須佐神社
すさじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須佐神社(並名神大 月次/新甞) 紀伊国 在田郡鎮座

   【現社名】須佐神社
   【住所】和歌山県有田市千田1641
       北緯34度3分54秒、東経135度8分29秒
   【祭神】素戔嗚尊
   【例祭】10月13-14日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】和銅6年(713)10月大和国吉野郡西川峯から勧請
       貞観元年(859)正月27日従五位上
       建武2年(1336)8月須佐大神宮の震筆勅額・兵杖4本を賜る
       建武2年(1336)5月楠正成社領安田一圓を寄進
       天正7年(1579)3月織田信長の兵災で焼失
       慶長6年(1601)淺野幸長神田を寄附
       寛文10年(1670)12月造営
       正徳元年(1711)9月造営
       明治4年5月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】最初は神社が鎮座している中雄山の山頂に鎮座
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿春日造銅板葺
       中門・祝詞殿拝殿・鈴門・神樂殿・絵馬殿・社務所・儀式殿・手水舎・神饌所
       御湯殿・神輿舎・燈籠舎・木馬厩

   【境内社】皇大神宮社 伊弉諾社 稲荷社 五ケ庄社 住吉社 厳島社
        神光谷社 伊太祁曾遥拝所 湊川社 南龍社 金比羅社 子安社


和銅6年(713年)10月初亥日に大和国吉野郡西川峰(場所不明)から中雄山の山頂に勧請されたのが創祀という。
最初は神社が鎭座している中雄山の山頂に奉齋したが、西に面し海に向っているため、海上往来の船舶が恭謹しないと難破したので、元明天皇の勅命によつて中雄山の麓即ち現在のところに南面して奉齋したとある。
伊太祈曽神社とは関係が深く、天正の頃迄毎年春正月初卯日に伊太所曾社官12人が来参し、秋9月初卯日には馬12騎の奉納があつた。


由緒

和銅6年10月(紀元1373年)今より1276年前(平成元年)大和国吉野郡西川峯より勧請したと伝えられておりますが定かではありません。
天正7年、地元の地頭との争いにまきこまれ、伝記文書類は焼失し、現在残っておらず、言い伝え等によります。
当初、御社は、当神社山上に西面して創建されましたが、海洋往来の船舶等が、崇敬の至誠を捧げなければ、事故が多く発生したため、元明天皇の勅命により、現在の地に遷座したといわれております。
延喜式神帳に記されている、紀州32社中の大社です。
当神社は、氏子はもとより、昔より武家や一般の人々の尊崇が篤く、江戸時代には、藩主紀伊徳川家の累代崇社として崇められ、造営修復等は藩費にてまかなわれた。
又、徳川吉宗奉納の太刀は、現在も社宝として保管しています。
・千田祭(例大祭)10月14日
和歌山県下では「千田のけんか祭]ともいわれ、氏子をはじめ、多くの参拝者で賑わいます。中でも「大みこし渡御」「鯛投げ神事」は、けんか祭の異名のとおり有名です。又、各地区の組太鼓(現在8基)の奉納は千田祭の神事の特徴を充分にあらわしております。子供神輿、稚児行列、餅投げ等もまつりの賑わいをましております。
・粥占の神事(かゆうらないのしんじ)1月15日
当神社の「粥占」は千年の昔より伝えられている神事であり、近在近郷より、この占いを知るために、多数参拝におとずれ、「あずき粥」を賞味し、家族の無病息災を祈願します。
・夏祓(なつはらい)毎年6月中氏子をはじめ、崇敬者が各家庭のけがれをとりのぞくため、夏祓の祈祷をおこない、注連縄、疫神斎の神符、榊等を受けるため、参拝に訪れます。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




須佐神社

和銅6年10月(713)今より1284年前(平成9年)大和国吉野郡西川峰より勧請したと伝えられておりますが定かではありません。天正7年(1579)豊臣秀吉が織田信長の命にて紀伊の国を攻めた折りにも湯浅の地頭白樫左衛門条実房が内応社殿等を損壊しましたので、社家大江重正が神器霊宝縁起記録等を唐櫃に納め、神光谷の林の中に隠したのですが探し出して火に投じ或いは海中に没してしまいましたので、伝記文書類は残っておらず、他の書類又言い伝え等によります。
当初御社には、当神社山上に西面して創建されましたが、海洋往来の船舶等が、崇敬の至誠を捧げなければ、事故が多く発生したため、元明天皇の勅命により、現在の地に遷座したといわれております。従って昔より海の守護神として、又御祭神が勇悍な性質から剣難除(災難除)の神として朝廷をはじめ武家や一般の人々の尊崇が厚く、江戸時代には藩主紀州徳川家の累代崇敬の社として崇められ、社殿の造営修復等は藩費にてまかなわれた。延喜式神名帳に記されている、紀州32社中の大社であり、名神祭又月次祭新嘗祭の官幣に預かり、三代実録によりますと貞観元年従五位上に、木国神名帳には従一位に叙せられています。明治4年5月県社に列せられ現在に至っています。旧記には元明天皇、後醍醐天皇の勅願所であり、建武2年(1335)須佐大神宮の宸筆勅額及び兵杖四本を賜りましたが、天正の兵火で焼失しました。又建武2年5月に楠木正成より安田一円を寄進され、浅野家領国の際には祈願所として田四四町三反を献納されました。
又徳川吉宗奉納の太刀(重文)は、現在も社宝として保管しています。
千田祭(10月14日)
和歌山県下では、『千田のけんか祭』ともいわれ、氏子をはじめ、多くの参拝者で賑わいます。中でも『大みこし渡御』『鯛投げ神事』は、けんか祭の異名の通り、壮観であり見物の人々で湧きかえります。又、各地の組太鼓(現在8基)の奉納は、千田祭の神事の特徴を十分にあらわしております。子供みこし渡御、稚児行列、餅投げ等も祭の賑わいをましております。
粥占(1月15日)
当神社の『粥占』は、千年の昔より伝えられている神事であり、近郷近在よりこの占い(十種類)を知るために多数参拝におとずれ、釜殿で炊いた『あずき粥』を賞味し家族の無病息災を祈願します。
●重文太刀
銘 因州住景長
附 糸巻太刀拵
長さ 68.2cm
反り 1.8cm
国指定重要文化財 
八代将軍吉宗奉納 
刀身 室町時代 
拵  江戸時代
紀州藩祖頼宣公の没後50周年にあたる享保6年奉納。
拵は標糸巻で、金具は赤銅色絵割菱紋、鞘は蒔絵の割菱紋をあしらっている。
須佐神社の小宮は、皇大神宮社、伊弉諾社、伊太祀曽社は素盞鳴尊の御家族にあたる神様、住吉社、厳島社、金比羅社は海の神様、五ケ庄社、神光谷社は土地の神様で、湊川社、南龍社は須佐神社を復興された方を御祀りし、稲荷社は江戸時代合祀され、子安社は子供の守神として御祀りしています。その他にも燈篭舎、白馬の神馬舎があり、夫婦の神鹿(白鹿)が参拝者を見守っています。

由緒書



須佐神社

古事記、日本書紀において、日本列島に樹木の種を播き、紀伊國に坐す大神と称され、大国主命が黄泉の国に坐す素戔嗚尊の元に赴くにあたって訪ねたとされる五十猛神(大屋毘古神)を御祭神とする伊太祁曾神社の親神として和銅6年10月に大和国吉野郡西川峯(現在の奈良県吉野郡吉野山)より勧請されたのが当社の始まりであると伝えられている。
当初、御社は当神社山上に西面して創建されていたが、海上往来の船舶等が、崇敬の至誠を捧げなければ、事故が多く発生したため、元明天皇の勅命により現在の地に遷座したといわれている。
従って古来海の守護神として、また御祭神の勇猛な性質から剣難除(災難除)の神として朝廷をはじめ武家や一般の人々の尊崇が篤く、江戸時代には藩主紀州徳川家の累代崇敬社として崇められ、社殿の造営修復等は藩費にて賄われていた。
延喜式神名帳においては、名神祭、月次祭、新嘗祭の官幣に預り、三代実録清和天皇貞観元年正月の条において従五位下から従五位上に叙せられ、木國神名帳には従一位と記されている。
元明天皇、後醍醐天皇の勅願所であり、建武2年須佐大神宮の震筆勅額及び兵杖四本を賜ったが、天正の兵火で焼失した。
又建武2年5月に楠木正成より保田一円を寄進され、浅野家領国の際には祈願所として田十四町三反を献納されている。
(例祭)和歌山県下では「千田の喧嘩祭」とも言われ、氏子を始め多くの参拝者で賑う。
中でも「大御輿渡御」「鯛投げ神事」は、喧嘩祭の異名の通り、勇壮であり見物の人々で湧きかえる。
又、各地区の組太鼓奉納(現在八基)、子供御輿渡稚児行列、餅投げ等も祭の賑いをましている。
古くは伊太祁曾神社より神馬12騎がきて神事を務めたとあり現在は其々の例大祭に総代が参列している。
(鯛投げ神事)神前にお供えした鯛の内、二尺程の三懸(6尾)を高田浜での祭典終了後(およそ四時)男子神輿の担ぎ手の内から各地区一人ずつ櫓の上より投げ、それを奪い合う神事である。
千田の喧嘩祭の名はこの神事に由来し、今でも殴り合いによる怪我人が絶えない。
(粥占)拝殿南前の釜殿にて小豆粥を竹筒を入れて炊き、その中に入った米や小豆の量で十種の作物の豊作凶作占い、小豆粥を戴く事で一年の無病息災を祈願する。
占の種類、米の早生、中生、晩生、蜜柑の早生、中生、晩生、雑柑、大小豆、野菜。
(夏祓)氏子各地区ごとに参拝し、榊、「疫神齋」の札、剣先札、洗米、ススキで編んだ注連縄を受ける。

和歌山県神社庁



須佐神社

村の西南小名西方にあり保田荘五箇村の産土神にして劔難の神と稱す劔難除の神符を諸人に與ふるを古例とす郡中の大社なり郡中當社の外式内の神社なし 三代實録貞観元年(859年)正月27日甲申奉授紀伊國従五位下須佐神従五位上とあり此地古須佐郷といひ今又近郷に宮崎等の名遺れるも當社あるを以てなり詳に宮崎宮原兩荘の總論に載す 又栂尾明恵上人傳記建仁元年(1201年)の條に紀州保田荘中の須佐明神の使者といふ者夢中に來りて住處不浄を歎く事あり是古より今の社地に鎭座の明證といふへし 社家の傳に和銅6年(713年)10月初亥日此地に勧請すといふ 社記曰此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠向西海洋中往來之船不恭謹則飜覆破碎 元明天皇勅令南面今之社規是也とあり
寛永記に名草郡山東荘伊太祈曾明神神宮郷より亥森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし當社領古は伊太祈曾神戸に接して名草郡にあり其地又當社を勧請せり 詳に名草郡山東荘口須佐村の條に辨す合せ考ふへし 天正の頃(1573年)まては毎年9月初寅の日神馬十二騎山東伊太祈曾より來りて神事を勤めしといふこれ古の遺制なりしに今皆廢せり又日高郡富安荘當社及伊太祈曾神領なりし事あり 伊太祈曾社蔵久安文書是當社伊太祈曾の父神に坐すを以てなり
天正7年(1579年)豊臣秀吉公信長公の命を受けて此地を畧せる時湯淺の地頭白樫左衛門尉實房内應をなし里民を強暴し神祠を毀壊す 社家大江氏重正といふ者神器靈寶及縁起記録等を唐櫃二具に蔵め今の神祠の後光谷といふ谷の林中に隠す 實房これを捜り出し或は火に投じ或は海水に没し亂虐殊に甚し これに因りて當社の傳記文書の類一も傳はる者なく古の事蹟詳にするによしなし 其後神殿を造營し今の姿となる 社領没収の後も祭祀古の姿を模して9月14日神輿渡御の祭禮流鏑馬等皆一時の盛なるを極むといふ 元和年中(1615年〜)新に社領五石を寄附し給ひ 享保年中(1716年〜) 大慧公より御太刀御奉納あり 有徳大君御太刀一口御馬一匹を御寄附あり 社務を岩橋安藝守といふ大江姓にして古より代々神職なり

紀伊続風土記



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