志磨神社
しまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】志磨神社(名神大) 紀伊国 名草郡鎮座

   【現社名】志磨神社
   【住所】和歌山県和歌山市中之島677
       北緯34度14分24秒、東経135度10分51秒
   【祭神】中津島姫命 (配祀)生国魂命
   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】大同元年(806)神封七戸
       承和11年(844)正五位下
       嘉祥3年(850)従四位下
       貞観元年(858)正三位
       貞観17年(875)正三位
       明徳4年(1397)正月征夷大將軍源義満公再興
       応永9年(1402)8月修覆
       宝徳元年(1449)9月造替
       文明8年(1476)修覆
       天文5年(1536)造替
       天正13年(1585)3月兵焚に悉く焼失
       天正14年(1586)2月造営
       慶長10年(1605)6月11日奉遷宮
       寛永5(1628)年11月7日再興中島大明神
       延宝6(1678)11月造営
       昭和17年12月17日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】島(中州)
   【祭祀】江戸時代は「九頭明神」「中島大明神」と称していた
   【facebook】 志磨神社
   【社殿】本殿春日造
       拝殿・神饌所・社務所・氏子崇敬者会館・知新館・神輿庫
       樓門・手水舎

   【境内社】

紀之川の下流あり、古代の地形では、中州にあたり、度々の河水の氾濫に遭ったものと思われる。この「中州」を神聖視し、更に島そのものを神の棲む島として「中津島」を尊崇するに至った。
伊達神社、志摩神社、静火神社と相連がる神で、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命三神を祀れる。其の土地も北より南に連なって又一連の神である。古より神位を授けらるるに此の三神は必ず同時にして、然も同じ位階を授けられ、神名帳に神名を示すにも三神相並べて記載された。是に因って此の三神を紀三所の神と称した。
江戸期不明となっていた式内社の所在を元和年間(1615−24)に確定する際、中之島にあった小祠六所の一つであった「九頭明神」を志摩神社に定めたと言う。


由緒

新抄格勅符抄に、大同元年(806)紀伊国志磨神社へ神封七戸寄奉るとあり、御祭神中津姫命(市杵島姫命)は、天照大神、素戔嗚尊との、御誓約の三神の一つにして、生気凛々、清楚にして、瑞々しい女神様であり、古典続日本後記14に、承和11年(844)正五位下、文徳実禄に貞観元年(858)正三位、17年(875)正三位、紀伊国神明帳に正一位と神階が進められた史実によっても、当社が悠久の昔より連綿と続いているのは明らかである。
特に延喜式名神大社臨時祭に預かり朝廷の尊宗篤く、千六百数十年前、仁徳天皇紀伊国名草郡志磨神社再興の事等、皇室との御関係が深かった事が伺い知れる。また往古、紀之川の中州が堆積して、発達したこの地に氏神として祀られた当社は、氏子崇敬者の信仰ことのほか厚く、紀州三弁財天、九頭(国津)信仰などにより、この地を開いた神恩を忘れず、農・工・商すべての産業開発等、世の幸を増進する人間生活の守護神として、縁結び、治病、交通安全、建築、土木商工業繁栄の祈願が今も多く、参拝者の姿に観る事が出来る。
中世氏子神領民吉野朝時代に至って南朝に参じ神領封戸を失い、下って天正年間の兵乱等の社殿焼失を入れると実に、明治33年の造営まで十度の御本殿再興遷宮が行われている。(この項現存する棟札、明徳、応永、宝徳、文明、天文、天正、慶長、寛永、延宝、享保により明らかなり)浅野家、徳川家の藩主時代、自ら参拝、崇敬の誠を捧げられ享保4年現在の社頭整備が行われた。
古文書類、記録は枚挙にいとまが無く省略するが、昭和17年県社に昇格、大戦にも類焼をまぬがれ、戦前の氏子4318戸も終戦後2500戸になり、現在は(中之島、本町地区一部、大新地区一部、宮北地区一部、四ケ郷地区一部、有本一部)その他で9000戸に増え、四季の祭典賑々しく厳修され、戦後数回の社頭整備がなされ現況に至っている。7月14日の夏祭は和歌山市随一の風物詩として知られ、数万人の参拝客で賑わう。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




志磨神社

御由緒
御祭神 中津島姫命 配祀 生國魂神
御創建は悠久の昔、今より約1800年前神功皇后三韓征伐の御神助を厚く征謝され凱旋後武内宿禰をして奉斎せしめられた。
御社格 延喜式内名神大社 縣社 御神階正一位
大同元年朝廷より神領七戸を寄せられた志磨神戸(地名称)と云う。古来朝野の信仰厚く神域広大社殿宏壮を誇ったが南北朝時代神職領民等吉野朝に味方した為神領封戸の没収に遭ひ其の後足利義満公再興、更に天正年間豊臣秀吉紀州征伐の時郷党郷土防衛の為応戦兵火に罹って焼亡した。
紀伊國名所圖繪にこの事を嘆じて「今の結構は古の五ヶ一にも足らず」と有る。徳川時代に入り藩公の崇敬有り特に明治以降一般の崇敬厚く社運勃興の途についた。生成発展縁結びの神として尊崇をあつむ。

社頭掲示板



志磨神社

当神社は延喜式名神大社 臨時祭に預り朝廷の尊宗篤く、1700年前仁徳天皇、紀伊国名草郡志磨神社再興の事等、皇室との関係深かった事が伺い知れる。
悠久の昔、紀之川の中洲が堆積して、発達したこの地に氏神として祀られた当社は、紀州三弁財天(伊達神社、静火神社)九頭(国津)信仰などにより、この地を開いた神恩を忘れず、農工商すべての世の幸を増進する人間生活の守護神として、縁結び、治病、交通安全、建築、土木、商工業繁栄の祈願が今も多く、参拝者の姿に観ることが出来る。
『新抄格勅符抄』に大同元(806)年神封七戸寄せ奉るとあり『続日本後紀』、『文徳実録』巻二(正四位上)、巻二十七(従三位)『紀伊国神名帳』(正一位)となって、神階が各々進められ、朝廷の尊崇篤かりしことを伺い知れる。
伊達神社、静火神社に較べれば『和名類聚』巻九「紀伊国名草郡島神戸」と、当社のみ神戸が寄せられているのは、特筆である。 中世にあっては『紀伊国続風土記』巻之七に「志磨の神社境内周百二十六間鳥居前禁殺生、本社、神楽所、庁、鳥居二基、攝社二社、末社十社……、此地紀之川下流にありて地形変遷せし事なれば、当社も又少々移転して往古より今の地にあり……、後世戦争の世となり神戸没収せられ古の姿失ひたれとも慶長検地のとき其の地又没収せられ、社殿旧記天正の兵燹に悉く烏有となり其の詳なる事知るべからず元和の後名祠の廃絶を起され新に社殿を再創し漸々旧観に復し給へり……」とあり天正年間以来10度の火災に逢った事は、現存する10枚の棟札によって証明出来る。 雑賀一揆、根来攻め等当時の和歌山の様子が伺い知れる。
現在の本殿は宝歴6(1756)年に造営されたものである。
いずれにせよ生気凛々清楚にして、瑞々しい女神であり、四季の祭典賑々しく厳修され、7月14日15日の夏まつりは、市内一の風物詩として知られ、数万人の参拝客で賑わう。
(社叢)
境内は楠、椋、銀杏、樫、松、杉、榊等の常緑樹で、鎮守の森にふさわしい様子を呈している。

和歌山県神社庁



志磨神社

村中にあり 續日本後紀承和11年(844年)奉授紀伊國従五位下伊達ノ神志摩ノ神靜火ノ神正五位下文徳實録嘉祥3年(850年)三神加フ従四位下 三代實録貞観元年(859年)奉授三神ニ正四位下ヲ同17年奉授三神ニ従三位ヲとあり 其後三神とも正一位を授へ奉らる 志摩の御名は當村に鎭座の御神なれはなり
當社又伊達社貴志ノ庄園部村靜火ノ社神宮下郷和田村と三神一連の神なれは紀三所の神といふ 紀三所の名は三社を合せ稱する名なれとも後には其稱轉て又各社をも皆紀三所と稱せしと見ゆ 祀神は即伊太祁曾神大屋津姫神妻津姫神三神なり然れとも伊達の一社は伊太祁曾神を祭れる證あれとも志曾靜火に至ては何れを大屋津姫とも何れを妻津姫とも定むへき證なし 事は詳に貴志ノ庄園部村伊達神社の條に辨せり 此地紀ノ川の下流にありて地形屡變遷せし事なれは當社も亦屡移轉して徃古より今の地に座するにはあらしと思はる
當社土人相傳えて九頭明神といふ是は後世大國主神を合せ祀りて後には専ら合せ祀れる神名を唱へて通稱とはなれるなるへし 刺田彦神社に大國主神を合せ祀りて後世は唯九頭明神と唱へ伊達神社に素盞烏尊を合せ祀りて後世は唯祇園牛頭天王と唱へしと同し例なりかし 當社古は今の當荘の地を以て神戸に寄られ島ノ神戸といふ 當社もと伊達靜火と三社一連なれとも殊更に神戸よ寄られしを見れは 朝廷の御崇敬格別なる神と見えたり
後世戰争の世となり神戸没収せられ古の姿は失ひたれとも慶長(1596年)以前は猶社領田畠五段あり慶長〜)検地のとき其詳なる事知るへからす 元和(1615年〜)の後名祠の癈絶を起され新に社殿を再創し漸々舊觀に復し給へり 神宮上郷新在家村の傳に志摩神社は舊は新在家にあり後に中野島に移すといふ其説證據なし傳聞の誤なるへし
古き石燈籠一基あり銘に應永6年とあり
神主島氏なり

紀伊続風土記



紀伊国INDEXへ        TOPページへ



順悠社