南西に円錐形の小坂山(181.6m)があり、当社祭神の「御肴」と伝える。 当社は石との関係が深いとされている。(1)神体は石である。(2)鎮座地を「石原」という。(3)東方鳥川中に、上流より「聖石)」「赤石」「川越石」の三石があり、古代祭礼と結びつくと言われている。 中世兵火で衰亡したが、正徳の頃武藏五社の祝人笠原豊前が、此地に来て小祝の社を尋ね、この地にあった石祠を小祝神社として再興した。 |
由緒 当社は、「延喜神名式社上野国片岡郡一座小祝神社」として国内神名帳に正一位小祝明神とあり、記録に元慶4年5月25日、授上野国正五位下小祝神正五位上勲十二等とあり。また、神道集に上野の七宮に数えられて、その稜威は国史に輝きつたえり。高崎城主代々は崇敬厚く、中でも安藤対馬守重信、間部越前守詮房等は特に崇敬せられたり。正徳年中、間部越前守によりて神殿を造営されたのが、現在の御本殿である。明治5年、社格御制度により第五大区郷社に列記せられ、明治41年6月18日、許可を得て、本殿内に少彦名命他二十柱を合祀せり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
小祝神社 小祝神社は片岡の鎮守として、また安産・子育守護神として崇敬篤い社である。 神社の創建は不詳であるが元慶4年(880)に正五位が贈られ、延長5年(927)の延喜式神名帳に上野十二社の第七社に加えられており、その時からでも千年以上たっている。 祭神は、「少彦名命」で医薬及び穀霊神であるところからこの土地の豪族が、悪疫退散・五穀豊穣を祈願して建立したものと思われる。現在の社殿は江戸時代の正徳年間、高崎城主 間部越前守詮房により造営されたものである。 4月と10月の祭典には、神楽が奉納され多数の参詣者で賑わう。 境内には、 しばらくは 花の上なる月夜かな の芭蕉句碑がある。 社団法人 高崎市観光協会 社頭掲示板 |
小祝神社 高崎市指定重要文化財 小祝神社本殿 附享保元年棟札・享保二年奉納額・享保四年寄進銘 小祝神社は『延喜式神明帳』に記載された小社で上野国十二社(式内社)の一つである。主祭神は少名彦命(すくなひこなのみこと)である。 現在の小祝神社社殿は拝殿(はいてん)・弊殿(へいでん)と本殿(ほんでん)が一体となっている。しかし、拝殿と幣殿は後から建てられたものであり、本殿は建設当初は単独で建っていた。 間部家文書と奉納額により、正徳三年(1713)に建て替えの企画が始まり、享保2年(1717)に上棟したことが明らかである。また、棟札と彫刻バネルの墨書より、享保元年に起工し、享保5年には竣工していたと推定できる。棟札によれば大工棟梁は大塚彦平、木挽(こびき)は高橋嘉助であり、共に高崎町住である。 当本殿は、三間社入母屋造、側面三間で向拝(こうはい)三間を付ける。屋根は銅板葺(当初は檜皮葺または柿葺(こけらぶき))とし、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)とする。向拝は海老虹梁(えびこうりょう)で繋ぎ、手鋏(たばさみ)を付ける。大床を正側背面の四方に廻し、脇障子を立てる。内部は前方二間を外陣、後方一間を内陣とし、内陣に厨子を安置する。 背面の一部とはいえ、建造当初から壁面に彫刻バネルを嵌め込む例として現時点では県内最古である。当本殿は高崎市における文化財指定の神社本殿建築として最古であり、また、彫刻パネルを嵌め込む建物の年代判定の指標となる建物として貴重である。 所在地高崎市石原町1247 指定平成14年2月20日 高崎市教育委員会 社頭掲示板 |
小祝神社 高崎市石原町に鎮座する小祝(おぼり)神社は、烏川に架かる聖石橋(ひじりいしばし)の南方に位置し、上野国12社のうちの1社で1500年以上経っている由緒ある古社です。創建年代は不詳ですが、『三代実録』の元慶4(880)年5月25日の条に「正五位上」に昇叙(しょうじょ)されたとあるので、これ以前、奈良時代には当地に鎮座(ちんざ)していました。神社の付近には、5世紀前半に築造された三島塚(みしまづか)古墳、6世紀後半に築造の石原稲荷塚(いなりづか)古墳をはじめとする多くの古墳があり、小祝神を奉斎(ほうさい)した氏族に関連するものでありましょう。 祭神は「少彦名命」(すくなひこなのみこと)で医薬神であります。安産の神、無病息災、医薬の神として数少ない神社のひとつであり、古来より多くの崇敬者が信仰しております。病気にかかると神社に来て祈祷を受け、お札を受けていくと難病も和らぎ、良い方向に向かうと祈願者が増えております。 公式HP |