神功皇后の御時、坂、忍熊の二王が反乱したので皇后は武内大臣をして皇子(応神天皇)を奉じて紀伊に赴かしめ、大水門浦に御船を寄せさせ給せ、住吉の大神を祭られたと云われている。 |
潮崎本之宮神社 当社は延喜式に記される牟婁郡内の海神三神を祀る古社で、古代より海上交通の守護神として崇敬されていた。 社伝には神功皇后三韓を伐ちて御凱神の帰途、都で忍熊王の謀反をおこしていると知り、皇后は武内大臣に皇子(応神天皇)を守護し紀伊に趣かしたが南海に漂うた末に当地の旧名大水門浦に着かれ、そのときに当地に住吉三神の大神を祀られ海神社御本之宮と称したという。 神領は往昔七反であったが天正年間以後二石となった。 江戸時代は海神社とか本ノ宮といわれ大島・出雲・串本三ヵ村の氏神として崇敬された。 明治初年の神仏分離の動きの中で社名を現在の潮崎本之宮神社と定めた。 明治6年4月村社となる、同40年4月神饌幣帛料供進社に指定された。 同43年2月一村一社の神社合祀で村内の小社(袋の恵美須神社・中地の戎神社)を境内社に合祀する。 大正3年2月会計法適用社にも指定された。 翌4年9月郷社に列せられる。 (例祭)串本町本之宮神社の秋祭りは東、西、南、北の四支部から奉納される獅子舞が中心的役割をつとめる祭りである。 例祭日は10月第二日曜日で祭典準備も一ヵ月前の獅子出しからスタートする。 獅子宿は青年会館や地区会館などで十月第二日曜日の三日前頃の稽古納めまで毎晩練習が続けられる。 殊にこの年から稽古を始めた新人の中から祭礼当日栄ある宮舞わしが選ばれるので教える者、習う者、気迫のこもった練習となる。 一方宮側では、9月末か10月始めに総代会がもたれ祭典全般の協議が行われ準備が進められる。 10月第二日曜日の二日前は餅つき、幟たて、提灯、神饌、直会などの準備をする。 10月第二日曜日の前日は午後6時、各支部の屋台集合のサイレンを合図に宵宮が始まる。 威勢のよい笛、太鼓の祭ばやしに景気づけられ町内銀座通りに四支部の屋台と各支部の高張り提灯、礼服姿の総代達、串本節ゆかた姿の獅子舞会の若衆達が集合すると、七時半頃祭典中一番の見ものである神社までの宮登り道中(行列)が始まる。 列順は当番組を先頭に各支部の高張提灯に先導された総代、役員、屋台が続く。 途中で潮くみの儀を行い一同禊をし道中祗園ばやしにはやされて掛け声勇ましく屋台が練り歩く。 沿道の見物衆からも合の手が入り祭り景気が盛り上がると屋台同志がぶつかり合い、つぶし合いとなり華やかな祗園ばやしと威勢のいいかけ声と共に神社に練り込む。 神社到着後は、当番組から順に神前で獅子神楽(幣の舞)を奉納し宿に引きあげる。 当番組は残って乱獅子の舞を奉納する。 本祭の10月の第二日曜日は午前7時頃銀座通りに各支部の屋台が集合。 宵宮と同じ順路で約一時間ぐらいの練りで宮入りをし、境内にて神前式まで待機する。 神社では8時30分より神饌を供え神前祭を斎行。 (後直会に移る)神前で祝詞奏上が始まると待機していた獅子は、当番組から順次獅子舞(幣の舞)を奉納し境内の恵比須神社にも舞奉納を行う。 舞い手は選ばれた新人が勤め舞い納める。 四支部の獅子舞の奉納が終わると、当番組以外は地区舞に出発し当番組は神前にて獅子神楽全舞曲を演じてから地区舞に出る。 地区舞は戸数の増加などから担当地区内の数か所で幣の舞を行い、他に新築家固め奉幣と希望申し出のあった家々に幣の舞を行い、10月の第二日曜日例祭の次の日までつとめて秋祭りを終える。 和歌山県神社庁 |