水門吹上神社
みなとふきあげじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊達神社(名神大) 紀伊国 名草郡鎮座

   【現社名】水門吹上神社
   【住所】和歌山県和歌山市小野町2-1
       北緯34度13分56秒  東経135度9分54秒
   【祭神】御子蛭児神 大己貴神
   【例祭】9月18日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       天正年間(1573−91)吹上神社を合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】吹上神社は今の植松町の南二本松の辺にあった
        天正年間(1573−91)吹上神社を合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・幣殿・神饌所・社務所・参集殿

   【境内社】笠森稲荷神社

神武天皇が東征のみぎり、御兄の彦五瀬尊が崩御された男之水門の旧跡である。
吹上神社は式内伊達神社の論社とされている。
和歌山城下小野町の吹上社が寛保年間(1741‐1744年)年間に突如、伊達神社であることを主張し、それを藩が認めた。
吹上神社は今の植松町の南二本松の辺にあったが天正年間に合祀したものである。


由緒

エビスさんで親しまれている水門・吹上の両神社は湊及び吹上の産土神で、水門神社は昔海部郡湊村和田浜鵜の島にあったが名応年間に大海嘯が起って社殿が砂に埋没したので住民らが今の西河岸町に移し更に其後30年程へて大永3年6月23日に現在位置に移したものである。吹上神社は今の植松町の南二本松の辺にあったが天正年間に合祀したものである。
水門神社は蛭児神(恵美須さん)、吹上神社は大己貴神(大国さん)が御祭神である。
恵美須さん大国さんの二柱の福の神を祀っている。その鎮座地は神武天皇が東征のみぎり、御兄の彦五瀬尊が和泉で長髄彦の流矢に当り出血甚しく雄詰男の芝で崩御された旧跡である。この辺を男の芝とも、男之水門、雄湊とも言われている。
(十日戎)
正月9日の宵戎、10日の本戎、11日の残り福といって福を授かるべく老若男女の参詣し吉兆(福笹)を求めて帰る人の夥しい事は今も昔も変わりない。
(牛の舌餅投げ) 
牛の舌餅という「のし餅」は毎年11月23日の新嘗祭に行なわれている。一時は中断されていたが現在では復活している。
これは何時の頃より始められたか詳かではないが牛祭りに投げたものと言われている。(牛祭りの事については寺社書上「旧藩の時の記録」にあり)

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




水門吹上神社

水門神社社伝によると、昔、紀水門の海上に、夜ごとに神光顕われ、いつしか波に従って浜辺に打ち上げられたのを見ると、戎様の神像であったと言う。
そこで、湊村字和田濱鵜島に祠を建て、これを齋き祀っていたが、明應年間(1491〜1500)に大海嘯が起こって砂に埋没したので、住民らが今の西河岸町字元恵美須に移し、更に大永3(1523)年6月23日、現在位置に鎮座したものである。
吹上神社は、昔は、吹上三本松(今の植松町の南)と言う所に鎮座していたが、天正年間(1573〜1591)、此地に合祀したものである。
その後、しばらくは、相殿でお祀りしていたが、後に、社殿を分け二神相並べてお祀りし、第二次大戦迄、水門神社・吹上神社と称していたが、戦災により社殿一切が消失し、戦後は、同床共殿によりお祀りし、水門吹上神社と称するようになり現在にいたっている。
水門神社は蛭兒神(戎様)、吹上神社は大己貴神(大国様)が御祭神で、二柱の福の神をお祀りする全国でも例の少ない神社である。
(鎮座地)
現在の鎮座地は、神武天皇が御東征のみぎり、御皇兄の彦五瀬命が、和泉で長髄彦の流失に当り、出血甚だしく、崩御されたと言われる旧跡である。
『古事記』に言う「男水門」とはこの地であると伝えられ、境内には、聖跡記念碑が立っている。
(十日戎)
神社は、紀州の十日戎祭発祥の社として知られ、正月9日、10日、11日の十日戎には、福を授かるべく老若男女が参詣し、吉兆(福笹)を求めて帰る人のおびただしい事は、今も昔も変わりない。
又、現在では、よく知られている「のし飴」も当社が発祥の物であり、これは紀州独特の物で、他では見られない。
(牛の舌餅投げ)
牛の舌餅という畳1枚程ある「のし餅」は、毎年11月23日の新嘗祭に、神饌として、御供し、祭典終了後、参詣者に、他の奉納された餅とともに、投げ配られている。
これは何時の頃より始められたか詳らかではないが、牛祭りに投げたものと言われている。

和歌山県神社庁



水門吹上神社

小野町二町目古名雄ノ芝といふ所にあり 湊及び吹上の産土神なり 古は二神相殿に祀れり 今二社相並ふ基本は恵美須社は湊の産土神にして吹上ノ社は吹上の産土神なり 當社又聞名大明神又湊大明神といふ又湊大明神といふ又唯恵美須社ともいふ 其稱皆恵美須1社の稱なり 兩社に通する稱とするは吹上ノ社は後に此地に合祀せる神なればなり 社家舊説曰昔蛭子ノ像自海中逆流到此處取而葆祀之稱聞名大明神ト社ノ傍ニ有芝號ス雄芝社記神田 畠山家多寄附スト神田ヲ云  天正之亂悉亡失せり矣其詳ナル不可知也或傳大永3年(1523年)6月23日始テ祭ル于此ノ地ニ 一説に此神舊は和田浦雨ノ島にあり明應ノ比和田浦高波に跛られ村民神祠佛宇と共に湊村に移る 此ノ神も其時此地に移れるなりといへり 是恵美須社鎭坐の來由なり 吹上ノ社のこと宇津保物語及西行の歌に見ゆ 又朝野羣載に紀伊國小野社とあるも吹上ノ社の事ならむ 此神舊は今の湊植松町ノ南大松の下に鎭り坐せしを天正年間(1573年〜)雄芝に移し奉り恵美須ノ社と合せ祀れるなり 當社中世は兩部の社にて今の湊善福寺は舊聞名大明神の奥院なりといふ 兩社の事其詳なるは神社考定部に辨せり 明暦ノ記に恵美須ノ社領畠山家多く寄附あり 慶長4年(1599年)桑山法印神田三段を寄附せり 同6年淺野家三石寄附あり 元和の制これを襲用らる
恵美須の祭禮6月23日古は牛祭とて名高き神事ありしとなり今11月23日の祭に牛の舌餅とて大なる熨餅を投ることあり 吹上ノ社は9月18日を神事とす
神主を秋津氏といふ

紀伊続風土記



水門吹上神社

古から地域に愛され続ける
水門吹上神社
日本には「八百万の神(やおよろずのかみ)」といわれるようにたくさんの神さまがいて、祀る神社とともに、わたしたちの生活と切っても切り離せない近しい存在となっている。
今回取り上げる「水門吹上神社」は、地域に愛されてきた歴史ある神社であり、市民にとっても十日えびすが行われる神社として親しみのある場所といえる。
そこにはどんな神さまが祀られているのか?どんな行事があるのか?由緒は?
新しい年を迎えるにあたり、身近な神さま・神社のことを知ろう。
水門吹上神社の由緒・歴史
水門吹上神社には、「戎様」と「大国様」、二柱の御祭神がある。このように福徳二神をお祀りする神社は全国的にみても珍しいという。二柱の神さまはなぜ一つ所に祀られることになったのか。そのルーツを知るには、歴史を1500年代にまで遡ることになる。
その昔、水門神社は、紀の川の中州・鵜島(うのしま)に祠を建て戎様の神像が祀られていた。しかし明応年間(1491〜1500)に大津波が起こって砂に埋没してしまったのを住民たちが現在の西河岸町付近に移し、さらに大永3年(1523)6月23日に現在の位置に鎮座したと伝えられている。
かたや吹上神社は、吹上三本松(現在の植松町付近)に鎮座していたが、天正年間(1573〜1591)にこの地に合祀し、しばらくは水門神社と相殿となる。その後、社殿を分けて、水門神社・吹上神社と称していたが、第二次大戦の戦災により社殿が消失。戦後は同床共殿でお祀りし、水門吹上神社と称するようになり、現在に至つている。
境内にそびえ立つ大きな石碑は「神武天皇聖蹟男水門顕彰碑(ジンムテンノウセイセキオノミナトケンショウヒ)」といい、神武天皇が東征の際に、兄の五瀬命(イッセノミコト)が和泉で流れ矢に当たり、崩御された旧跡であること、そして、崩御されたのが男之水門(おのみなと)である[古事記白本書紀より]とするもので、碑には薨去(こうきょ)された様子と男水門の名前の由来が刻まれている。男水門にまつわる石碑は他の場所にもいくつか存在しているが、ここが本家本元と言われている。碑が欠けているのは、太平洋戦争の戦火によるもので、和歌山市内の空襲の悲惨さも伺い知ることができる。
紀州十日えびす発祥の地
じつは水門吹上神社は、紀州の十日えびす(湊本戎)発祥の地としても知られている。親しみを込めて「えべっさん」と呼ばれる戎様は本来漁業の神さまだが、関西では商売繁盛の神さまとして人気で、七福神のひとりとして数えられる。水門吹上神社のえべっさんは毎年福男で知られる西宮神社の系統で、祭神は御子蛭児神。御子蛭児神とは、イザナギとイザナミから最初に生まれた子で、後に海の神として祀られるようになったといわれている[諸説あり]。
また、えべっさんの風物詩である「のし飴」も水門吹上神社が起源だといわれている。小島宮司は「紅白の"の"と"し"は、延命などを願い作られたのではないか」と話す。ちなみに「のし飴」は、和歌山独特のもので、他の府県では見られないそう。
水門吹上神社のえべっさんは、宵宮(9日)の午前9時から残り戎(11日)の深夜0時まで夜通し開けていて、昼夜間わず大勢の人が福を求めてやってくる。9日の午後7時からは宵宮祭、10日の午前10時からは本戎祭が行われ、氏子による「えびす会」のメンバーを中心に運営され、友の会の婦人部が笹の飾りつけなどをする。
珍しいお祭り「牛の舌餅投げ」
毎年11月23日の「新嘗祭」に行われるのが「牛の舌餅投げ」。牛の舌のように大きいのし餅(たたみ1畳分・約60s・米1俵分)2枚を切り分け豪快にまく神事で、毎年大勢の人が我こそはと福を求め賑わい、数日前から問い合わせに追われるというほど人気が高い。始まりは江戸時代からだと言い伝えられ、当時の様子を描いた絵画にも今と同じような変わらぬ風景が描かれているところから、町民文化が栄えた江戸時代、庶民の楽しみのひとつとして行われてきたのではないかと推測できる。今も昔も、和歌山県民にとっての餅投げは暮らしの楽しみのひとつ。ここ水門吹上神社は、これからも人々に福をまき、地域を賑わせていくことだろう。

紹介パンフレット



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