麻為比売神社
まいひめじんじゃ
津秦天満宮 に合祀
所在地 社名














   【延喜式神名帳】麻為比売神社 紀伊国 名草郡鎮座 
   【現社名】津秦天満宮
   【住所】和歌山県和歌山市津秦83
       北緯34度13分20秒、東経135度12分12秒
   【祭神】(津秦天満宮)菅原道真
             (配祀)麻為比売命 名草彦命 名草姫命

   【例祭】(津秦天満宮)7月25日 夏祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       大正7年麻為比売神社を合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初の鎮座地不詳
        現在の天満宮の南、100mの位置に石標があった

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】
       

   【境内社】

麻爲比売神社(知波夜姫命)は津秦村にあり、「千早の杜」と呼ばれた。
本殿横に「麻為比売神社」と刻された石碑がある。現在の天満宮の南、100mの位置にあったものを、いつの時代か現在は天満宮境内本殿丑寅の方にお祀りしている。


由緒

紀伊風土記によると。津秦は古、津和田村といって、東西二つに分れ、入海であった。浜辺で津渡の処から津和田と云ったと記している。
昔は知和夜の森、または土俗千早の杜と云ったそうである。数年前迄は数百年もの年輪を持つ緑したたる松の森も次々と松喰虫の被害であとかたもなく、現在千有余年の歴史を持つ県文化財指定の楠の大木、モチの木、桜、梅、ツツジ、萩など参詣人を楽ませている。
○麻為比賣神社(知和夜姫神社)
延喜式神名帳に「麻為比賣神社、本国神名帳従四位ノ上麻為比賣神」、国造家正平20年検田取帳に「知和夜二段、知和夜姫敷地」とある。
御社は兵乱に廃絶して石銘を建て、「麻為比賣神享保甲辰」の九字をきざむ。この石銘は古は現在の天満宮の南、100mの位置にあったものを、いつの時代か現在は天満宮境内本殿丑寅の方にお祀りしている。数年前伐採した松の配置から見ると、周辺一体は天満宮の境内であっただろうと思われる。現在、麻為比賣社跡は松は切られ、小高い草山が残っている。
○天満宮  
古、西津秦村中に、筑紫の安楽寺より書像を勧請したが、今は寺が廃去している。昔からこの里の農民は常に天神を敬神していた為、ある信者が北野天満宮に詣で霊夢によって御殿を建て、寛永年中に御神体を納めた、国造家永仁元徳の舊記にこの社の事を載す。また、天正13年、法楽連歌一軸国造家に蔵むと紀伊風土記に記されている。また、当社古書には、延喜2年2月、道真公筑紫にむかわれる途中、この千草の杜で一子、好寛公と別離し、隣村の神前の郷、中務家に預け自分の御影を残した。   
「ふりかえり  かへり行くかも別れにし  千草の杜の見ゆるかぎりは」と記してある。
現在、神前には中務家の広い屋敷跡が残っている。また天満宮境内に菅原好名賀氏奉納の古い燈篭一基が現存している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




津秦天満宮

津秦天満宮
○鎮座地 和歌山市津秦83番地
○祭神麻 為比売命、菅原道真公、名草彦命、名草姫命
○創立  麻為比売命 正平12年、天満宮 寛文年中
○例祭日 毎月25日
○御由緒
紀伊風土記によると、津秦は古、津和田村といって、東西二つに分れ、入海であった。浜辺で津渡の処から津和田と云ったと記している。
昔は知和夜の森、または土俗千早の杜と云ったそうである。数年前迄は数百年もの年輪を持つ緑したたる松の森も次々と松食虫の被害であとかたもなく、現在千有余年の歴史を持つ県文化財指定の楠の大木、モチの木、桜、梅、ツツジ、萩など参詣人を楽ませている。
○麻為比売神社(知和夜姫命)
延喜式神名帳麻為比売神社、本国神名帳従四位ノ上麻為比売神、国造家正平20年検田取帳に知和夜二段、知和姫敷地
御社は兵乱に廃絶して石銘を建て、麻為比売神享保甲辰ノ九字をきざむ。この石銘は、古は現在の天満宮の南、100mの位置にあったものを、いつの時代か現在は天満宮境内本殿の丑寅の方にお祀している。数年前伐採した松の配置から見ると、周辺一体は天満宮の境内であっただろうと思われる。現在、麻為比売社跡は松は切られ、小高い草山が残っている。
○天満宮
古、西津秦村中に、筑紫の安楽寺より画像を勧請したが、今は寺が廃去している。昔からこの里の農民は常に天神を敬信していた為ある信者が北野天満宮に詣で霊夢によって御殿を建て、寛永年中に御神体を納めた。国造家永仁元徳の旧記にこの社の事を載す。
また、天正十三年、法楽連歌一軸国造家に蔵むと紀伊風土記に記されている。また、当社古書には、延喜2年2月、道真公筑紫にむかわれる途中、この千草の杜で一子、好寛公と別離し、隣村の神前の郷、中務家に預け自分の御影を残した。
「ふりかえり かへり行くかも別れにし 千草の杜の見ゆるかぎりは」と記してある。
現在、神前には中務家の広い屋敷跡が残っている。また天満宮境内に菅原好長氏奉納の古い燈籠一基が現存している。

由緒書



津秦天満宮

由緒略記
津秦天満宮は、津秦の天神さんと親しまれ、菅原道眞公を主祭神として「知恵の神様」「学問の神様」と崇敬されております。天正年間の兵火に依り散失して、その詳細不明のところが多いが、社記及び散逸した史料を収集して綜合すると、延喜元年(901年)、菅原道眞公が、太宰府に向われる途中、和歌吹上の浦にて風波の難を避けられ、陸路ひそかに千早の社(現当社地)に立ち寄られ、ここで神前の郷の中務家に預けられていた御子、好寛公と最後の名残を惜まれた遺跡である。
わがたよる千早の宮のます鏡くもらぬすがたうつしてぞゆく
ふりかえりかえり行くかも別れにし千早の社の見ゆるかぎりは
と、手早の社とは紀伊続風土記にも見られる様に、当神社の森で今は僅かに往昔の一部分を残すのみである。以来、此の地に神殿を建立し菅公を奉祀し崇敬を集めていたが、天正の兵火により全部烏有に帰した。当時は戦乱の余弊をうけ、人民困苦にして再建すること能はず、以来年月を経て常に天満天神を敬信するこの郷の隠者あり或時京都北野天満宮に参詣し、霊夢を感じ太宰府天満宮に詣で画像を勧請して帰り、当社地に神殿を寛永年間(1627年)に造営し奉斎の盛儀を挙げている。(以上は國造昌長の作なる神社本記にみる)その後も天神信仰あつく明治19年(1886)11月、津秦村の世話係の方々に依り、三重拝殿が建立され現在に至っている。
○宝物三十六歌仙図絵馬
川合小梅の筆 明治11年9月奉納
曳牛図絵馬
境内のお社(やしろ)
○麻為比売(まいひめ)社  知波夜比売神(ちはやひめのかみ)・木花咲耶比売神(このはなさくやひめのかみ)を祀る。
延喜式神名帳に記載されているが詳細は不明である。享保年中(1725年)命により、石碑を建てた。(現当社地より南100mの社地に)その後、大正7年(1918年)に津秦天満宮本殿に合祀され、石碑も移された。
○中言社 名草彦命・名草姫命 本殿に合祀。
 この郷を広く守護してくれる神。
○野槌(のづち)社 (のづち)…牛神さん 草野比売神を祀る。
農耕の神「クサ」「できもの」を治してくれる神、又瓦製の寝牛は頑具として全国的に有名。
○弁財天社 市杵島比売命を祀る。
 美人の神様。芸術の神。芸ごと上達の神。
○稲荷社 宇迦之御魂神を祀る。
 厄除開運、五穀豊穣の神。
○恵比須社 事代主命を祀る。
 (津秦七恵比須さん)商売繁昌、福の神。
○行者神変大菩薩の堂 大峯不動尊の分身を祀る。
 安政二年より津秦の郷の崇敬者が講として奉祀していた。 昭和52年当社境内に鎮座。

社頭掲示板



津秦天満宮

麻爲比賣神社(知波夜姫命)津秦村にあり、「千早の杜」という。 『延喜式神名帳』「麻爲比賣神社」、『本國神名帳』「従四位上摩爲比賣神」、享保年中、命あって石を建て、麻爲此賣神享保甲辰の9字を刻む。 この石碑は、現在の天満宮の南、100mの所にあったものを大正7(1918)年に津秦天満宮へ合祀、石碑も現在地へ移転。
当神社は、菅原道真公を主祭神としている。
学問、文芸に、一際、秀れ朝延の信頼も厚かった道真公は、醍醐天皇の昌泰4(901)年1月25日左遷の詔により2月1日太宰府に向われる途中、和歌吹上の浦に船をつけられ、当時、入海であった津和田村の「千早の杜」をたずねられ、(現、津秦天満宮の境内地)「わがたよる千早の宮のます鏡くもらぬすがたうつしてぞゆく」「ふりかえりかへり行くかも別れにし、千早の杜の見ゆるかぎりは」と御子、好寛公とのつきぬ名残りを惜まれ、御子を隣村の神前の里、中務家に預けられた。
現在、和歌山市神前588番地には中務家の当時をしのぶ広い屋敷があり、門、土塀は、そのままで、屋根瓦には、梅の紋があり、塚山もある。 『紀伊續風土記』では、筑紫安楽寺より、菅原道真公の画像を勧請したともいわれ、また当地の道真公を敬信していた農民が、京都北野天満宮に参詣した時の霊夢によって、社殿を建てたとも伝えられている。
その後、御神体が一時、行方不明となったが、社頭の梅の木に、かかっているのを見つけ、寛文年間(1672)に、御神体を社殿に納められ、奉斉の盛儀を挙げ、現在の天満宮にいたる。
尚、道真公は、仁門天皇、承和12(845)年6月25日に、京都、菅原院天満宮で誕生する。
(社叢)
境内573坪、樹令1000年をほこる樟の木が、そびえ、千年祭記念の石碑がある。
梅、桜、さつき、つつじ、しょうぶ、さざんかと、四季折々の花々が咲き参詣者の心をなごませている。
(初天神)1月25日(梅花祭)2月25日 合格祈願、学力向上祈願等をする 甘酒接待をする
(茅の輪くぐり(知恵の輪くぐり)大祓式)7月25日 湯立神楽を奉納し、無病息災を祈願する 鼓笛演奏、民踊、太極拳演舞等を奉納する 若いお母さん達の夜店で賑う
(津秦七恵比須社祭)1月9・10・11日 吉兆を授与する

和歌山県神社庁



麻為比賣神社

西津秦の南一町許にあり 今社殿廃す 享保年中(1716〜) 命ありて石を建て麻為比賣神享保甲辰の九字を鐫む これ延喜式載する所の麻為比賣神社本国神名帳載する所の従四位上麻為比賣神とせるなり 然れとも此義疑はし 按するに舊此地は有家郷の内なりしを近世津秦領となれり 國造家正平20年(1349)検田取帳に知和夜二段知和姫敷地また康永2年段別帳に有家郷千和屋免坪また有家郷和知屋の森と見えたる地にて此社は地和屋姫神なる事明らかなり 麻為比賣社廃絶しうて所在詳ならさるより謾に此神をさして麻為比賣とせしなるへし  知和夜姫神詳ならす 延喜式備後國三次郡知和夜比古神社三谿郡知波夜比賣神社舊事記國造本紀以天火明命五世の孫知波夜令定國造又天神本紀乳速日命広湍神麻續連等の祖とあり 然れとも享保中定らるゝ所にて麻為比賣神他に求むへきなけれは姑くこれを記して疑を存すといふ

紀伊続風土記



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