竈山神社
かまやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】竈山神社 紀伊国 名草郡鎮座

   【現社名】竈山神社
   【住所】和歌山県和歌山市和田483
       北緯34度12分2秒、東経135度12分17秒
   【祭神】彦五瀬命
   【例祭】10月13日 例祭
   【社格】旧官幣大社
   【由緒】創祀の次第は詳でない
       永徳元年(1381年)、紀国造家によって鵜飼新五郎が神主に任
       天正13年(1585)豊臣秀吉の根來雑賀一揆を撃つた兵火で焼失
       慶長5年(1600)浅野幸長が小祠を再建
       寛文9年(1669)徳川頼宣が社殿再建
       明治6年村社
       明治18年4月22日官幣中社
       大正4年11月10日官幣大社
       昭和13年社殿造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】昔は丘麓に在つたと想われる
        移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は古墳を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿春日造檜皮葺
       脇殿・中門・幣殿・拝殿・神門・社務所・参集所・齋館
       祭器庫・宝庫・手水舎

   【境内社】左脇殿・右脇殿・合祀神社・末社第一殿・末社第二殿・靜火神社・青葉神社

昔は丘麓に在つたと想われるが、その後現状となつたらしい。
丘上北半が彦五瀬命の募域とされている。
彦五瀬命は神武天皇とともに東征に向かったが、難波の白肩津での長髄彦との戦闘で負傷した。その傷が元で、紀国の男之水門に着いたところで彦五瀬命は亡くなり、紀伊国竈山に墓が作られたと伝。
村社から官幣大社まで昇格したのは当神社が唯一の例である


由緒

御祭神の彦五瀬命は大一代神武天皇の皇兄に坐し、大和平定の途中、孔舎衛坂で長髄彦の軍と戦い、流れ矢に当たり給いて戦傷、雄水門に至りて遂に崩御遊ばされ、竃山の地に葬られ給う。
今の社地は即ちその遺跡で、延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡、竃山神社」と記され、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社であり、天正年間まで社領八町八段を有したと伝えられている。
往古は社殿も宏大にして現社地遥か東南山麓に鎮座し給うたが、戦乱の世を経て社頭衰微し、徳川氏の入国後、社殿を再興した。
明治18年官幣中社に列せられ、大正4年官幣大社に昇格、昭和13年には国費及び崇敬者の献資を以って社殿を造営し、境内を拡張して現在に至っている。
寛政6年冬、国学者 本居宣長はこの社に詣でて、
をたけびの かみよのみこゑ 
おもほへて あらしはげしき  
かまやまのまつ、
と詠んだが、竃山の岩根に鎮ります神霊は、日本の国の行手を永久に護り給い、導き給うことと拝し奉る。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




竃山神社

竈山神社由緒 このお社は彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を祭ります。命は第一代神武天皇の兄君で、大和平定の途中戦傷、雄水門(ヲノミナト)で亡くなられ竈山(カマヤマ)に葬られました。今から千年程前の国の法律である延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡竃山神社」とあり、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社でありました。
しかるに、天正13年豊臣秀吉が根来寺を伐つた時の兵禍により、社地社領を没収され、社殿を始め宝物・古文書など一切を失ひましたが、寛文九年和歌山城主徳川頼宣が再建、歴代の尊崇を捧げました。
明治18年4月22日官幣中社に列せられ、大正4年11月10日官幣大社に昇格、昭和13年には国費及び崇敬者の献資を以て、社殿を造営し境内を拡張して現状となつてゐます。大東亜戦争は、人種的差別の撤排に近づき、東亜諸国の独立といふ大目的を遂げた点で成功と申せませうが、我国自体は敗戦の惨苦を具さになめさせられました。「身を殺して仁をなす」とはこの事です。日本の国のあけぼのに、五瀬命のお示しになつたのもこの事です。
寛政6年の冬、本居宣長はこの社に詣で
   をたけびの かみよのみこゑ おもほへて     あらしはげしき かまやまのまつ
と詠まれました。竈山の岩根に鎮まります御神霊は、この日本の基礎であると共に、永久に世界の安定と発展とをお守り下さることでせう。

社頭掲示板



竃山神社

御祭神の彦五瀬命は、第一代神武天皇の皇兄に坐し、大和平定の途中、孔舎衙坂で長髄彦の軍と戦い、流れ矢に当たり給いて戦傷、雄水門に至りて遂に崩御遊ばされ、竈山の地に葬られ給う。
今の社地は即ちその遺跡で、延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡、竈山神社」と記され、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社であり、天正年間まで社領8町8段を有したと伝えられている。
往古は社殿も宏大にして現地か東南山麓に鎮座し給うたが、戦乱の世を経て社頭衰微し、徳川氏の入国後、社殿を再興した。
明治18年、官幣中社に列せられ、大正4年、官幣大社に昇格、昭和13年には国費及び崇敬者の献資を以って社殿を造営し、境内を拡張して現在に至っている。
寛政6(1794)年冬、国学者 本居宣長はこの社に詣でて「をたけびの かみよのみこゑ おもほへて あらしはげしき かまやまのまつ」と詠んだが、竈山の岩根に鎮ります神霊は、日本の国の行手を永久に譲り給い、導き給うことと拝し奉る。

和歌山県神社庁



竃山神社

御祭神の彦五瀬命は第一代神武天皇の皇兄に坐し、大和平定の途中、孔舎衛坂で長髄彦の軍と戦い、流れ矢に当たり給いて戦傷、雄水門に至りて遂に崩御遊ばされ、竃山の地に葬られ給う。 今の社地は即ちその遺跡で、延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡、竃山神社」と記され、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社であり、天正年間まで社領八町八段を有したと伝えられている。 往古は社殿も宏大にして現社地遥か東南山麓に鎮座し給うたが、戦乱の世を経て社頭衰微し、徳川氏の入国後、社殿を再興した。 明治18年官幣中社に列せられ、大正4年官幣大社に昇格、昭和13年には国費及び崇敬者の献資を以って社殿を造営し、境内を拡張して現在に至っている。 寛政6年冬、国学者 本居宣長はこの社に詣でて、をたけびの かみよのみこゑ おもほへて あらしはげしき かまやまのまつ、と詠んだが、竃山の岩根に鎮ります神霊は、 日本の国の行手を永久に護り給い、導き給うことと拝し奉る。

由緒書



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