刺田比古神社
さすたひこじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】刺田比古神社 紀伊国 名草郡鎮座

   【現社名】刺田比古神社
   【住所】和歌山県和歌山市片岡町2-9
       北緯34度13分26秒、東経135度10分27秒
   【祭神】大伴道臣命 大伴佐弖比古命
       刺田比古神 『紀伊国神名帳』
       狭手彦命 『神名帳考証』
       刺国大神 『古事記伝神祇志料』

   【例祭】10月17日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立の由緒不詳
       嘉吉年中(1441−43)氏子等が再興
       天正17年(1589)修造
       文禄3年(1594)社殿を岡の離宮趾に移
       元禄12年(1699)名称を刺田比古神社に復
       享保8年(1723)幕府二百石の地を寄進(朱印地)
       明治6年4月県社
       昭和20年7月9日戦災で焼失

   【関係氏族】大伴氏
   【鎮座地】この地は離宮の遺趾で本来鎮座の地
        戦国期一時他へ遷座
        文禄3年(1594)社殿を岡の離宮趾に移

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「九頭大明神」「国津大明神」と称していた
   【公式HP】 刺田比古神社
   【社殿】本殿流造銅版葺
       拝殿・神饌所・宮蔵・社務所・舞殿・手水舎・神馬舎

   【境内社】八幡神社・氷川神社・祓戸神社・菅原神社・市杵島神社
        稲荷神社・宇須売神社・金刀比羅神社・春日神社


刺田比古神社社地は、聖武天皇が神亀元年(日本書紀)造営した離宮の遺趾にして、岡の宮と号している。
神官は、古来より現在まで代々、大伴氏裔岡本家が世襲している。


由緒

刺田比古神社は延喜式神名帳、紀伊国神名帳等に記載された古社で、岡(広瀬・芦原・大新・番丁・新南・吹上)の産土神で岡の宮で知られ、和歌山城鎮護の神社でもあり、八代将軍吉宗公の仮親として出世、開運の神社として有名。
古昔道臣命10世の孫刺氏比古命より世々岡の里を采邑し、刺氏比古命20世の裔大伴武持がこの地に住むに及んで、此の祖神との神霊を岡の里に斎祀し、この地を開始経営給いし神として里人等其の神徳を仰ぎ産土神とし、国主の神、大国主神と尊崇した。大伴武持28世の孫、岡本信濃守武秀始めて城を岡山に築き、世々之に住居し、最も厚く崇敬した。
天正年中、豊臣秀吉和歌山城を築くのに本城鎮護の神社として大伴の後裔岡本左介を社司とした。又、秀長、城代・桑山修理亮重晴に修造させ、岡本左馬助家長を神官とした。更に文禄3年、神社を聖武天皇の岡の離宮の跡の現地に移した。元和年中、徳川南龍公本国に入り最も厚く崇尊し社殿を修復し、清淫公始め産土神なるにより寛永年中より延宝年中、大小社殿を造営し松生院の別当職を除き唯一神社とした。
吉宗公八代将軍に登閣するや、当社は公の産土神として周防守長諄は誕生の時の仮親となったので特別の崇敬を尽くし、開運出世の神と敬神し、享保年中常府より名草郡田尻村にて二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金粧飾の太刀壱振(国宝)神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とし壱万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々三年に一回上東し、将軍に謁し、後、代替・継目等、江戸に下りて拝謁するならわしとした。よって社殿悉く整い、氏子の尊信益々厚く、神徳弥栄にて明治6年4月、県社に列せられた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




刺田比古神社

刺田比古神社は延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。岡(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の産土神として岡の宮の名で知られている。
 御祭神は神武御東征のさいに御活躍した道臣命(大伴氏の祖先神)、百済救済の御武功で知られる大伴佐弖比古命をお祀りしている。佐弖比古命(狭手彦命)は百済救済のさいに武功をあげ、その武功により岡の里の地を授かったという。
 古来より岡の地は人が住み、道臣命は岡の里の出身とされる。
『続日本紀』にも片岡の里出身の大伴氏が登場し、昭和7年には境内南西側で古墳時代後期の古墳岡の里古墳が発見されていることからも、その由緒をうかがうことが出来る。一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられている。 
 佐弖比古命(狭手彦命)より世々岡の里を采邑し、佐比古命20世の裔大伴武持が岡の里に住むに及び、大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀した。里人はこの地を開始経営し給うた神として、その神徳を仰ぎ産土神として国主ノ神、大国主神と尊称し崇敬した。大伴武持28世の孫岡本信濃守武秀が始めて岡山(現和歌山市)に城を築くと、神田若干を寄付するなど代々城の氏神として厚く崇敬した。里人の崇敬も厚く社殿等頗る壮観を極めたが、南北朝の騒乱など度重なる兵乱に遭い、古文書や宝物を悉く失い、社殿も荒廃するに至った。嘉吉年中に氏子等が再興し、国主(くず)神社と呼び崇敬した。天正年中、豊臣秀吉が和歌山城を築くにあたり本城鎮護の神として尊び、大伴の後裔岡本左介を社司とした。豊臣秀長は城代桑山修理亮重晴に社殿修造を命じ、岡本左馬助家長を神官とした。文禄3年、神社を本来の鎮座地たる岡の里(現在の御鎮座地)に移した。その後浅野幸長が本国を領するも、本城鎮護の神として変わらず尊宗した。元和年中、徳川南龍(頼宣)公が紀州入城すると、城の守護神たるこの神社を崇敬し、社殿を修築し社宝を奉献した。更に領地を寄進し、宮司を別当職として松生院に居住させた。二代城主清渓(光貞)公以後は産土神として崇敬し寛永年中より延宝年中、大小社殿を造営し、松生院別当職を解き唯一神社となし、新たに神官邸を社の傍に寄進して奉仕を厳にした。其の後名草郡岡村にて社領を寄付され、神官岡本長諄を従五位下周防守に叙任された。
殊に八代将軍有徳(吉宗)公御誕生の時、神主岡本周防守長諄が仮親となったことから、吉宗公より特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任に際し開運出世の神と敬神され、享保年中名草郡田尻村(現和歌山市田尻)に二百石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)、神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とした。
これより年に壱万度の国家安泰の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々三年に一度上東し将軍に拝謁し、代替、継目等のさいは江戸にて拝謁する例となった。よって氏子の崇敬益々厚く神徳弥栄にて明治6年4月に県社に列せられた。昭和20年7月9日の戦災に遭い、社殿、宝物、古記録すべて焼失したが、御神霊のみ安泰であった。その後氏子等の敬神により現在の復興となり、崇信日々に広く神威赫々である。

公式HP(旧)



刺田比古神社

刺田比古神社は延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。
岡(現在の和歌山市広瀬、大新、城北、吹上、芦原、新南地区)の産土神として、「岡の宮」の名で知られている。
神武御東征に御活躍の道臣命(大伴氏の祖先神)、百済救済の御武功で知られる大伴佐比古命をお祀りしている。
佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。
『続日本紀』にも片岡の里出身の大伴氏が登場し、昭和7年には境内南西側で岡の里古墳(古墳時代後期)が発見されたことからも、その由緒をうかがえる。
一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられる。
佐比古命より世々岡の里を采邑し、佐比古二十世の裔大伴武持が岡の里に住むに及び、大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀した。
里人はこの地を開始経営し給うた神として、その神徳を仰ぎ産土神として国主ノ神、大国主神と尊称し崇敬した。
大伴武持28世の孫岡本信濃守武秀が始めて岡山(現和歌山市)に城を築くと、神田若干を寄付するなど代々城の氏神として厚く崇敬した。
里人の崇敬も厚く社殿等頗る壮観を極めたが、南北朝の騒乱など度重なる兵乱に遭い、社殿も荒廃するに至った。
嘉吉年中に氏子等が再興し、国主(くず)神社と呼び崇敬した。
天正年中、豊臣秀吉が和歌山城を築くにあたり本城鎮護の神として尊び、大伴の後裔岡本左介を社司とした。
豊臣秀長は城代桑山修理亮重晴に社殿修造を命じ、岡本左馬助家長を神官とした。
文禄3年、神社を本来の鎮座地たる岡の里(現在の御鎮座地)に移した。
その後浅野幸長が本国を領するも、本城鎮護の神として変わらず尊宗した。
元和年中、徳川南龍(頼宣)公が紀州入城すると、城の守護神たるこの神社を崇敬し、社殿を修築し社宝を奉献した。
更に領地を寄進し、宮司を別当職として松生院に居住させた。
二代城主清渓(光貞)公以後は産土神として崇敬し寛永年中より延宝年中、大小社殿を造営し、松生院別当職を解き唯一神社となし、新たに神官邸を社の傍に寄進して奉仕を厳にした。
其の後名草郡岡村にて社領を寄付され、神官岡本長諄を従五位下周防守に叙任された。
殊に八代将軍有徳(吉宗)公御誕生の時、神主岡本周防守長諄が仮親となったことから、吉宗公より特別に崇敬をうけた。
吉宗公は将軍就任に際し開運出世の神と敬神され、享保年中名草郡田尻村(現和歌山市田尻)に200石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)、神馬1頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とした。
これより年に壱万度の国家安泰の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々3年に1度上東し将軍に拝謁し、代替、継目等のさいは江戸にて拝謁する例となった。
よって氏子の崇敬益々厚く神徳弥栄にて、明治6年4月に県社に列せられた。
昭和20年7月9日の戦災に遭うも、御神霊は安泰であった。
その後氏子等の敬神により現在の復興となり、崇信日々に広く神威赫々である。

和歌山県神社庁



刺田比古神社

刺田比古神社は延喜式神名帳、紀伊国神名帳等に記載せられた古社で、岡(広瀬・芦原・大新番丁・新南・吹上)の産土神なれば通称岡の宮で知られている有名な神社である。古昔道臣命十世の孫刺田比古命(狭手彦命)より世々岡の里を采邑し、刺田比古命二十世の裔大伴武持この 地に住むに及んで此の祖神との神霊を岡の里(今の広瀬宮の壇)に斎祀し、この地を開始経営し給いし神なれば里人等其の神徳を仰ぎ産土神となし、国主ノ神、大国主神と尊崇した。大伴武持二十八世の孫岡本信濃守武秀始めて城を岡山に築き世々之に住居し、最も厚く崇敬す。神田若干を寄附し社殿等頗る壮観を極めしが、其の後屡々兵乱に罹リ古文書、宝物等悉く紛失し社殿も殆ど廃頽し、嘉吉年中に氏子等再び之を修造した。天正年中豊臣秀吉和歌山城を築くに本城鎮護の神社となし大伴の後裔岡本左介を茲に社司となす。 秀長、城代桑山修理亮重晴をして修造せしめ岡本左馬助家長を神官とした。更に文禄3年神社を聖武天皇の岡の離宮の跡なる現地 に移した。其の後浅野幸長本国を領し尊崇旧に変らず。元和年中徳川南龍公本国に入るや最も厚く崇尊し社殿を修復し清■公始めの産土神なるにより寛永年中よリ延宝年中、大小社殿を造営し松生院の別当職を除き唯一神社となし神官の邸を社の側に移し居らしめて奉仕を厳にす。其後名草郡岡村にて社領を寄付せられ神官岡本長諄を従五位下周防守に叙任す。 続いて吉宗公八代将軍に登閣するや当社は公の産土神にして周防守長諄は誕生の時の仮父なるにより特別に崇敬を尽され開運出世の神と敬信し、享保年中常府より名草郡田尻村にてニ百石の朱印地を寄附し、神社境内の殺生を禁じ、黄金粧飾の大刀壱振(国宝) 神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とし爾来年に壱万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々三年に一回上東し、将軍に謁 せしが後、代替、継目等皆江戸に下りて拝謁する例とせり。よって社殿其他悉く整い、氏子の尊信益々厚く神徳弥営にて、明治6年4月県社に列せられ崇信日々に広く神威赫々であったが、昭和20年7月9日の戦災に、御神霊のみ安泰にして社殿、古物古記録等悉く鳥有に帰しぬ。されど、氏子等の敬信日に深く旧に復し神社の復興せり。

由緒書



刺田比古神社

刺田比古とは
 道臣命を祀る神社には伴林神社(藤井寺市)、林神社(富山県砺市林)などがあるが、刺田比古神社は全国でも一社しかみられない。しかも『延喜式』神名帳にその名がありながら、猿田彦命の間違いや刺国彦命の間違いとされているのは奇妙に思われる。
では刺田比古とは何なのか。
諸説
 もっとも有名なものとしては、本居宣長の『古事記伝』がある。宣長は「刺田」を「刺国」の誤りだとして大国主命の父にあたる刺国彦命を祀る神社と捉えている。(『紀伊国名所図会』や『紀伊続風土記』はこの説に従っている。)
 この解釈は、紀伊国に大国主命を祀る神社が多いことによる。しかしながら、神名を間違えて表記するというのは少し不自然なように思われる。また『延喜式』神名帳のどの伝本をみても異同がなく、『紀伊国神名帳』(成立年は不明)にも「刺田比古神」とあり、他の文書にも別表記がないのも奇妙に思われる。『紀伊国名所図会』でもその点を指摘している。
 『和歌山県史』(大正3年)引用の刺田比古神社史によると、「刺田比古」は「サデヒコ」と読むべきだとしている。祭神の佐弖比古命の表記違いの神名が、次第に本来の読みを失ったことによるのではないかと推測している。(『明治神社誌料』なども、この説を踏襲したものと考えられる。)
 確かに佐弖比古命はさまざまな表記がなされ、「デ」の音が「ダ」の音に変化するのは自然である。しかし、「刺」の字を用いた表記は見られない。しかも『延喜式』神名帳の訓は、「サスタ」あるいは「サシタ」の異同のみで、「サデ」とするものは見られない。
 従って「刺田比古」は刺国彦命や佐氏比古命とは別の神名と考えるべきである。
祖先神 刺田比古命
 では「刺田比古」とは何か。唯一伝えられている資料がある。鎌田純一編『甲斐国一之宮 浅間神社誌』(昭和54年3月10日、浅間神社)に資料として掲載されている「古屋家家譜」である。古屋家は浅間神社の社家で、大伴氏の流れを持つという。この「古屋家家譜」は『系図纂要』や『群書類従』に見られる大伴系図とは違う伝承を持っている。
 「古屋家家譜」によると道臣命の父が刺田比古命となっている。
 しかも道臣命は「生紀伊国名草郡片岡之地」とあり、片岡の里に生まれたと伝えている。このことを考えると、道臣命、あるいは佐弖比古命以前の祖先神として刺田比古命を祀ったと考えるべきであろう。
神社名の変遷
 当社は南北朝の騒乱のさいに荒廃し、氏子崇敬者により再興されたという。ところが社殿や神宝だけでなく、祭神さえもわからず、岡の地にある氏神として岡の宮と呼ばれたり、「国を守る神」の意味をこめた「国主神社」と表記し「クズ神社」と呼ばれることとなった。このことから大国主命を祭神とする伝承がうまれたと考えられる。『紀州旧跡志』や『紀州名勝志』などを見ると、大貴己命(大国主命)を合祀したとあり、ある時代に大国主命を祭神にしていたのは疑いないようである。とはいえ、いつ大国主命を合祀したのか不明である。
 また「クズ」の音は、「九頭大明神」を祀るという誤解をまねきました。「九頭」は「クヅ」と読み、「ズ」の音が「ヅ」に変化することは考えにくい。『紀伊国名所図会』には九頭神社を移したともあり、それを祭神と混同したようである。
 民間が再興した神社だけに、さまざまな民間信仰の場となっていたようである。『紀伊国名所図会』の伝える九頭神社や、宮の壇から移された八幡社などのように、大小の末社を祀る結果となった。現在境内に末社が多く見られるのもその名残と考えられよう。
 その後、桑山重晴が社殿を修復し、徳川頼宣が更に修復を加えました。元禄9年、社殿修復のさい、境内から「紀州名草郡刺田比古神」と書かれた箱が発見された。古老には刺田比古神社の宝物箱の伝承があったが、所在は伝えられていなかった。その箱によって、この神社が刺田比古神社とわかり、祭神を大伴道臣命・佐弖比古命に直したという。しかしながら、神社名は国主神社、岡の宮の名称が用いられていたようだ。吉宗公が元禄12年に本来の刺田比古神社に戻した。

公式HP



紀伊国INDEXへ        TOPページへ



順悠社