古くは五十猛命、都麻津比売命と三神、秋月の日前国懸神宮の社地に鎭座されたが、垂仁天皇16年日前国懸大神が毛見濱ノ宮より秋月に遷座の時、その社地を献じ山東荘亥ノ森に遷られ、後700余年を経た大宝2年(702)勅命により三神を三所に分祀することになり、和銅6年(722)10月平田荘北野村古宮(通称御祓山)に鎮座し、後さらに現在地に遷座されたのである。 |
由緒 御祭神は、天照皇大神の皇弟素戔嗚尊の神女で五十猛命の妹神である。 この神柧都姫神命と御父神の勅を奉じ給い、御兄五十猛命の神業を助け八十木種を筑紫の国より播き始め、大八州国島の八十国残る隈なく播種し終りて、当地に鎮り坐す木種播殖に著大な御功績のある神であり樹木の守護神として御神徳もあつい。 なかでも大屋都姫命は住宅、船、車、木具、薪炭など木製品の守護神として崇敬されている。 仁明天皇嘉祥3年、清和天皇貞觀元に神階の御授進あり、その後寛治元年、堀河天皇熊野御行幸の時、特に御奉幣あり。次いで長治元年に十八町歩の神田、五町四面の社地を御寄進あったが大水の乱、天正の兵火にさしも宏壮を極めた宮居も灰燼に帰した。 当神社は延喜式神明帳に紀伊国名草郡大屋都比賣命、名神大月次新嘗とあり、本国神明帳に従一位大屋大神、三代実録に貞觀元年正月27日奉授従五位下大屋都比売神従四位とある。 本国神明帳に従一位とあるのは貞觀以後増階のあったものである。 当社古くは五十猛命、柧都姫命とともに日前宮の地に鎮座あるものち伊太祈曽村に遷座し、太宝2年三神を3所に分遷したとき北野村古宮の地に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座される。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大屋都姫神社 『日本書記』神代ノ巻一に「又素盞鳴尊え子號曰 五十猛命 妹大屋津姫命次 抓津姫命凡三神亦能分 布シテ木種 奉 渡シ 於紀伊國 也 舊事紀地神本紀ニ曰五十猛握神亦云 大屋彦神 次大屋津姫神次抓津姫神已上三柱並坐 紀伊國造ノ齋祠ノ神也」とある。 當社古由によれば、「紀伊國名草郡宇田森村ニ鎮座 大屋津比賣神社祭神 大屋津比賣命 延喜式神名帳ニ所載 大屋津比賣神社 名神大 月次 新嘗 延喜式神名祭 二百八十五 紀伊國十一座 内大屋津比賣神社 一座有 右座毎ニ五尺綿一屯絲一約五色薄衣各一尺木綿二兩麻五兩裏料蔗廿枚若有大者加五丈五尺以布 端代絲一 三代實録ニ曰貞觀元(859)年正月廿七日奉授從五位下大屋津比賣神從四位下」 大屋都姫神社の御祭神は天照皇大神の皇弟素戔鳴尊の神女で五十猛命の妹神である。 この神は妹神の都麻都姫神命と御父神の勅を奉じ給い、御兄五十猛命の神業を助け八十木種を筑紫の国より播き始め、大八州国島の八十国残る隈なく播種し終りて、当地に鎮まり坐す木種播殖に著大な御功績のある神であり樹木の守護神として御神徳もあつい。 なかでも大屋都姫命は住宅・船・車・木具・薪・炭など木製品の守護神として崇敬されている。 仁明天皇嘉祥3(850)年・清和天皇貞観元(859)年に神階の御授進あり、その後寛治元(1087)年、堀河天皇熊野御行幸の時、特に御奉幣あり。 次いで長治元(1104)年に18町歩の神田、石町4面の社地を御寄進あったが大水の乱、天正の兵火にさしも宏壮を極めた宮居も灰燼に帰した。 『延喜式神名帳』に「紀伊国名草郡大屋都比売命、名神大月次新嘗」とあり、『本国神明帳』に「従一位大屋大神、三大実録に貞観元年正月27日奉授従五位下大屋都比売神従四位」とある。 本国神明帳に従一位とあるのは貞観以降増階のあったものである。 当社は兄神五十猛命、妹神都麻都姫命とともに日前国懸社地に鎮座あるも垂仁天皇16(紀元前14)年に山東の荘、亥の森へ遷座し文武天皇の御宇まで凡そ700年余り鎮座された後、大宝2(702)年三神を三所に分遷したとき北野村古宮の地に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座された。 明治6年4月村社に列し、明治13年7月に縣社に昇格せられた。 和歌山県神社庁 |
大屋都姫神社 大屋大明神社 境内 東西五十間 南北五十間 禁殺生 五十猛命社 三尺一寸 二尺四寸 祀神 大屋津姫命社 六尺九寸 六尺二寸 妻都姫命社 三尺一寸 二尺四寸 拜殿 廰 御供所 御湯所 鳥居二基 一基は島村領にあり兆域方八間 末社五社 伊太祁曾大神 都麻津姫大神 社 五社明神社 天照大神 猿田彦大神 社 里神社 天神地祇社 延喜式名草郡大屋都比賣神社 名神大月次新嘗 本國神名帳名草郡従一位大屋大神 森の艮一町許にあり 宇田森北野二村の産土神なり 三代實録に云貞観元年正月27日奉授従五位ノ下大屋津比賣神ニ従四位ノ下とあり 本国神名帳に従一位とあるは貞観以後増階ありて従一位に昇り給へるなり 當荘上世五十猛命抓津姫命と倶に今の日前宮の地に鎭座し其後山東ノ荘に遷座し大寶2年(702)に至り三神を三所に分ち遷す 當社も此時北野村の内今の古宮といふ地に遷り後更に今の地に遷座す 其詳なる事は山東荘伊太祁曾神社の條に出せり 祭禮6月朔日 9月21日なり 古は神事に流鏑馬猿田樂あり 又10月末の日山東伊太祁曾の神社の社人小豆飯橙餅並魚酒なと供へ11月末の日山東より當社へ渡りありしとそ 當社の神戸を大屋神戸といふ其地は今の和佐ノ荘の地ならむ事は和佐ノ荘論に辨す 其癈するいつれの時なるをしらす後世神領の多少又詳ならす寛文記に近古まて神田二町ありしといへり今社の近邊高五百石ほとの地を字神の木と呼ふ古森の殊に廣大なりし事知るへし 當社一荘の氏神なるへきに今僅に二村の氏神なるは後世荘中争論なとありて弘西北西田井ノ三村は別に分れ當社を氏神とせさるに至りしならむ 紀伊続風土記 |