朝椋神社
あさくらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】朝椋神社 紀伊国 名草郡鎮座

   【現社名】朝椋神社
   【住所】和歌山県和歌山市鷺ノ森明神丁 2
       北緯34度14分13秒、東経135度10分19秒
   【祭神】大国主命
   【例祭】10月15日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】勧請年月不詳
       永徳2年(1382)5月造営
       応永18年(1411)4月造営
       永享10年(1438)12月造営
       康正3年(1457)8月造営
       永正年間(1504-21)造営
       天正13年(1585)国乱に罹り社領等掠取
       文禄5年(1596)桑山修理大夫宗栄再建
       万治2年(1659)12月火災焼失
       明治6年4月村社
       昭和20年7月戦災で焼失
       昭和35年再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 朝椋神社
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神饌所

   【境内社】神明神社

和歌山県神社明細帳(明治12年)によると「勧請年月不詳、延喜式名草郡朝椋神社、紀伊国神名帳従四位上朝椋神、紀州名勝志朝椋神社伝へ曰ク上古鎮西将軍不何御子知何許人攻代之砌為寂勲故ニ建造」とある。


由緒

和歌山県神社明細帳(明治12年)によると「勧請年月不詳、延喜式名草郡朝椋神社、紀伊国神名帳従四位上朝椋神、紀州名勝志朝椋神社伝へ曰ク上古鎮西将軍不何御子知何許人攻代之砌為寂勲故ニ建造、寛弘2年5月摂社修葺云々。マタ永徳2年5月、應永18年4月、永享10年12月、康正3年8月、永正年間等造営ノ事アリ。ソノ後天正12年国乱ニ罹リ社領等掠取ラレ、当時ノ神官杉原景政秘ニ神櫃ヲ負テ山林ニ隠ル。海部郡栄谷村渓間有国津神谷号神櫃暫鎮坐ノ地。」という。
その後文禄5年、桑山修理大夫宗栄再建。萬治2年12月、旧殿回禄に罹り徳川氏再営す。明治6年4月、村社と記されている。また紀伊続風土記には往古境内に「社霊の松」として松の大樹あり、本居宜長の献詠歌に「広まえに緑も深く枝たれてよにめずらしき神かきの松」と記し奉献いるとある。昭和20年7月戦災に罹り焼失し、昭和36年現社殿が再建された。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




朝椋神社

当神社の、創立年代は不詳であるが、『紀伊續風土記』に、「右社若山鷺ノ森にあり、延喜式神明帳名草郡朝椋神社、本國神明帳名草郡從四位上朝椋神是なり、此地古樟の大樹あり白鷺常に其上に群集りしかは、土人鷺ノ森神社といへり、又九頭大明神と称す」の記述がみられる。
『紀州名勝志朝椋神社伝』に、「上古鎮西將軍(不知何御字何許人)攻伐之砌殊勲故に造建す」と記されている。
寛弘2(1005)年5月攝社修葺、永徳2(1382)年5月、應永18(1411)年4月、永享10(1438)年12月、康正3(1457)年8月、永正年間(1504〜1520)造営の事あり。
その後天正13(1585)年兵乱に罹り、社領等掠取され、当時の神官杉原景政竊に神櫃を負うて山林に隠れたと云う。
(海部郡栄谷村〈現和歌山市栄谷〉渓間に国津神谷と称する所があり、神櫃暫時鎮座の地と伝えられる)
その後文祿5(1596)年桑山宗栄再建し、幾許もなく萬治2(1658)年回祿に罹り、徳川氏また再営とある。
昭和20年7月戦災のため全建物焼失、昭和36年社殿並に社務所再建される。
明治6年村社、内町西部、宇治一部の産土神と記されている。
又、『紀伊續風土記』に、往古境内に「社霊の松」と称する松の大樹あり、寛正6(1794)年本居宣長の献詠歌に「廣まへに緑も深く枝たれてよにめつらしき神かきの松」とよまれ、奉納されている。
福の神の大黒様として、又大なる功徳のある神様として、氏子をはじめ近郊近在の人々の信仰が厚い。

和歌山県神社庁



朝椋神社

当神社の、創立年代は不詳であるが、『紀伊續風土記』に、「右社若山鷺ノ森にあり、延喜式神明帳名草郡朝椋神社、本國神明帳名草郡從四位上朝椋神是なり、此地古樟の大樹あり白鷺常に其上に群集りしかは、土人鷺ノ森神社といへり、又九頭大明神と称す」の記述がみられる。
 『紀州名勝志朝椋神社伝』に、「上古鎮西將軍(不知何御字何許人)攻伐之砌殊勲故に造建す」と記されている。
 寛弘2(1005)年5月攝社修葺、永徳2(1382)年5月、應永18(1411)年4月、永享10(1438)年12月、康正3(1457)年8月、永正年間(1504〜20)造営の事あり。その後天正13(1585)年兵乱に罹り、社領等掠取され、当時の神官杉原景政竊に神櫃を負うて山林に隠れたと云う。(海部郡栄谷村〈現和歌山市栄谷〉渓間に国津神谷と称する所があり、神櫃暫時鎮座の地と伝えられる)その後文祿5(1596)年桑山宗栄再建し、幾許もなく萬治2(1658)年回祿に罹り、徳川氏また再営とある。
 昭和20年7月戦災のため全建物焼失、昭和36年社殿並に社務所再建される。
 明治6年村社、内町西部、宇治一部の産土神と記されている。
 又、『紀伊續風土記』に、往古境内に「社霊の松」と称する松の大樹あり、寛正6(1794)年本居宣長の献詠歌に「廣まへに緑も深く枝たれてよにめつらしき神かきの松」とよまれ、奉納されている。
 福の神の大黒様として、又大なる功徳のある神様として、氏子をはじめ近郊近在の人々の信仰が厚い。

公式HP



朝椋神社

鷺ノ森にあり■樟の大樹や白鷺常に其上に群集る 土人仍て鷺ノ森ノ神社といふ 此樹永禄6年(1563年)鷺ノ森御坊造営の時代て材とす今對面所の椽板是なりといへり  又九頭大明神と神す宇治内町 本町通より西  産土神なり 按するに延喜式土佐ノ國土佐郡朝倉ノ神社あり 此御神と同神にて天石帆別[アメノイハホワケノ]命を祀るならむ 天石帆別は國栖[クズ]の祖神なるを以て國栖明神と稱[トナヘ]しに郡中九頭[クズ]ノ神多くして唱への近きに因て誤り混して九頭明神となししなり 其詳なるは神社考定部に辨せり 此神社國亂に罹[カゝリ]て衰癈に至り永禄6年(1563年)社邊に本願寺道場を築て鷺森御坊と稱す 慶長6年(1601年)淺野家より六十四石の地を道場の鋪地に寄附せしより此神の社地其區域に入りて今僅に社下の地のみ神地たることを得たり 然れとも元和(1615年)以来社殿稍々舊に復し壮麗殆古に加はれり 神主を杉原氏といふ

紀伊続風土記



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