社伝によると神社の創立は古く平安中期に遡り、東牟婁郡本宮町大斎原に鎮座していた天手力男神社を、現在の和歌山市神波字桑畑に勧請したのに始まるという。 |
由緒 本国神名帳には従四位上両、手力男命元は旧海草郡神波村領地に鎮座していたが、中古上野村八王子社境内に遷し、寛永3丙寅年3月、神託に依り、両社とも此地(和歌山市川辺字稲井61番地)に遷座する。寛永記に八王子社は、嵯峨天皇弘仁年中に建立したものと云われている。 古は神地十五町余を所有していたが、天正年中、豊臣氏によって没収されたと云う。 熊野御幸記に、記載されている川邊王子であって、現王子社はこの神社である。後世、この地に遷座し、昔の社殿とは異なる所はある。 力侍神社は、延喜式神名帳には牟婁郡の雨手力男神社とあるが、現在その地に其神なく、後世に至ってこの地に遷座したことによって、本国神名帳の名草郡巻に記録されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
力侍神社 平成10年11月正遷宮記念 和歌山県指定文化財昭和54年6月9日指定 カ侍神社本殿 一間社流造こけら葺 八王子神社本殿 一間社流造こけら葺 力侍神社宮司 黒柳淳 文化財力侍神社解体修理正遷宮委員会 カ侍神社沿革 力侍神社御祭神 天手男命 猿田彦命 他十三神 八王子神社御祭神 天之忍穂耳命 五男三女神 八街彦命 八街姫命 天児屋根命 他11神 例祭日 1月1日 4月10日 7月10日 10月10日 12月10日 由緒書 力侍神社は、県指定文化財史跡川辺王子社跡にある。主祭神は天手力男命で、この御神は、天照大神が天の岩戸にお隠れになられた時、無双の神力を以て、天の岩戸をお開きになられた力の御神です。知恵とカと開運を授ける由緒ある御神として広く久しく御威光と御神徳を輝かせております。 当神社鎮座の由来は明らかでないが、社伝によると神社の創立は古く平安中期に遡り、東牟婁郡本宮町大斎原に鎮座していた天手力男神社を、現在の和歌山市神波字桑畑に勧請したのに始まるという。その後、和歌山市上野にあった八王子神社の境内に遷り、更に17世紀の初頭寛永年間に至って、八王子神社とともに現在地に再度遷り現在に至っている。現在の社殿の建立年代は、今回の解体修理の際に発見された棟札によって、力侍神社本殿が寛永11年(1634)・摂社八王子神社本殿が寛永元年(1624)であることが確認された。これら二棟の本殿は桃山建築の特徴を持つものとして高く評価され、昭和54年6月9日付けで和歌山県指定文化財の指定を受けた。しかし両本殿は建立後370年余りを経過し、各部の老朽化はさすがに放置でき難く、貴重な文化遺産を維持管理することに憂慮いたしておりました。この度、和歌山県並びに和歌山市のご指導とご援助、また氏子をはじめ関係各位の暖かいご浄財に支えられ解体修理を実施することができました。工事は平成7年11月から始め、平成10年3月に完了し、同年11月2日深夜に正遷宮祭を斎行、翌3日に竣工式並びに奉祝祭典を挙行いたしました。 ここに皆様方のご支援とご配慮に対し、心より感謝申し上げます。 和歌山県指定文化財力侍神社本殿 力侍神社本殿は一問社流造こけら葺きの社殿で南面する。 社殿の建立年代は、棟札によって寛永11年(1634)であることが確認された。 棟札によると本願は根来寺西室坊で、大工頭領は中村荘嶋の藤原安孫樹茂太夫、屋根葺きは若山の善五郎であったことがわかる。 建立後の沿革は明らかでないが、今回の解体調査の結果・建物は二度にわたって基礎が嵩上げされていること、縁束と浜縁廻りの部材が取り替えられたこと、屋根の葺き材が当初のこけら葺きから檜皮葺きに変更されていること、軒廻りが部分的に補修を受けていること、塗装彩色が一度塗り替えられていること等の修理の変遷が明らかになった。その他の部分は良く当初の状態が残されていた。 建物は正面の桁行一問(柱問寸法1.55m)、奥行きの梁間一間(柱問寸法1.36m)を身舎とし、正面側に、一問の向拝(向拝柱の出の寸法1.26m)を付けた、「一間舎流造」形式の社殿である。身舎正面には格子戸4枚を建て込み、他の三方は横板壁とする。身舎内部は中央に板唐戸を建て込んで前後二室に区切る。身舎の正面と両側面の三方に縁を廻し、正面に5段の木階段を設け、擬宝珠高欄を据え、背面側に脇障子を建てる。向拝部分には浜縁を設け、据え高欄を置く身舎柱は丸柱で土台建て。腰貫と頭貫を通し、切目長押と内法長押を打つ。向拝柱は大面取りの角柱で土台建て。腰長押を打ち、虹梁型の頭貫を通し、先端は象をかたどった丸彫りの木鼻となる。身舎から向拝にかけて海老虹梁を架け渡す。 柱上に「実肘木付き連れ三斗組々物」を置き丸桁を受ける。向拝と、身舎の正面及び両側面には中備えとして蟇股を置く。蟇股の脚内は丸彫りの彫刻で飾る。 妻飾りは虹梁を架けて大瓶束を建て、組物を置いて化粧棟木を受ける。軒は二軒繁垂木で切妻に造り、端に破風板を納め、懸魚を飾る。 屋根は修理前は檜皮貰であったが、小屋内に「こけら板」が残っていたこと等から、今回の修理で当初の「こけら葺」に復した。また壁板の裏面には、箱棟と鬼板の原寸図が描かれており、これによって箱棟の形式も復した。 部材の表面には現状彩色とは異なる文様の彩色痕跡が残っていた。彩色の施工に当たっては、それらの痕跡によって可能な限り当初の文様を復原した。文様の概要は判明しても、細部までの復原は困難で、創作に依った部分も少なくない。 また向拝柱と向拝頭貫は痕跡がなく類例を参考に創作した。配色はほとんど不明で、修理前の配色を参考に決定した。塗装彩色は推定による部分も多いが、建立当初の雰囲気がかなりの確率で再現できたものと考えている。 力侍神社本殿は小規模社殿であるが、細部に至るまで正規の建築手法を駆使して造られ、特に写実的な装飾彫刻に紀州の特質を発揮している。また塗装彩色は、江戸初期の文化の香りを遺憾なく表している。更に、「春日造」形式が圧倒的に多い紀州において、「流造」形式のこの社殿の存在は文化史的に注目される。 和歌山県指定文化財力侍神社摂社八王子神社本殿 摂杜八三子神社本殿は一間社流造こけら葺きの杜殿で南面し、力侍神社本殿と並んで建っている。社殿の建立年代は、棟札によって寛永元年(1624)であることが確認された。棟札によると本願は力侍神社本殿と同じ根来寺西室坊で、大工は藤原衛門次郎であった。 建物は正面の柱間寸法が1.70m、奥行きの柱間寸法が1.52m、向拝柱の出の寸法が1.35mで、力侍神社本殿より約一割方大きくなっている。建立後の修理改変の状況および構造形式は力侍神社本殿と全く同一で、僅かに向拝の木鼻が龍頭となっていること、蟇股彫刻が異なること、彩色の文様・手法が異なることが主な違いである。特に組物の彩色手法は、斗と肘木の外角に墨括りを施し繧繝を取ること、斗の斗繰り面を帯状紋とする事に大きな特色があり、桃山時代の彩色手法が発揮されている。 彩色の施工に当たっては痕跡を基に可能な限り当初の文様を復原した。ただし、向拝柱の金欄巻きと向拝頭貫虹梁は殆ど痕跡がなく類例を参考に創作した。その他の部分でも文様の概要は判明したが、細都の詳細は創作に依った部分も少なくない。配色は修理前の配色を参考に決定した。 八王子神社本殿は、建築的に正規の建築手法を駆使して造られ、特に写実的な装飾彫刻と桃山様式の華麗な装飾彩色はこの社殿の特色となっている。力侍神社本殿と共に郷土の文化遺産として貴重な遺構である。 由緒書 |
力侍神社 当力侍神社は、『延喜式神名帳』には、東牟婁郡、旧社跡は現本宮町大斎原(高川原)鎮座の天手力男神社、祭神、從四位両天手力男命が、中世期に、現和歌山市神波字桑畑に遷座してきたと伝えられる。 当神社の主祭神は、天照大神が天の岩戸に姿を隠したとき、天の岩戸を開き天照大神のお手を握り、天の岩戸の外にお連れしたのが当神社に鎮り坐す、天手男命です。 また、力侍神社の境内社(摂社)、八王子神社は『熊野御幸記』に記されている川辺王子のことで、弘仁3(811八)年辰年3月、嵯峨天皇によって再建されたと伝えられている。 祭神は、天忍穂耳尊・八衢彦姫命・五男三女神、神々の外数神を合祀している。 中世期には、神領地15町余を所有していたが、天正13(1585)年豊臣秀吉の、紀州攻めによって、古文書・宝物・その他を没収されたと伝えられている。 その後、力侍神社を、上野村(現和歌山市上野)八王子神社境内に遷し、さらに力侍神社は、寛永11年12月8日、八王子神社は寛永元年12月15日に御神託(神のおつげ)により、力侍神社、八王子神社の両社ともにこの地に遷座したと、『紀伊続風土記』に記されている。 当力侍神社の社地は、熊野古道の九十九王子社であり、昭和33年4月には、川辺王子跡として和歌山県指定文化財に指定されている。 また、力侍神社、八王子神社両本殿ともに建立年代を示す史料はないが、和歌山県内における桃山時代の、貴重な神社建築と高く評価され、昭和54年6月、和歌山県指定文化財建造物に指定されている。 和歌山県神社庁 |
力侍神社 村の乾二町半許にあり 八王子社舊は上野村に在し力侍神社舊は神波村に在りゝに中古力侍神社を上野村八王子の境内に遷し奉り後又両社とも此地に遷し奉れり 因て両社一境内に並ひ祀れとも神の来由異なり寛永記に八王子は 嵯峨天皇弘仁年中建立にして川邊楠本島神波上野別所落合七箇村の氏神なり 古は神地十五町ありしに豊太閤の時没収せられ古文書の類天正の亂に紛失すとあり按すると当社は熊野御幸記に載する所の川邊王子にして僧心敬かさゝめことの自跋にある八王子の社これなり 後世此地に遷座し給ふに因て古の とは異なる處あり 寛永の後も猶事變して今は川邊楠本島神波四箇村の氏神なり 猶其詳なるは考定部に出たり 力侍神社又権現社と云按するに本国神名帳名草ノ郡従四位上雨手力男神即是なり 神名力侍の義は手力男の称より転て力士の称を生し又一転して力侍の文字を用るなるへし 按するに延喜式神名帳牟婁ノ郡天手力男神社あり 今是を其地に求るに其神なし 疑ふらくは式の後此地に遷し奉りしより本国神名帳には牟婁ノ郡になくして名草郡に書せりしなるへし 那賀ノ郡神領村海神社と同例ならむ 寛永記に天正の亂に神田も没収せられ寶物古文書皆紛失すといふかはかりの大社なれともかく様々の変遷に罹り給へは神の原由も世に明ならさるに至り給へり 祭礼6月10日 9月10日なり 詳は考定部に見えたり 別当神宮寺 園鏡山山王院 当社境内にあり 真言宗古義御室真乗院末本堂 四間九間 薬師堂護摩堂僧坊あり 小祠二社 ○王子権現社 社地周五十間八王子の東にあり 社方三尺 ○王子権現社 社地周十六間村の北二町にあり 紀伊続風土記 |
力侍神社本殿 和歌山県指定文化財(建造物) 力侍神社本殿・摂社八王子神社本殿 力侍神社はもと天手力男命を祭神とし、力侍神社の名前も手力男に由来している。 南から参道を通って社地に入ると、向って左の社殿が本殿で、右側が摂社(合祀されて客分となった神社)八王子社の社殿である。両社ともにはじめからこの場所に建てられていたのではなく、力侍神社はもと神波(現社地の北西約700mにあり、その後上野(現社地の北西約1Km)の八王子社境内に移り、さらに江戸時代のはじめ(寛永3年(1626))に両社ともにこの地に移されたと伝えられる。 社殿は流造、一間社、檜皮葺きで、正面と両側面には縁をめぐらし、擬宝珠高欄をおき、背面の見切りに脇障子を構えている。身舎正面には引き達いの格子戸を入れ、側面と背面は板張りの壁とする通常の形式である。 両社殿ともに建立年代を示す史料はないが、各部分の様式や技法からみて十六世紀終わりごろに建立されたものと考えられる。木鼻や蟇股などの彫刻も優れており、全体に建立時の形態が良く保たれ、和歌山県内における桃山時代の神社建築の代表例のひとつとして貴重な資料である。 平成5年3月31日 和歌山県教育委員会 和歌山市教育委員会 力侍神社 社頭掲示板 |