淡島神社
あわしまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】加太神社 紀伊国 名草郡鎮座

   【現社名】淡島神社
   【住所】和歌山県和歌山市加太116
       北緯34度16分25秒、東経135度4分0秒
   【祭神】少彦名命(相殿)大己貴命 気足姫命
   【例祭】4月3-4日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代や鎮座の次第不詳
       仁徳天皇5年3月3日に現在の地へ遷座
       延喜6年(906)2月7日従五位上
       天正13年(1585)秀吉の紀州征伐で兵火全焼
       明治6年4月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初加太の沖合いの友ヶ島のうちの神島(淡島)に祀られた
        仁徳天皇5年3月3日に現在の地へ遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「粟島大明神」と称していた
   【公式HP】 淡島神社
   【社殿】本殿王子造
       雛藏・神輿舎・社務所

   【境内社】皇発神社・大日発神社・月読神社・恵美須神社・樟神社
        大山咋神社・地護神社・住吉神社・春日神社・大杉御崎神社

   【境内図】 境内図

加太の沖に浮ぶ友ケ島を日本書紀にみえる淡洲(淡島.粟島)にあてる説があり、社伝に友ヶ島に旧鎮座地があつたとある。
淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるが、当神社はその総本社である。
境内一円に奉納された2万体ともいわれる無数の人形があり、その様はひとえに壮観である。


淡島神社

その昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会いました。
沈みそうになる船の中で神に祈りを捧げると、お告げがありました。
「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」
その通りに船を進めると、ひとつの島にたどり着く事が出来ました。
その島が、友ヶ島です。その島には、少彦名命と大己貴命が祭られていて、皇后さまは助けてくれたお礼の気持ちを込めて、持ち帰ってきた宝物をお供えになりました。
 その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたられる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られ、いきさつをお聞きになりました。そこで、島では何かとご不自由であろうと、お社を対岸の加太に移され、ご社殿をお建てになったのが、加太淡嶋神社の起こりとされています。

公式HP



淡島神社

加太神社  境内 周十六町  禁殺生
 本社
 大己貴命
 祀神  少彦名命
     息長足姫尊
 祝詞社 拝殿 神輿社 神楽所 文庫 御供所 廳舎 神廐 鳥屋 二柱
 末社九社
   牟巣夫社 蛭兒社 春日社 大神宮 楠神社 大山神社 地護神社 岬社 住吉社
 摂社六社
 加太日野礒脇深山大川六箇村の内にあり 各村に出たり
 延喜式神名帳名草郡加太神社
 本国神名帳海部郡従四位上粟島大神
村中西の端にあり 一荘の産土神なり 延喜式には名草郡加太神社といひ神名帳には海部郡粟島大神といふ 郡名神名共に異なれとも其實は一神なり 故に世通して淡島大明神と唱ふ 當社上古は友ヶ島の神島に鎮り坐り神島今に島手といふ 友ヶ島の西にて島を離るヽ事一町半許にして神島あり 周四五六町許 因りて島の神と称す寛文記 此時は少彦名命大己貴命二坐を祀り奉る 友島古名淡洲といふ淡洲又淡島又粟島とも書す 書紀曰少彦名命至淡洲而縁粟莖者則渡而至常世郷矣即是なり 淡島大神とは舊淡島に在すを以て称するなり 社家曰 神功皇后筑紫より凱旋の御時 皇子を武内宿禰に託して紀国の方に趣かしめ 皇后は難波の方に至らせ給ふに海上に俄にて風波の難に遇はせ給ひ 皇后親ら苫を取りて海上に投入て神の裕助(タスケ)を祈らせ給ひ苫の流れ行くまにまに御鑑を漕かせ給ふに此の二柱の神の鎮り坐せる淡島に着せ給ふさては此御神の擁護によれるなりとて軍中の御品井に韓国にて物に得給へる御品々神殿に納て神徳に報賽(ムクヒ)させ給ふ 今當社に傳ふる所の神寶是なり 其後皇絲 仁徳天皇淡路島に遊猟し給ひし時御社を加太の地に遷し奉り皇后の御崇敬ましましける此神なれは直(タヽチ)に 皇后を会せ祀り一宮三坐の神となし加太神社と称へ奉れり 寛文記に淡島明神に 天照大神の姫宮住吉明神の后といふ俗信には 天照大神第六の姫宮といふ 又舊跡志には 天照大神の女弟月読尊なりといふ 何れも牽強付会の説にして信じかたし 當社延喜式に名草郡に入り神名帳には海部郡い入るものは加太村古は名草郡の内なりしに後名草在田日高縁海の地を割きて海部郡を置れしより加太村は海部郡の内に入れり 其海部郡をおかれし事何れの時なる事は詳ならされとも延喜以前なる事は明なり 然れは延喜式にも海部郡に書さるへきに元の郡名を擧て名草郡と書されしは古語拾遺に天平年中勘造神籍とあれは此時當社右神籍に載せられ海部郡を置れしも大抵其頃の事にして 海部郡の名神亀元年始めて国史に見えらり 社家の説には和銅年中始めて海部郡を置といふ 然れとも其説稽據なし 其事いままた世に遍く知られす因りて神籍を造るもの元の郡名を擧て名草郡加太神社と書されしならむ 後延喜式編集の時神名式は天平の神籍を本として書されし故そのまヽに名草郡と書されしなるへし 本社の左右に枯木二株あり 長三尺餘圍二抱許土人呼て伽羅木といふ 左紐柏なるへし 天正13(1585)年兵火に焚かれ其木心其まヽに遺れるなり 社地の古きを窺うに足れり  社の後に歯黒石といふあり 婦人其石の粉を鉄奬水に和して歯を染れは縁付早しと争ひてこれを求む 其石の凹なる所に水あり 海潮の往来に従ひて盈虚すといふ
祭礼3月3日を大祭とす 神輿神幸所に渡御あり 神幸所に飽等濱にあり 兒獅子舞面かつき等あり  又村中の舊家皆質素襖を着て神輿供奉をなす 其式頗賑はし 又加太浦は3月3日潮乾の名所なれは国中の貴賤他邦の男女船を泛へて群参す  又4月9月11月皆神事あり 国造舊記11月朔日風祭といふありワうワう(ママ)の渡ともいふなり 国造家より両人の人母中臈安主なとに令して祭らしむ 又應永6(1399)年同記に粟島社の祭事11月庭立祭といふあり 其記に曰庭立祭の時大島やなる門のわかめ潮みたは都へなひけ我もなひかん江いさいさ三返とあり 又同記に學粟島船漕之様とあり
古は国造群中の祭事を掌りし大社はかくの如く皆祭りしなり 今は其事絶たり 紳家諸侯方及ひ諸国の士庶より雛并に雛の其婦人の手道具等を奉納する事多くして神殿中に充満す 社家曰此事 神功皇后當社へ少彦名命の雛形を造り御奉納有しより始まるといへし 字礼豆玖物とて雛を作りてひ或は神殿に納れは婦人女子小兒の諸病を攘除き夫婦のかたらひの妙をなす 悪神を祓ふ鎮め給ふ諸国の雛祭も是より始まるとそ
 神寶
 古鏡 神功皇后御鏡といふ
 八坂瓊曲玉
 太刀二口 一口は無銘 神功皇后御太刀といふ 一口は銘正宗大塔宮太刀といふ
 綾巻物     神功皇后韓国の■物にて神殿に納め給ふといふ
 大塔宮奉納兜 
其外諸寄附の太刀数口諸家の文書寄附状等少しはあり 神寶文書縁起の類多くは兵乱の為に紛失せり

紀伊続風土記



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