赤城山の自然信仰に発するといわれ、6世紀中頃は赤城山南麓に大型古墳が築かれ、上毛野君の奉齋神として発展したものと思われる。 この地が当初の鎮座地と思われる。 |
由緒 創立年代は不詳。 社伝では人皇11代垂仁天皇の御宇に創建されたとつたえられていますが、この地は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されていることは往古より信仰と共に栄えた証であります。 赤城神社に関する文献の初見は「続日本後期」承和6年(839)で、上野国無位赤城神に従五位下が奉授された記事があり、以後「三代実録」では四回にわたり赤城神の神位昇授が記され、「上野国交替実録帳」には正一位赤城明神社とあります。 平安後期には全国に「一宮二宮」の格付けがおこなわれはじめましたが、当社は上野国の二宮として(地名にもなり)現在に至っています。 又、次のような伝説も有ります。 あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので思案の末、貫前の神は外国から来て機織が上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。 そこでこのような技術をもった神が他国へ移ってはこまるので、赤城神社は一宮であったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。 つまり貫前の神は帰化人の神であったと見ることができます。 それにひきかえ赤城の神は上野国の土地に以前から住んでいた人々が祭っていた神です。 そして、この頃は少なくとも赤城神社の方が貫前神社よりも広く一般から信仰され、崇敬が厚かったことを物語っています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
二宮赤城神社 当社は、第10代崇神天皇の皇子「豊城入彦命」「大己貴尊」を始めとし、数柱の神々を祭神とし、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇の時代に創建されたと伝えられる古社である。特に、古代豊入城彦を始めとした毛野氏の子孫上野氏と深い継のあった社とも伝えられている。 平安朝初期の第54代仁明天皇の承和6年(829)に従5位下に叙されて官社となり、続いて昇叙を経、第60代醍醐天皇の延長5年(927)に制定された「延喜式」内、上野国12社中の名神大社とされた。第68代後一条天皇の長元元年(1028)頃の上野国の国司文書中に、正一位赤城大明神、上野国神名帳には、上野国に赤城大明神などの神位、神階が記録されている古名社であった。第70代後冷泉天皇の永承4年(1049)には、日本全国の諸社中から55社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となり、当社もその1社として、社域内に造塔の折り、心礎(値巻石)内に仏舎利が奉納されていたのである。 鎌倉時代には征夷大将軍源頼朝の崇敬を受け、建久5年(1194)当社などの修築を、守護職安達盛長に命じ、二宮太郎淺忠、岡部九内忠成らが修築を奉行したり、百石を寄進したという記録も見られる。戦国時代に小田原城主北条氏政の軍勢によって、数多くの建物は打ち壊され、壊滅的被害を受け、宝物類も多く失い衰微した。天正8年(1590)北条氏滅亡後、領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠城、康成父子を始めその後厩橋藩主となった酒井氏歴代、江戸時代幕府の天領代官藩主松平氏歴代更に住民に篤く尊崇されてきた、そして赤城南麓地帯の関連神社の中心的役割を果たしていた。 社頭掲示板 |