泰とその年の天災除けを祈り下山する。 8月8日には例夏大祭として大沼神を奉斎の神事として沼神に神饌を奉り、湖上には数百の灯篭流しや、盛んな行事が行われる。また、元の神社殿より御神幸の行事が執り行われる。特に無病息災、五穀豊穣祈願の行事が行われる。婦人の祈願があり、成就には緋鯉を数尾沼神に供える県下でも珍しい神事がある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
赤城神社由緒記 上毛三山の雄赤城山は標高1828m関東平野北部に君臨する最初の霊峰である東西に長く裾を引く気品ある山容は古代神霊の宿る山として崇められたのも故なしとしない山頂の大沼小沼は千古の神秘を湛え全山原始の面影をとどめ幾多の信仰と伝説を秘めてきた一方遠く万葉の歌人に詠まれてから今日まで幾多知名人の文筆と彩管によって天下に紹介されてきた誇り高き山である 古代の自然神は赤城大明神と沼神の赤沼大神として祀られたと考えられる第十代崇神天皇第一皇子豊城入彦命が東国経営の大任を帯びて上野国に移られた時すでに山と沼の霊を奉斎したと伝えられ更に允恭用明両天皇の御宇社殿を創設し平城天皇大同元年に山頂大洞に神域を定めて遷座奉斎すると伝えられる 尓来朝野の崇敬を受け戦国時代の前橋城主をはじめ天正十八年の平岩氏慶長六年の酒井氏寛延二年の松平氏とそれぞれ崇敬し特に後に幕閣の大老職に就いた酒井雅楽頭忠清は寛永十八年三月山火事によって類焼した社殿を新造営し併せて神田を寄進し松平氏もまた毎年祭粢料を献し奉幣使を派遣するを例とした 江戸時代に徳川家康公を合祀し大洞の赤城神社として山麓諸村の信仰によって守られ 明治時代に入り赤城山が観光客を迎えるようになると一層有名になったが社殿が頽廃したため昭和40年新たに神域を小鳥ケ島に移す議が起こり昭和45年旧社地大沼南畔の大洞より現在地に奉遷したことは碑陰の遷宮の記に記した通りである 祭神 赤城大明神 磐筒男命 磐筒女命 豐城入彦命 経津主命 大己貴命 徳川家康公 大山咋命 高おか命 市杵嶋姫命 豊受大神 建御名方命 祭神 5月8日 山開祭 境内地神域 14800 8月8日 沼神祭 社殿建坪 38坪 10月1日 秋 祭 社務所参集殿 93坪 社頭掲示板 |
【由緒】 赤城神社は、主祭神に赤城大明神・赤城山と湖の神様をお紀りし、古来人々の守護神として信仰されてまいりました。 清らかな頂きから流れる水は、生命に命を与え、田畑の稔りをもたらします。 また、勇壮なる山なみは力強さを、四季折々の景色は優しさと美しさをあらわし、その山容と景観、神秘的なたたずまいは、仰ぎ見る人ぐの心を捉えてまいりました。 その信仰は、太古に遡り設立年代は不詳ですが、大同元年(806)に小沼から見上げる神庫岳(後の地蔵岳)の中腹より、大沼の畔に御遷宮されたという記録が残されております。 この年号に因み、この地を大洞と名付けたのです。 この時、小沼の畔にも小沼宮(豊受神社)が建てられております。 神仏習合期には、はば広い信仰を集め、神社の規模も大きく発展し御神域も赤城山全体におよぶほどになり、朝廷より御神位を賜り、承和6年(837年)にはじまり、元慶4年(880年)には赤城沼神として昇叙し、長元年間(11世紀)には正一位に叙せられております。b 江戸時代に至り、相殿に東照大権現・徳川家康公をお紀りし、将軍家をはじめ諸大名の信仰厚く、三代将軍徳川家光公は寛永19年に、社殿の再建を命じられました。 また、厩橋(前橋)城主は、自ら大祭に参列され、平和と安全を祈願されておりました。 厩橋城内をはじめ、各地に分社が勧請され、山開き例大祭には近隣の村々や、遠く、武蔵・安房・上総・常陸・越後の国々からも参詣者が訪れました。 赤城山の登山口八か所に、烏居が設けられ、これらは、近隣の村人によって奉納されたものです。 このうち、厩橋城主が登拝した参道の烏居(前橋よりの登山口)を、一の烏居と呼んだのです。 この頃、神祇伯白川家より「上野國総社大洞赤城神社」吉田家より「正一位赤城大神宮」の称号が贈られております。 これは、当時の赤城神社への信仰のほどを物語るものです。 明治20年〜43年の間、小沼畔・豊受神社、小烏ヶ島・厳島神社、黒檜山頂・高於神神社をはじめ、赤城山内の神社を合紀いたしました。 寛永19年(1642年)徳川家光公の命により再建された社殿は、三百年以上に亘る赤城山の厳しい気候により荒廃したため、昭和45年、凡そ千二百年鎮座した大洞の地をあとに、小烏ヶ島・厳島神社の跡地に御遷宮されました。 平成18年(2006年)大洞御遷宮千二百年祭を奉祭斎し、社殿の修復と境内地の整備が行われております。 公式HP |