大宝2年(702)五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命の三神が分遷された際の都麻津姫命神社とされている。 天正の兵乱に破滅せらる。 |
都麻津姫神社 『続日本紀』大宝2(702)年2月条に「伊太祈曽、大屋津比賣、都麻津比賣三神の社を分遷す」とあるのが初見。 『延喜式神名帳』に記される「都麻都比賣神社」は当神社と目されるが、近隣の同名神社との論考もあり確定はしていない。 『紀伊國名所圖會』に妻御前社とあるのは当社といわれる。 同書には境内の周囲は2町半あり、社殿も荘厳にして間口7尺8寸の桧皮葺きであったが、天正の兵乱により破壊され、その後羽柴秀長によって再興されるが、現在は旧跡を残すのみと記されている。 また、『寛永記』には正月朔日、10月初亥日、11月初巳日に伊太祁曽社人が出仕し祭祀を司る旨記されているという。 御祭神の都麻津姫命は、伊太祁曽神社の祭神である五十猛命の妹神。 兄神と共に、日本全土に木種を播き施して、大八洲を青山となした植樹神である。 神社の近くには、熊野古道の平緒王子があり、古道を歩く参詣者が時折参拝して行く。 和歌山県神社庁HP |
都麻津姫神社 妻大明神社 境内周二町半許 本國神名帳従四位下妻都比淘蜷_ 村の西山ノ岡にあり又妻御前ともいへり此御社古は荘厳なりしに後世衰廃して今は最小祠にして形はかりを遺せるなり 又何れの時にかありけむ辨財天石を側に並へ祀れり按するに和名抄郷名を載する所妻神戸の地なる故に妻都比嶋鼾ソを齋き祀れり 寛永記に正月朔日10月初亥11月初己に毎年伊太祈曾の社人出仕し御供を備え來れり 古は社殿も荘厳にして面行七尺八寸妻行七尺三寸檜皮葺なりしに天正の兵亂に破滅せらる 其後羽柴秀長朝臣再興して社領も三段寄られしに今は皆癈して僅に舊跡を存するのみといへり 其詳なるは神社考定ノ部に載たり 紀伊続風土記 |