高積神社(上の宮)
たかつみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高積比古神社 紀伊国 名草郡鎮座

   【延喜式神名帳】高積比売神社 紀伊国 名草郡鎮座

          (下の宮)高積神社(下の宮)

   【現社名】高積神社(上の宮)
   【住所】和歌山県和歌山市禰宜1557
       北緯34度14分5秒  東経135度15分41秒
   【祭神】都麻都比売命 五十猛命 大屋都比売命
       (合祀)天照皇大神 須佐男命 八王子神 大山祇神 気津別神 応神天皇 神功皇后

   【例祭】4月15日 春季例大祭 10月10日 秋季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】神社の創祀年代などは不明
       元応2年(1320)11月社領寄進
       元亨元年(1321)5月社領寄進
       正平10年〔1355〕社領安堵の後村上天皇の論旨
       元和以来(1615−)歓喜寺を離れ唯一神道に復
       明治6年4月村社
       明治43年気津別神(気鎮神社)を合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は日前国懸神宮の鎮座地にあったと伝
        その後現在地に遷
        その後移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高御前神社」「高三所大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

高積山(237m)の山頂にある。
江戸期は上の宮を「高御前神社」あるいは「高三所大明神」とし、下の宮は「気鎮(きづめ)神社」としていた。
『紀伊国名所図絵』では、「高津比古神は山上に齋き奉り、高津比売神は山下に齋き奉りし」とある。


高積神社

高積神社御由緒
高積神社は、和歌山市の講に南北続く和佐山連峰の北端に聳える「高積山」(通称「高山」「高の山」の山頂(海抜235m)に位置している。地番は以前「海草郡和佐村大字祢宜字高山1557番地だったが、昭和31年(1956)の町村合併に伴い「和歌山市禰宜1557番地」(下の宮は禰宜1390番地)となっている。
当神社は「高山」の地にあることから、古くから「高の御前」「高の宮」の名で呼ばれており、人々の信仰は格別に厚い、特に疱瘡(天然痘)流行の節は、県内外からの参詣者が絶えなかったとのことである。なお、山頂にある本殿は「上の宮」、麓にある遥拝所は「下の宮」として親しまれてきた。
主祭神は、「都麻津比売命・五十猛命・大屋津比売命」の三人の兄妹神で、紀ノ国に木の種を伝えられた素盞鳴尊の御子である。垂任天皇の16年、日前・国懸両神宮が浜宮から秋月に遷られた折、この三神が秋月から伊太祈曽に遷られた、更に、文武天皇の大宝2年(702)に三神分祀の勅令によつて五十猛命は伊太祈曽に都麻津比売命は高山に大屋津比売命は川永宇田森に祀られることになった。一応は三神分祀だが、中央に都麻津比売命を祀り、両側に他の二神を祀っていることから、当神社を.『高三所大明神」とも称えられてきた。
なお、明治43年(1910)に、旧和佐村内に点在していた三十数ヶ所の神社が、内物省認可により高積神社に合祀された。
当神社の所在地「高山」は、麓から800m余登った景勝の地にあり、北方の紀ノ川は帯のように豊かに流れ、西方の和歌山市は足下に見え、遠く淡路・四国まで一望できる。東は竜門山、高野山、南は生石山や有田の山波が続いている。また、愛郷家によって育てられた春の桜が全山を色どり、秋の紅葉とともに風情は一入である。
・古銭埋蔵地
大正14年(1925)本殿前のすぐ北の平地で、古銭一万数千枚が発掘され、本県の文化財に指定されている。
・古城跡
高積山の南方、500m余の城ケ峯(通称「城」と言い、海抜は255m・和佐山連峰の最高峰)は、延文5年(1360)の南北朝時代の古戦場で、土塁・空堀などの陣地跡が残されている。
[例祭日]春祭は「上の宮」で行う。
春(4月第二日曜日)夏(7月15日)秋(10月体育の日)冬(12月15日)
平成16年(2004) 高積神社総代会

社頭掲示板



高積神社

高積神社は和佐荘禰宜村高山の上にありまして
延喜式都麻都比売神社 名神大月次新嘗
即ち此御神であります。古から相伝えて高杜とも又高ノ宮とも又高三所大明神とも又高ノ御前とも称へ奉り、和佐高山の嶺に坐すによって高と云ふのであります。
高三所大明神と云ふのは一社でありますが後述の三神相殿に在すから云ふのであります
続紀に大宝2年2月己未分遷伊太祈曾、大屋都比売、都麻都比売三神杜とありまして此御神初五十猛命、大屋都比売命と三神共に今の日前国懸神宮の鎮り坐る地に在しましたが垂仁天皇16年日前国懸両神宮浜の宮より今の地に遷り給ふたに因って五十猛命の三神其の地を去って今の山東の伊太祈曾の地に遷り給ひ、其後大宝2年に、三神を分遷の勅命があり三神所を異にして鎮り坐したのであります。五十猛命は山東の荘に在しまし大屋都比売命は、紀の川の北平田荘に遷り、都麻都比売命は此高山に遷り給ひ三神三所に分れ鎮り坐したのでありますが三神共に其神を中央に祀っ、て本杜とし外二神は猶左右に祀って旧の如く三神となして居るのであります。そこで是地の名を高三所大明神とは称へ奉って居ります。 又是を地形に考へますと三神南北に連って其間各二里余を隔て宮居し給ひ、何れも東面し給ふて居られるのは土地を択ばれた意であって偶然に出たのではありません。此神は紀伊国の三神とも申され紀伊国に於て最古に祭祀された御神で紀伊国の一ノ宮とも申され木を司る御神であることは周知の通りで此の三神によって始めて本県に植林されそこで紀伊国と名をつけられた由縁でもあります。
そして当社の所在地高山は麓から八町余も登る山頂にあり海草平野に屹立し眺望の絶佳なることは他に比類が無く、西は和歌山市は足下にありて、遠く淡路四国まで一望の中にあり、東は高野山、南は生石山が手にとるが如く日高方面までも直ぐ間近に見え、北は紀の川が伊都方面から河口まで脚下を流れ、由緒と云ひ絶景なることは近隣に絶えて無く為めに戦時中までは参拝客其跡を絶たない状態でありました。又其処は南北朝時代の古戦場で未だにその遺跡があり、又20数年前萬余の古銭が発堀されたこともあり、尚他に類を見ることの出来得ない板碑が拾体余も祀られて居ります。
この由緒深き県民の最も縁のある神を奉杞して居る当社も終戦後戦前の神賑の如くではなく、為めに氏子及び崇敬者の有志相計り広く崇敬の地とせしめんものとこの奉賛会を組織して祭典執行を奉賛し、神社の改修は勿論境内地社有地の整備美化を計り御神威の宣揚につとめると共に頽廃せる道義の作興に寄与せんとするものであります。
それで此の際何卒此の奉賛会の趣旨に御賛同賜り目的達成出来得ますよう御協力方偏へに乞願ふ次第であります。

高積神社奉賛会趣意書



高積神社

積神社は、和佐荘祢宜高山(現在の高積山)の上にあって、『延喜式』「都麻都比売神社、本国神名帳従四位上都麻都比売大神」が即ちこの御神である。
古から相伝えて高社とも、又高ノ宮とも、又高三所大明神とも、又高ノ御前とも称へ奉り、和佐高山の嶺に坐すによって高と云うのである。 高三所大明神と云うのは1社であるが、後述の三神相殿に在すから云うのである。
『続紀』に、「大宝二(702)年二月己未、分遷伊太祈曽、大屋都比売、都麻都比売三神社」とあって、この御神初め、五十猛命、大屋都比売命と三神ともに今の日前・国懸両神宮の鎭り座す地に在わしたが、垂仁天皇16年目、日前・国懸両神宮浜の宮より今の地に遷り給うたによって、五十猛命の三神その地を去って、今の山東の伊太祈曽の地に遷り給い、その後大宝2年に三神を分遷の勅命があり、三神所を異にして鎭り座したのである。
五十猛命は、山東荘にましまし、大屋都比売命は紀の中の北平田荘に遷り、都麻都比売命はこの高山に遷り給い、三神三所に分れ鎮り座したのであるが、三神ともにその神を中央に祀って本社とし、外二神は猶左右に祀って旧の如く三神となしているのである。
これ則ち是地の名を高三所大明神と称え奉っている所以である。
『日本書紀』(神代)の、宝剣出現の段の一書にみえ、五十猛命らとともに紀伊国に木種をもたらした神と伝えられる。
当社の所在地高山は、南北朝時代の古戦場で未だにその遺跡があり、又50数年前萬余の古銭が発掘されたこともある。

和歌山県神社庁



紀伊国INDEXへ        TOPページへ



順悠社