伊太祁曽神社
いたきそじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊太祁曽神社(名神大 月次/相甞/新甞) 紀伊国 名草郡鎮座
          (旧地)三生神社

   【現社名】伊太祁曽神社
   【住所】和歌山県和歌山市伊太祈曽558
       北緯34度12分6秒、東経135度15分1秒
   【祭神】五十猛命
   【例祭】10月15日 例大祭
   【社格】旧官幣中社 紀国一宮
   【由緒】垂仁天皇16年亥の森に遷
       和銅6年(713年)現在の社地へ遷座
       嘉祥3年(850)従五位下
       貞観元年(859)従五位下勲八等

       元慶7年(883)従四位下勲八等
       延喜6年(906)従四位下
       天正13年(1585)根来焼打の兵火に罹災。後羽柴秀長が再建
       寛永14年(1637)紀州徳川家が祭礼料社領四石
       享保6年(1721)徳川吉宗が真御太刀、御馬代を奉納
       明治18年国幣中社
       大正7年官幣中社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は日前国懸両神宮の社地
        垂仁天皇16年亥の森に遷
        和銅6年(713年)現在の社地へ遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 伊太祁曽神社
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       脇殿・拝殿

   【境内社】左脇宮・右脇宮・祇園神社・丹生神社・御井社・亥森神社

伊太祁曽神社に伝わる社伝によれば、元々日前国懸両神宮の社地に祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がその地を手に入れたのである。伊太祁曽神は山東の地に引いたが、その神威いよいよ高く、紀氏のこの地の統一のためには更に伊太祁曽の神々を分遷する願いを朝廷に出したのである。追い打ちをかけたのである。
国譲り達成の為には闘争と和平工作がなされた。国懸神の御神体は矛である。武神である。五十猛命もまた武神として名高い。壮絶な闘争があったのだろう。それが出雲の国譲りや特に神武東征紀での紀の国の戦いの物語の下書きになったかも知れない。
古くは現在の日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝に伝える。その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、和銅6年(713年)に現在地に遷座したと伝えられる。


由緒

伊太祁曽三神は「木の神」であられる。日本書紀神代巻上には「父神素戔嗚尊と共に新羅に降られ、曽戸茂梨という所に居られたがのちに我が国全土に樹種を播かれて大八州国をすべて青山となされた。その神業に依りて有功神と称された。即ち紀伊国まします大神が是れである。」と記されている。
全国を緑化せられて最後に鎮座せられた地を木の国(のちに紀伊の国)と称するので緑化の神様であり、紀伊の国の祖神様である。延喜式内社で「明神大・月次・新嘗・相嘗に預る」とされ、後に明治18年国幣中社、大正7年官幣中社に列せられた。御祭神は播種され育てられた各種の樹について例えば檜は瑞宮をつくる。杉、樟は浮宝(船)をつくる。槙は葬具の材などとそれぞれ用途まで示されたので以後、林業・木材業・建築業の祖神と仰がれている。
また、浮宝の神として漁業航海方面の信仰も強く、また大国主命が何回もの厄難をうけられる毎に、(稲葉の白兎で有名)この大神にたよられ難を免がれたので、「いのち神」として古来大難病難を除ける信仰がつづいている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




伊多祁曽神社

伊太祁曽神社のご案内
一 お祀りしている神様
  五十猛命(大屋毘古神とも称する)
  大屋津比売命(左脇殿 向かって右)
  都麻津比売命(右脇殿 向かって左)
一 ご鎮座の場所 和歌山市伊太祈曽558番地
一 ご鎮座の由来と沿革
伊太祁曽神社のご鎮座について具体的な年号の初見は「続日本紀」の文武天皇大宝2年(西暦702)です。
神代のことはよくわかりませんが、伊太祁曽神社はこの地に鎮まります以前には、日前神宮・国懸神宮(通称日前宮)の社地にお祀りされていたようです。日前宮のご鎮座が垂仁天皇16年(西暦紀元前14)と伝えられていますので、そのころ今の鳴神(日前宮鎮座地)より、この山東(現伊太祈曽)に遷座せられたようです。しかし、その地は現在の社殿のある場所ではなく、南東に500mほど離れた「亥の森]という所でした。今も田んぼの中にこんもりした森が残っており、いかにも神奈備の様相を呈しています。毎年旧暦10月初亥日に「亥の森祭」が行われています。
伊太祁曽神社は太古は鳴神の地にお祀りされていましたが、日前宮の鎮座とともに山東(伊太祁曽)に移り、大宝2年(西暦702)の官命に因って社殿の造営がはじめられ、約十年後の和銅6年(西暦713)に現在の地にご鎮座になった、というのが通説です。
延喜式神名帳に所載(式内社)の神社で、明神大・月次・新嘗・相嘗に預かると記載されており、平安期には朝廷の崇敬が篤い大社であったことがわかります。
紀伊国(木国)の一宮として朝野の崇敬を受け、明治18年国幣中社に列格し、大正7年に官幣中社に昇格しています。昭和9年の台風により社殿が甚だしく損壊しましたが、畏くも御内帑金のご下賜により内務省直轄の工事で復興に着手、昭和12年3月に竣工しました。
以後、屋根の葺替工事・常盤殿の改修・ときわ山造園・神池の改修等の境内整備を経て今日の神社があります。
一 樹木の神・緑化の神としてのご神徳(木の神)
ご祭神の.五十猛命は素盞鳴尊の御子神様で、日本書紀巻一(神代上)によれば、父神に従って高天原から大八洲国(日本)に天降られる時、多くの樹木の種を持ってこられました。最初に新羅国(韓国)に行かれましたが、この国には植えないで、大八洲国(日本)に持ち帰り、筑紫(福岡県)から日本全国に木の種を播き植林されました。そのおかげで日本の国は緑の豊かな山々を擁し、空高く水清き森林の育成がなされました和歌山県は、木の神様(五十猛命)がお鎮まりの国というので「木の国」と呼ばれていましたが、奈良時代に国の名前は二文字にして雅字を充てるという勅令が川されて「紀伊国」になりました。伊太祁曽神社が紀伊国(紀州)の祖神といわれろ所以です。
・天なるや八十の木種を八十国にまきはどこしし神ぞこの神
・山々の木々の栄えを木の国の栄えと守る伊太祁曽の神
(本居太平)
このようなご神徳の故に木材業や山林業に拘わる方々の崇敬がきわめて篤く、材木の主な集産地にはご分霊をお祀りした「伊太祈曽神社」が祀られています。
殊に和歌山、大阪の材木商の方々のお参りが多く、四月(第一日曜日)の木祭は賑わいます。
一 厄よけ・病難救済のご神徳(いのち神)
大国主神が八上比売をめぐって八十神から迫害を受けたときに、母神の刺国若比売が「このままではあなたは八十神に殺されてしまいます。木の国(紀伊国)の大屋昆古神(五十猛命)のところへ逃げなさい」と急がせます。大国主神は八十神に追われ矢を射かけられますが、大屋毘古神の助言により、木の俣をくぐりうまく逃れて助かります(古事記神代巻上)大屋毘古神が大国主神の命を八十神から救うという神話から災難よけの信仰が起こり、伊太祁曽神社には厄にけ祈願・病気平癒祈願等に多くの参拝者がお越しになります。
一 大漁・航海安全の、ご神徳(浮宝の神)
素盞鳴尊は「韓郷之嶋(中国大陸)には金銀の財宝があるが、吾児所御国(日本)に浮宝(船)がなければ運ぶことができないので良くない」と言われ、鬚髯を抜くと杉になり、胸毛を抜くと桧となり、尻毛は艪ニなり、眉毛は樟となりましたそして「杉と樟は浮宝(船)の材に、桧は社殿を造る材に、艪ヘ蒼生の奥津棄戸(棺桶)に利用しなさい」と言われました素盞鳴尊の御子神の五十猛命とその妹神の大屋津比売命・都麻津比売命の三柱の神様は、全国
に木の種を播きほどこして紀伊の国にお鎮まりになりましたと。日本書紀巻弟一(神代上)に書かれています。
当時の交通手段は、陸上は徒歩、海上は船によるものでした大量輸送や食物の確保(漁業)のために船は大切にされ、その大切な船は木(杉や樟)で造られ「浮宝」と呼ばれました。海に拘わる人たちは船の守り神として木の神様を崇め、航海の安全も祈るようになりました。今も大阪湾から紀伊水道の沿岸の漁師の方々の信仰が篤いのはそのためです。
」 海上交通の手段である船の航海安全のご神徳の高い五十猛命は、自動車が普及すると陸上交通の神としても崇められ、今日では、多くの方が車の交通安全を祈願されます。
卯杖祭(粥占いの神事)1月14日夜
餅米を主にした小豆粥を炊き、長さ一尺程の篠竹17本を束ねてその中に沈め祈願の後に引き上げ、竹筒の中の粥米の入り具合介で豊作を占います。竹筒には米の銘柄が付けられています。
○いのちの水
境内の川中に井戸があり、清水が湧き出ています、病気平癒を祈願する方はこの水を頂いて病人に飲ませると心身の爽やかさと活力を得る事ができるという、いのち神の信仰があります。
○祇園神社
境内南方の山中にあり、本殿ご祭神の父神の素盞鳴尊と天照皇大神と埴安比売命をお祀りしています。
○霊石お猿石
古くから境内にあり、その霊験が箸しく参詣者は本殿参拝の前に石に手をあてて心気を鎮めます。特に泉州方面の方々の信仰が厚く、首より上の病に霊験が著しい、と言われています。
○木の俣くぐり
ご神木の一部で、大屋毘古神が木の俣を利用して大国主神を助けた神話にちなみ、この木の穴をくぐることにより災難をよけることができるといわれています。
○天岩戸
横穴式の石室古墳で、奈良時代の初期(8世紀初
)のものと磐余、神社の鎮座の年代とほぼ合致します。
紀ノ川の南側に「風土記の丘」といわれる古墳群が存在し、氏子区域の平尾にも集落跡が発掘されており、この地が早くから開けていたことがわかります。
○ご神木(大杉)
神社のご神木の大杉ですが、昭和37年の落雷のため火事になり、それが原因で数年を経て枯れてしまいました、倒れると危険なので上部分を伐採し神木んの面影を残して保存しています。
一 祭礼
歳旦祭  1月1日 (年の初めのお祭り)
元始祭  1月3日 (仕事事始めのお祭り)
卯杖祭  1月15日(14日の夜粥占いの神事)
紀元祭  2月11日(建国を記念するお祭り)
祈年祭  2月19日(今年の豊作を祈願するお祭り)
木祭   四月の第一日曜日(木に感謝するお祭り)
祇園祭  旧6月7日(境内社祇園神社のお祭り)
茅輪祭  7月30日(大祓 わくぐり 厄よけ神事)
御井社例祭10月1日(命の水の神社のお祭り)
亥の森祭 旧10月初亥日(旧社地にある三生神社のお祭り)
例祭  10月15日(神輿渡御・稚児行列がおこなわれる)
神嘗祭遙拝 10月17日(伊勢神宮の神嘗祭を遙拝)
新嘗祭  11月23日(新米をお供えし感謝すろお祭り)
天長祭  12月23日(今上陛下のお誕生日のお祭り)
大祓   12月31日(師走の大祓 半年の罪穢を祓う)
除夜祭  12月31日(一年最後のお祭り)
月次祭 毎月1日
一 摂末社
蛭子神社 蛭子命(氏子区域内の二十二社を合祀)
祇園神社 素盞鳴尊・天照皇大神・埴安比売命
櫛磐問戸神社 櫛磐間戸命・豊磐間戸命
御井社  彌都波能売神
丹生神社 天照皇大神・丹生津彦命・丹生津姫命
三生神社 五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命

由緒書



伊多祁曽神社

紀伊国一之宮
伊多祁曽神社のご由緒
ご祭神
   大屋津比売命(妹神)
 五十猛命(須佐之男命の御子)
   都麻津比売命(妹神)
五十猛命は木の神様であり、国土緑化の神様でもあります。紀州木の国の祖神として二柱の妹神と共に全国の山々に木を植え青山とされたご神徳は高く、命を祭る全国多数の神社の総社として、紀州一之宮として農林殖産特に木材業・山林業など木に関係する生業の方々の尊崇するところであります。
また、父神(須佐之男命)と共に浮宝(船)を造り漁の業を住民に教えたところから漁業関係者の信仰殊に篤く航海・交通安全を司る神様として崇められています。
大国主命が大屋毘古命(五十猛命の別名)によって度重なる厄難を免れたことが古事記に記されており、このことから「厄除」「いのち神」としての信仰が今に続いています。

社頭掲示板



伊多祁曽神社

神代から古代
伊太祁曽神社についての具体的な年号の初見は「続日本紀」の文武天皇大宝2年(西暦702年)です。
神代のことはわかりませんが、伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前神宮・国懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかがすじんぐう=通称:日前宮にちぜんぐう)の社地にお祀りされていたようです。
日前宮のご鎮座が垂仁天皇16年と伝えられていますので、その頃に山東(さんどう=現在の伊太祈曽)に遷座せられたようです。
しかしその場所は現在の社殿のある場所ではなく、南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる所でした。現在も田んぼの中にこんもりした森が残っており、いかにも神奈備の様相を呈しています。
亥の森は旧社地として、小さな祠を祀っており毎年旧暦十月初亥日に「亥の森祭」が執り行われます。
「寛永記」には「伊太祁曽明神ハ和銅6年10月初亥ノ日当所に遷リ給フ」と記されており、現在の社地への鎮座は和銅6年(西暦713年)ということになります。
 つまり太古より祀られていた伊太祁曽神社は日前宮の鎮座とともに山東に遷り、大宝2年の官命によって社殿の造営がはじめられ、約10年後の和銅6年に現在の地にご鎮座になられたというのが通説です。
 延喜式神名帳に所載の神社(式内社)で、明神大・月次・新嘗・相嘗に預かると記載されており、平安期には朝廷の崇敬が篤い大社であったことがわかります。紀伊国(木国)の一ノ宮として朝野の崇敬を受けてきました。
中世から近世
新義真言宗である根来寺との関係が非常に深く、境内南側には 「興徳院」、奥宮である丹生神社に隣接して 「傳法院」 という、いずれも真言宗寺院が神宮寺として存在しました。
(興徳院については、現在は廃寺)
覚■上人が傳法院を建立し、伊太祁曽神社の奥之院としたと伝えられています。
また江戸期の文書には、正月15日の卯杖祭、9月15日の例祭に流鏑馬が行われたことなどが記されています。
明治から現在
明治18年には国幣中社に列格し、大正7年には官幣中社に昇格しています。
昭和37年、昭和46年、昭和52年、平成9年の天皇陛下御来県の砌には畏くも幣饌料を頂戴致しました。
昭和9年の台風により社殿が甚だしく損壊しましたが、畏くも御内帑金(ごないどきん)のご下賜により内務省直轄工事で復興に着手し、昭和12年3月に竣工しています。
以後、屋根の葺替工事、常磐殿の改修、ときわ山造園、神池改修等の境内整備を経て今日の神社があります。
平成14年(西暦2002年)は伊太祁曽神社の初見記事である大宝2年(西暦702年)より数えて1300年にあたり、ご鎮座1300年式年・奉幣祭を執り行い、畏くも天皇陛下より幣帛料を頂戴致しました。
現在 「御鎮座1300年記念事業」 として、本殿桧皮葺屋根の葺き替え工事を行っています。

公式HP



伊多祁曽神社

当神社創建の時期ははっきりしないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2(702)年が初見記事となる。
当神社が現在の地に鎮まる以前には、現在の日前神宮・國懸神宮(通称:日前宮)の地にお祀りされていたと伝えられている。
日前宮の御鎮座が垂仁天皇16年と伝えられているので、その頃に秋月(現在の日前宮鎮座地)より山東(現在の伊太祈曽周辺)に遷座されたと推察されるが、当初は現在の社殿のある場所より南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる場所であった。
亥の森は、今でも田圃の真ん中にこんもりとした森で、いかにも神奈備の様相を呈している。
中には、摂社である三生神社が鎮まっている。
『延喜式神名帳』には「名神大、月次、相嘗、新嘗」とあり朝廷の尊崇が篤い大社であったことがわかる。
中世には鳥羽上皇が当荘(山東荘)を根来寺に寄進されたことから根来寺との縁が深くなるが、そのため天正年間の豊臣秀吉の根来攻めにより、当神社も戦禍に巻き込まれた。
後に、羽柴秀長によって社殿の再建が成されている。
御祭神の五十猛命は素盞鳴尊の御子神様で、『日本書紀』には父神の命を受けて日本国土に木種を播き青山と成した植樹神と記されている。
このことから「木の神」として慕われ、木の神様の住む国ということでこの地は「木の国」と呼ばれ、やがて「紀伊国」と成った。
また、家や船は木材より作られたことから、家屋の神、浮宝(船)の神としても慕われている。
『古事記』では大屋毘古神の御名で登場するこの神様は、大国主神を災厄から救った神話(因幡素兎の次の段)が記されており、このことから「いのち神」「厄難除けの神」という信仰もある。
今日でも泉南地区(大阪府)の漁師が大漁祈願に、高野口方面(和歌山県)や河内長野方面(大阪府)の人々が病気平癒祈願に多く参拝されている。
近年、地球環境の温暖化対策に樹木の役割が大きいと注目され、植樹運動が活発に行われてゆく中、環境問題に関心を持つ人の参拝も増えている。

和歌山県神社庁



伊多祁曽神社

当神社創建の時期ははっきりしないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2(702)年が初見記事となる。
当神社が現在の地に鎮まる以前には、現在の日前神宮・國懸神宮(通称:日前宮)の地にお祀りされていたと伝えられている。
日前宮の御鎮座が垂仁天皇16年と伝えられているので、その頃に秋月(現在の日前宮鎮座地)より山東(現在の伊太祈曽周辺)に遷座されたと推察されるが、当初は現在の社殿のある場所より南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる場所であった。
亥の森は、今でも田圃の真ん中にこんもりとした森で、いかにも神奈備の様相を呈している。
中には、摂社である三生神社が鎮まっている。
『延喜式神名帳』には「名神大、月次、相嘗、新嘗」とあり朝廷の尊崇が篤い大社であったことがわかる。
中世には鳥羽上皇が当荘(山東荘)を根来寺に寄進されたことから根来寺との縁が深くなるが、そのため天正年間の豊臣秀吉の根来攻めにより、当神社も戦禍に巻き込まれた。
後に、羽柴秀長によって社殿の再建が成されている。
御祭神の五十猛命は素盞鳴尊の御子神様で、『日本書紀』には父神の命を受けて日本国土に木種を播き青山と成した植樹神と記されている。
このことから「木の神」として慕われ、木の神様の住む国ということでこの地は「木の国」と呼ばれ、やがて「紀伊国」と成った。
また、家や船は木材より作られたことから、家屋の神、浮宝(船)の神としても慕われている。
『古事記』では大屋毘古神の御名で登場するこの神様は、大国主神を災厄から救った神話(因幡素兎の次の段)が記されており、このことから「いのち神」「厄難除けの神」という信仰もある。
今日でも泉南地区(大阪府)の漁師が大漁祈願に、高野口方面(和歌山県)や河内長野方面(大阪府)の人々が病気平癒祈願に多く参拝されている。
近年、地球環境の温暖化対策に樹木の役割が大きいと注目され、植樹運動が活発に行われてゆく中、環境問題に関心を持つ人の参拝も増えている。

和歌山県神社庁



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