熊野速玉大社
くまのはやたまたいしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】熊野早玉神社(大) 紀伊国 牟婁郡鎮座

   【現社名】熊野速玉大社
   【住所】和歌山県新宮市新宮上本町1
       北緯33度43分56秒、東経135度59分1秒
   【祭神】第一殿(結宮)熊野夫須美大神
       第二殿(速玉宮)熊野速玉大神
       第三殿(証誠殿)家津美御子命・国常立命
       第四殿(若宮)天照皇大神
       第五殿(神倉宮)高倉下命
       第六殿(禅地宮)天忍穂耳命
       第七殿(聖宮)瓊々杵命
       第八殿(児宮)彦火々出見命
       第九殿(子守宮)鵜草葺不合命
       第十殿(一万宮)国狭槌命・(十万宮)豊斟渟命
       第十一殿(勧請宮) 泥土煮命
       第十二殿(飛行宮)大斗之道命
       第十三殿(米持宮)面足命
       以上をもって、新宮十二社大権現と称す。

   【例祭】10月15-16日 例大祭
   【社格】旧官幣大社
   【由緒】景行天皇20年熊野新宮此の時に始まる
       景行天皇58年新宮始まりとも伝
       天平勝宝3年(751)正月熊野三山に御震筆の額寄進
       天平神護2年(766)速玉神に封戸四戸
       貞観元年(859)正月従五位上
       貞観5年(863)3月2日正二位
       延喜7年(907)10月2日従一位
       延喜7(907)10月3日宇多法皇熊野御幸
       承平5年(935)正一位
       延久4年(1072)造営
       天治2年(1125)造進(奉行小松内大臣重盛)
       平治元年(1159)造営
       建保2年(1214)造進
       宝治2年(1248)造進
       元亨3年(1323)造営
       文明6年(1474)将軍義尚建立
       天正18年(1590)関白秀吉名代大納言秀長再興
       享保7年(1722)徳川吉宗再興
       明治4年県社
       明治16年火災焼失
       大正4年官幣大社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初神藏の峰に神降
        その後阿須賀の森に移られ
        景行天皇の御世新らしき宮居を今の処に営れ遷宮

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 熊野速玉大社
   【社殿】本殿熊野造銅板葺
       上三殿・八社殿・拝殿・大禮殿・参集殿・双鶴殿・熊野神宝館・宝庫(・授与所

   【境内社】神倉神社・新宮神社・熊野恵比寿神社・手力男神社
        八咫烏神社・猿田彦三宝荒神社・忠魂碑

   【境内図】 境内図

本社は古来より他の二社(本宮・那智)と共に熊野三山の一として世に重きをなし来たつた。
「神藏の峰に降り給ひ、熊野地なる阿須賀の森に移られしが、結大神と速玉大神とは阿須賀の森に留まられ、景行天皇の御世新らしき宮居を、今の処に営れ遷りませるなり」とある。
また、熊野権現は天台山(中国)を飛び出され、九州英彦山に天降り、つぎに四国の石鎚・淡路の由豆留波・紀州の切目・次に新宮の神倉に天降つて後に熊野地阿須賀に移り、ここより権現山の麓に勧請されたのが、結速玉之男神で、「新宮」と号したとある。


由緒

熊野大権現熊野速玉大社
神代の頃、神倉山(新宮市西南)に祀られ、景行天皇の58年(西暦128年)に今の処に新しく境内・社殿をつくって移られたので、神倉山の旧宮に対して新宮と称した。
式内大社で、神階は天慶3年に正一位、大正4年に官弊大社に列格した。
(御神木なぎの木)

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




熊野速玉大社

熊野大権現
熊野速玉大社御由緒
日本第一大霊験所
全国熊野神社総本宮
熊野大権現熊野速玉大社
一、創祀(新宮名の由来)
「熊野権現御垂跡縁起」によると、往昔、熊野神が各地遍歴の後に、「熊野新宮乃南農神蔵峯降給、次61年庚午年、新宮乃東乃阿須賀乃社乃北、石淵乃谷仁勧請静奉都留、始結速玉家津美御子登申二宇社也」と記している。熊野神が伊予、淡路を経て新宮の南の神倉山に紀られ、更に阿須賀社の北、対岸の石淵(三重県鵜殿村矢淵)に、結(夫須美神)、早玉(速玉神)と家津美御子神を二社殿に奉斎していたものであろう。
「熊野年代記」には、安寧天皇十八年に新宮の神倉に祀られ、貴祢谷(石淵)へ遷り、孝昭天皇5年庚午に二社殿を建立して、熊野三所大神(結、速玉、家津美御子の三神)を奉斉したことを伝えている。また、同書には、景行天皇58年戊辰に「熊野新宮建」とあり、「熊野年鑑」には、「春三月起熊野鎮座地宮殿是号新宮」と記している。
「水鏡」の景行天皇の条に「58年2月、くまのの新宮は、この御時にはじまりたまへりし」とあり、「紀伊続風土記」では、「神倉山に其侭跡を止め給へる景行天皇の御世、今の新宮の地に遷し奉れり」と記している。
以上、諸書によって考察すると、まず熊野三山の中心となる早玉(当社御主神、熊野速玉大神)、結(那智大社御主神、熊野夫須美大神)、家津美御子(熊野本宮大社御主神)と申上げる三柱の神が神代の頃に神倉山に降臨せられ、次に熊野川の対岸石淵(現貴祢谷)に二社殿を建てて祀られ、景行天皇の五十八年に、新しく境域、社殿を現在の処に築営して結(夫須美)、速玉の二神を御奉遷申上げたものと思われる。旧社地(神倉、石淵谷)に対して、新しく宮殿を造ったので新宮と号したと明白に古書に記されている点は、特に注目しなければならないと思う。日本書紀には、神武天皇が「熊野神邑に至り、すなわち天ノ磐盾に登る」とあるように、神倉山の磐盾とゴトビキ岩は、悠久の古より人々から畏れ崇められてきた霊山で、ここには、はじめ社も、お供えも、祝詞もなく、恐らく祈るという観念すらなく、神倉山は、自然を畏怖し崇める古代人の自然信仰・原始信仰の中心であったと思われる。
この神倉山に、神代の頃熊野三所大神が降臨され、その後、景行天皇58年の春3月、石淵を経て、現在の熊野速玉大社の社地に、初めて神殿を建てて神々がお遷りになり、その「新宮(にいみや)」にお供えを献じ、祝詞を上げて、「祀(まつ)り」と「祈り」という形態を整えていったのです。これが新宮の謂れで、単に旧い宮から新しい宮に遷したというだけではなく、まして熊野本宮に対する呼び名でもなく、熊野速玉大社は、まさに天(あめ)地(つち)を教典とする自然信仰のなかから生れてきたのだということを、明確に記した実に意味の深い「新宮」なのである。換言すれば、原始信仰から神社神道への移行を意味するともいえる新宮(にいみや)なのであります。
二、御祭神(本地仏)
御主神、熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)は皇祖伊弉諾尊(いさなきのみこと)の映えかがやく神霊を称えた力強い御名と言われ、自己啓発・開運成就・現世安穏(家内安全、業務繁盛)の御神徳が高い。「結霊宮」熊野夫須美大神(くまのむすびおおかみ)は、産霊(むすび)の神、すなわち万物を育成し給う宏大な御神徳を称えた神名で、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の別名と言われている。また、結びの神、即ち願望成就、縁結びの御神徳高き神として信仰されている。「証誠殿」家津美御(けつみこ)子大神(おおかみ)は、素盞鳴尊の熊野における御神名で、樹木、食物の守護神と称えられている。家津美御子神と共に祀られ
16 熊野エビス神社
15 新宮神社
14 奥御前三神殿
第十三殿 (米持宮) 面足命(おもだるのみこと)
第十二殿 (飛行宮) 大斗之道命(おおとのちのみこと)
第十一殿 (勧請宮) 泥土煮命(ういちにのみこと)
第十殿  (十万宮・一万宮)国狭拠命(くにさつちのみこと)、豊斟淳命(とよくもぬのみこと)
第九殿  (子守宮)鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
第八殿  (児宮)彦火(ひこほほ)々出見命(でみのみこと)
第七殿  (聖宮)瓊々杵命
第六殿  (禅地宮)天忍穂耳命(あめのおしほみみみこと)
第五殿  (神倉宮)高倉下命(たかくらしのみこと)
第四殿  (若宮)天照大神(あまてらすおおみかみ)
第三殿  (証誠殿)家津美御子命(けつみこのみこと)・国常立命(くにとこたちのみこと)
第二殿  (速霊宮)熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)(いざなぎの命)
第一殿  (結霊宮)熊野結大神(くまのむすひおおかみ)(いざなみの命)
ている国常立尊は、神代七代中の第一代の神、国土の主宰神、「若宮」天照大神(あまてらすおおみかみ)は、伊弉諾・伊弉冉両神の御子、皇室の御祖神で、伊勢神宮の御祭神にまします。「神倉社」は熊野三山の元宮で、高倉下命(宇井・鈴木・榎本姓の始祖)を祀る。「禅地宮」天忍穂耳尊(あめのおしほみのみこと)は、天照大神の御子神、国土平定の神徳高い神であり、「聖宮(ひじりのみや)」瓊々杵尊は、天忍穂耳尊と拷幡千(たくはたちち)々姫の御子で、三種の神器を捧じて日向国高千穂に降られた神にまします。「一万宮、十万宮」の国狭槌尊、豊斟淳尊は神代七代の第二、第三の神、「飛行宮」大斗之道尊(おおとのちのみこと)も神代七代中の第五の男神、国土の主宰神と仰がれ、「米持宮」面足尊は神代七代中の第六代、「児宮」彦火々出見命は瓊々杵尊の御子神、「子守宮」??草葺不合尊は彦火々出見命の御子神にまします。更に「速玉宮」の伊弉諾神、「結宮」の伊弉冉神は、皇祖の祖神にあらせられるのみならず、神代七代の第七代の夫婦神である。奥御前三神殿は、造化三神(天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)で、天地の初めに高天原に現れた神々、即ち天地、万物、人類を生成、恩恵を給う御神徳が称えられている。
当大社の御祭神は、神代七代の天神(あまつかみ)及びその御子神、皇室の御祖先にあたる由緒ある神々であり、国初の頃に国土の生成、その守護に功績の深い天神、国土の主宰神であると申上げてよい。

由緒書



熊野速玉大社

御由緒
 熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約二千年ほど前の景行天皇五十八年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と申します。
 御祭神は、熊野速玉大神(いざなぎのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ新宮十二社大権現として全国から崇敬 を集めています。
 特に、孝謙天皇の御世、日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜りました。「権現」とは仮に現われるの意味で、神様は御殿の中のもっとも清浄な奥処に鎮まりましますので、私達の目にはそのお姿を直接見ることができません。そこでそのお姿を仮に仏に変えて、我々の住む俗世界に現われるという考え方が浸透していきます。
 奈良朝末期にいたって、熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、またお妃の熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりを見せ、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるにいたりました。
 さらに、中世熊野信仰の興隆にともない、皇室、公卿、武士中心から庶民信仰へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへ の道であるとして、「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。
平成16年7月7日「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産に登録されました。
御神徳
速玉は、神威盛んなりて、神徳映え輝くさま映霊の意なり。また冨栄え冨む、魂の急速なる成長の意。よって富貴隆昌、現世安穏、先祖慰霊、良縁結び、海上安全、病気平癒など、諸願成就の神格を持ち給う神名なり。
熊野詣の目的とは
熊野は、過去世・現世・来世にわたってお救いくださる神々のまします聖地です。この熊野へ通じる道=熊野古道は、東海道や中山道という謂わば国の中央幹線道とは異なって、巡礼者が一人歩き二人歩きしながら長い年月をかけて難行苦行をものともせずつけた信仰の道です。また道も遠くて険しいため、先達(案内人)や御師(宿坊)が一体となって全国的な参詣受入体制をつくり、熊野詣での巡礼者を迎え入れました。そして三山三世信仰に基づく熊野三山を巡拝してこそ、心と体が甦り人間本来の美しい姿に立ち戻ると考えられました。熊野が「美し国(うましくに)」または「癒しの郷」と称される所以であります。
ですから、熊野古道だけを歩くのであれば、それはあなたが今までに経験したことのあるハイキングと余り変わりなく、本来の熊野詣でとは程遠い感覚となってしまうでしょう。古道の目的地である熊野三社を巡拝することが大切なのです。
熊野速玉大社
  速玉大神(過去世の救済・当病平癒)=薬師如来
  夫須美大神(現世の利益)=千手観音菩薩
熊野那智大社
  夫須美大神(現世の利益)=千手観音菩薩
熊野本宮大社
  家津美御子大神(来世の加護)=阿弥陀如来
熊野牛玉宝印と神木ナギについて
熊野牛王(くまのごおう)は熊野権現にゆかりある烏を絵文字化した護符で、戦国時代からその形を変えることなく伝わります。熊野速玉大社の牛王は、四十八の烏文字で描かれているところから、よとやの神咒(かじり)とも言い、速玉大神の衆生を救わんとする願いが一羽一羽の烏に込められていると謂われています。また、境内にそびえる樹齢千年のナギの大樹は熊野権現の象徴として信奉篤く、古来から道中安全を祈り、この葉を懐中に納めてお参りすることが習わしとなっています。この熊野牛王とナギの葉をいただくことが、難行熊野詣を無事果たす大きな支えとなったのです。
千早ふる 熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代のためしにぞ折る 藤原定家

公式HP【旧】



熊野速玉大社

熊野速玉大社の御由緒
熊野大権現・全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮である当大社は現世安穏(家内安全、交通安全、願望成就業務繁栄・病気平癒)の御神徳が高く熊野信仰の根源と仰がれている。大正4年11月10日官幣大社に列格、神代の頃、神倉山(権現山東南端)に御主神の熊野速玉大神(伊弉諾尊)・熊野夫須美大神(伊弉冉尊)が降臨、景行天皇の58年春3月(紀元788年)に現在の境内へ速玉宮・結宮の二神殿を建てて神倉山から御遷宮、奈良朝末期頃から神佛習合説・修験道によって熊野信仰が全国へ飛躍的に流布するに及び中世熊野御幸は140度、各地よりの参拝は「蟻の熊野詣」と諺が生じるほどに盛行を極め次々と諸神を追祀して壮大な熊野十二所権現の御社頭になった。
昭和26年から氏子、崇敬者の御協力の下に当度御造営工事を施工、御本殿以下諸建物を改築して明治16年炎上以来約百年を経て壮麗な鎌倉時代の尊容が再現せられた。

社頭掲示板



熊野速玉大社

当大社は、熊野三山のひとつとして、本宮、那智とともに全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮であり、熊野信仰の中心として世に名高い古社である。
主祭神として、熊野速玉大神(イザナギノミコト)、熊野夫須美大神(イザナミノミコト)を祀り、平安初期に現在の十二社殿の形態が整い、新宮十二社大権現として尊崇を集めている。
平成16年7月7日、世界文化遺産に登録される。
 熊野権現垂跡緑起によると、「熊野新宮乃南農神蔵峯降給、次61年庚午年、新宮乃東乃阿須賀乃社乃北、石淵乃谷仁勧請静奉津留、始結速玉家津美御子登申二宇社他」とあり、初めは、現在仰ぎ見る十二社殿並立の御社頭ではなく、結(夫須美)、早玉(速玉)、家津美御子命を二社殿に奉斎していたことがわかる。
速玉は、映霊で、イザナギノミコトの映え輝くばかりの力強い神霊の意で、夫須美はイザナミノミコトの万物を産み成し、幸へ給う女神としての大神徳を称えた御名である。
 さらに熊野年代記には、景行天皇58(128)年戌辰(約2000年前)に「熊野新宮建」とあり、熊野年鑑には、「景行天皇58(128)年 春3月起熊野鎮座地宮殿 是号新宮」、水鏡には「景行天皇58(128)年2月、くまのの新宮はこの御時にはじまりたまへりし」とあり、紀伊続風土記では「神倉山に其侭跡を止め給へる景行天皇の御世、今の新宮に遷し奉れり」と記している。
 以上のことから考察すると、先づ熊野三山の中心となる早玉・結・家津美御子と申し上げる三柱の神々が、神代の頃に神倉山に降臨せられ、景行天皇の58(128)年に新しく境域、社殿を現在の鎮座地に築営して御奉遷申し上げたものと考えられる。
つまり旧社地の「神倉」に対して新しく宮居を築かれたので、「新宮」と号したことが、種々の古文書において明らかにされており、本宮に対する新宮とする解釈は誤りであることが明記されている点は、特に注目される。
つまり、熊野三山の間には本社、末社の関係はなく、熊野神が最初に降臨せられた神倉神社が、元宮としての性格を有しているといえる。
 延喜式神名帳には「紀伊国牟婁郡熊野早玉神社」とあり、式内大社として極位を授けられ、長寛勘文には、「天慶3(940)年3月1日熊野早玉神授正一位」と記している如く、極位を授けられており、また孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く「熊野権現」の称号を賜った。
【三山三世信仰と熊野御幸】 奈良朝末期に至って本地垂迹説の流布にともない、当大社は早くからその影響を受け、熊野速玉大社は、衆生の苦悩、病気を救済する薬師如来(過去救済)、熊野夫須美大神は現世利益を与える千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、熊野比久や比久尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりをみせ、青森から沖縄まで文字通り全国に幅広く浸透して、数千に及ぶ御分社が祀られるに至った。
 更に中世、熊野信仰の興隆に伴い、皇室を始め奉り、公卿、武士、庶民に至るまで熊野詣が盛行し、過去救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへの道であるとして、蟻の熊野詣の諺の如く熊野街道は賑わったのである。
(三山三世信仰) 特に宇多院から亀山院までの約400年の間に、紀伊續風土記には七五度、「熊野三山経済史」には106度和歌山県聖蹟によると103度、女院、法親王、姫君をあわせると、実に140度に余る行幸啓を賜っており、世にこれを「熊野御幸」と呼び、熊野の歴史にかけがえのない光彩を放っている。
【国宝古神宝類】 歴代の朝廷から賜った宝物は、内容品を計上すると1200点以上の国宝古神宝類となり、三山はもとより、全国屈指の質量を誇り、熊野神宝館及び各国立博物館で保存展示されている。
蒔絵手箱、彩絵檜扇、玉佩、挿頭華、装束など、中世の美術工芸史に欠くことのできない古神宝ばかりで、「熊野の正倉院」とよばれる所以である。
 尚、御本殿はじめ各神殿に安置されている古神像七体は、いずれも桧の一木造り彩色坐像で、明治31年の保存修理を機に、御神体と依代であった御神像が分けられ、戦後と平成19年にも保存修理が行なわれている。
古美術、学問上香り高い遺品として、明治三十年国宝に、昭和25年8月29日には重要文化財の指定を受け、平成17年6月には、熊野速玉大神坐像、熊野夫須美大神坐像、家津美御子大神坐像、国常立命坐像の四体が国宝に再指定されている。
とりわけ、熊野速玉大神坐像は、中老の相で正一位の宝冠を頂き、袍をつけ、正座の御姿で、威厳に満ちた中にも、慈相の漂う風格をもった、世に稀な神像である。
平安初期の作で松尾大社の神像についで、我国で二番目に古く、大きさは日本最大、熊野夫須美大神像とともに美術上からも香り高い第一級神像である。
【御神木 梛】 当大社の御神木 梛は平 重盛公お手植と伝わり、高さ20m、幹廻り7m、日本最大の梛の木である。
なぎは凪に通じ、海上安全、現世安穏・良縁結びの信仰厚く、熊野詣を志す者は、先づこの葉を懐中に納め、道中安全の印にする事を慣例としている。
 また、嫁に行く娘の鏡の裏や笥の中にこの葉を忍ばせ、無事に添いとげられるように祈ったものという。
この古事に基き、梛の一葉を求めて神木の周りを探す信奉者があとを絶たない。
【例大祭】 10月15日・16日は、市を挙げて例大祭・新宮祭が行なわれる。
大祭前日、神馬が大浜海岸に出向き潮浴びを行い、阿須賀神社にて豆を食む「豆献ジノ儀」、串本町大島区からの「掛魚萱穂奉献ノ儀」が執り行なわれる。
 15日は、「御本殿大前ノ儀」に続いて、無形民俗文化財「神馬渡御式」が斎行され、熊野速玉大神の神霊を神馬に奉安、威儀物、神官、供奉員200名を従えてお旅所へ渡御する。
お旅所では「杉ノ仮宮」と呼ばれる仮の御殿に奉遷の後、神楽奉奏、松明の明かりに灯される中、掛魚、神酒、「オミタマ」と呼ばれる特殊神饌を供えて、古儀な神事が行なわれる。
この「神馬豆献ジ」の儀式と、「杉ノ仮宮」は、8世紀当大社から分霊された岩手県室根神社の例祭に伝承されており、下北半島の「熊野権現舞」とともに、東北地方に於ける熊野信仰の伝播を知る上で実に貴重である。
 翌16日は、熊野夫須美大神の大祭で、神輿渡御式・御船祭が行なわれる。
神輿にて市内渡御の後、熊野川原に到着、朱塗り神幸用船に神霊を遷御、これを合図に九区から出船した早船が二q上流の御船島を三回廻って勝敗を争う。
その後を御幣を立て、管絃を奏しながら、斎主船、諸手船に曳かれた神幸船が同じく御船島を三回廻ってお旅所に向かう。
九隻の早船が一度に出船する船渡御として全国に類例なく、1800年以上の伝統を有す。
【その他の特殊神事】 扇立祭 7月14日、午後5時半から斎行。
国宝の檜扇を本殿以下各殿に飾り立てる。
扇の語源は「招ぐ」で、依代としての神扇を通して参拝する。
 お燈祭 2月6日夜斎行される摂社神倉神社の例大祭。
白装束に身を固め、松明を持った2000人の上り子(祈願者)が、源 頼朝公寄進の鎌倉造りの自然石を積み上げた急峻な石段を駆け降りる。 全国に伝わる火祭の中でも最も躍動感溢れる炎の禊神事として有名である。
【熊野絵解き】 中世、熊野比丘尼が全国に持ち歩いて熊野信仰を広めたという「熊野観心十界曼荼羅」の絵解きを宮司が御奉仕している。
【古歌にみる熊野詣の心】   梁 塵 秘 抄熊野へ参るには 紀伊路と伊勢路とど近しどれ遠し廣大慈悲の道なれば 紀伊路も伊勢路も遠からず  後鳥羽天皇御製よをてらす 影とおもへば熊野山山のかひある 行未もかな  検校法親王(土御門天皇の皇子)なぎの葉に みがける露の速玉をむすぶの宮や 光そふらん

和歌山県神社庁



詳細ボタン


紀伊国INDEXへ        TOPページへ



順悠社