伊久比売神社
いくひめじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊久比売神社 紀伊国 名草郡鎮座

   【現社名】伊久比売神社
   【住所】和歌山県和歌山市市小路330
       北緯34度15分23秒、東経135度10分17秒
   【祭神】伊久比売神
   【例祭】10月13日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       応仁の乱以後荒廃
       天正の兵火に罹りて焼失
       明治6年4月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「市姫大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       社務所

   【境内社】

天平宝字8年(764年)に異賊が来襲した際に藤原貞国を将軍に任じてこれを追討、凱旋した貞国が神告を受けて奉幣をしたとの伝えがある。
市姫大明神とも呼ばれる。古来よりのたびたびの洪水、火災にて、由来は今や不明である。江戸時代、式内社と考定し称号を決めた。


由緒

土地の人は「市姫大明神」といっている。この土地は、紀ノ川の川口にあってたびたびの洪水に侵され、或るいは兵火のために焼失して当社の由来も絶えて詳ではない。
往古、天平年間異賊襲い来る時、藤原貞国、将軍としてこれを追討し凱陣の後、神のお告げによって此の社へも奉幣し、それが恒例になったといわれている。
当社は延喜神明帳に登載せられた、県下二十一社中の一に列せられたる古神社で往古は例祭日に競馬の催し等もあったようである。しかし、応仁の乱によってその催しも荒廃してしまった。その後、徳川頼宣公の時になってその遺跡を尋ね、当社を其社と考定してその称号を改められ、境内に「禁殺生」の札を立てられようやく古祠の姿に復したものである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




伊久比売神社

宮村にあり 土人は市姫大明神といふ 荘中四箇村の産土神なり 此地紀ノ川の海口にして屡洪水の為に淪没し戦争兵火の為に薫煌燼滅へ當社の來由絶て考ふへきものなし まして七八百年前は此地海中にて式内の神の古く鎮座あるへき理なし 意ふに往古は當社此地より東北の邊に鎮りましゝに海口變革して此地に村里を開きしより此地に移したるなるへし 村名を市小路といふときは其比此地市塲となりしならん 當社其地に鎮り坐せるより土人は市姫と唱ふるか 京五條に市姫神社といふあり 市塲の神なるにや  封初伊久比賣ノ神社の遺跡を尋させ給ひ當社を其神社と考定し土人の稱號を改められ享保11(1726)年に至り境内四至に禁殺生の碑を立られ漸く古祠の姿に復し給ふ 猶山口荘谷村山王権現の條を併せ考へし

紀伊続風土記



伊久比売神社

土地の人は、「市姫大明神」といっている。
この土地は、紀ノ川の川口にあって、たびたびの洪水に浸され、或いは兵火のために焼失して当社の由来も絶えて詳かではない。
往古、天平年間異賊襲い来る時、藤原貞国、将軍として、これを追討し凱陣の後、神のお告げによって、此の社へも賽幣し、それが恒例になったといわれている。
当社は、延喜神明帳に登載させられた、県下31社中の1に列せられた古神社で、往古は例祭日に競馬の催し等もあったようである。
しかし、応仁の乱によってその催しも荒廃してしまった。
その後、徳川頼宣公の、時になってその遺跡をたずね、当社を其社と考定して称号を改められ、境内に「禁殺生」の札を立てられて、ようやく古祠の姿に復したものである。

和歌山県神社庁



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