当地は貫前神社の創建の地として知られている。 安閑天皇の元年(531)物部姓磯部氏が蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めた。 |
由緒 往古、経津主神が建御名方神を追って、上信両国の境である上州下仁田の荒船山に出陣の際、当地(鷺宮)宿陣されたと言われている当神社は上野国神名帖に「従五位上咲前明神」と記され由緒ある神社である。 白鳳元年(672年)3月、下総国香取神宮経津主神を鎮座し先宮明神といわれ、万延元年(1860年)10月に前宮神社となり、明治11年から咲前神社と称するようになった。 咲前神社のいわれは抜鉾神社(一の宮貫前神社)の旧鎮座地(前宮)伝えられている。 太々神楽(安中市重要無形文化財) 文化12年(1815年)におこなわれ、笛吹き三人、太鼓一人、鉦鼓一人、舞者七人で構成され、演奏にあわせて舞を神話にもとずき十二座が上演される。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
咲前神社 御社号 咲前神社 社格 上野国神名帳 従五位上・吉田神祇菅領宗源宣旨 正一位 旧碓氷郡東横野村 村社、神饌幣帛料供進指定社 鎮座地 群馬県安中市鷺宮3308番地 御祭神 健経津主命(たけふつぬしのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 保食命(うけもちのみこと) 由緒 当鎮座地は神代、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が健御名方神(たけみなかたのかみ)を追って上野国と信濃国の国境の荒船山に御出陣の時の行在地であると伝わる。 安閑天皇元年(534)6月、初の申の日に神石「雷斧石」三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したところ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾(ぬきほこ)大神「健経津主命」をお祀りし、社を建てられた。 それ以後、磯部朝臣が祭司を司った。敏達天皇元年(572)、第3代磯部朝臣小倉邦祝は磯部郷小崎の里に居を構え、以降小崎を名乗る。 白鳳元年(650)、第11代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘菖蒲谷に御遷座する。 供奉の道筋では、七五三原(しめきはら)でまず神事があり、明戸坂で夜明けがあり、宇田で御旅所となり御遷宮された。現在の一之宮貫前神社である。 磯部郷前宮(さきのみや)跡は、先の宮として崇め咲前神社が祀られた。この時改めて香取神宮より経津主大神を勧請し大己貴命(おおなむちのみこと)、保食命(うけもちのみこと)が祀られた。以後の祭祀を藤原姓和太氏が司る。v 平安朝後期に成立したと思われる『上野国神名帳』には、「碓氷郡 従五位上咲前明神」と記され、ご分霊として「片岡郡従五位上咲前明神」が見える。 室町期には、応永8年(1401)1月7日、足利満兼により新田庄平塚郷一町が寄進されている。 経津主大神は、神剣の神格化の神であり、当地に東国平定と開拓の為に祀られた建国の祖神である。神剣の神威により、除災招福・開運厄除・身体健全を祈り、国土開拓に地を鎮められる。 また、養蚕守護、子育て安産の神として古くより信仰され、春祭には、多くの善男善女で境内が殷賑を極める。 公式HP |
咲前神社 当鎮座地は神代、経津主大神が健御名方神を追って上野国と信濃国の国境の荒船山に御出陣の時の行在地であると伝わる。 安閑天皇元年(534)六月、初の申の日に神石『雷斧石』三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したところ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾(ぬきほこ)大神『健経津主命』をお祀りし、社を建てられた。 それ以後、磯部朝臣が祭司を司った。 その後、白鳳元年(650)第十一代小崎邦平、神託により蓬丘菖蒲谷に御遷座し、貫前神の鎮座となり、磯部郷前宮跡を先の宮として崇め、改めて咲前神社が創建された。 由緒書き |