本来の主神は、高魂命・劔根命と思われるが確定はできない。 応神天皇の皇女荒田郎女と縁由あると思われる 荒田の直が祖高魂命、および剣根命を祀つたのが創祀。 |
荒田神社 当神社も天正の兵火のため、伝うる文書等は一つも存在していないが、『紀伊続風土記』に次の様に記され往時が偲ばれる。 「荒田神社、境内周二町四十間、 祀神、高魂神、剣根命、拝殿、神楽所、御供所、攝社、丹生明神社、末社、二社 延喜式神名帳那賀郡荒田神社二座、本国神名帳那賀郡地祇従四位上荒田神、森、堀口、川尻、今中、西坂本、押川六箇村の産土神なり、古は岩出、山崎両荘の総産土神にて荘中の末社百二十社と言伝う、祀宇も壮巖に神職も九名あり、社領十町八反二畝ありしに天正の兵火に罹りて祀宇尽燒亡し、縁起寄附状宝物等皆紛失し社領皆没収せらる、是より神事祭礼廃絶す。 且中古以来両部に祭りて社地に別当寺を置来たれり、寛文年中命ありて唯一に復して別当寺を外に移し、神事祭礼稍舊に復する事を得たり、此の神は式に二座とありて和泉国大鳥郡陶器荘にも、陶荒田神社二座と見ゆるに後世両部に祀りし等、改めしや宮居三社造となし来り、且地名弘田なるを以て攝津國廣田社と同神にて、天疎向津姫尊とし、神功皇后、譽田別天皇を合せ祀るといひて三座の数に合せたる説あれとも索強附会にして取るに足らず、神主を西堀氏という。」とある。 (社叢)境内にある樹木は、楠の大樹が多く、古社の面影を偲ばせるものがある。 (例祭)祭典は現在実に簡素な祭典であり、往古の盛大さを残すものは何一つもない状態である。 (神社の現況)当社は現在は荒涼たる状であるが、氏子より御造営修復の気運が起り着々と準備を進めて居るのは真に喜ばしい限りである。 時恰も、文化財として、本殿一棟が平成7年4月11日付で県より有形文化財として指定を受け御修復の計画もより一層進行するものと思考される。 神社側らの町道も整備拡幅され、これに伴い神社も駐車場を設けて整備し、今後の発展を期している。 附近は、新興住宅が多く、転入者も多くなっているので、この人等を氏子として如何に受入れるか、が今後の対策として課題となる。 和歌山県神社庁 |
荒田神社 神社の由来 当神社の起源は明確ではありませんが「延喜式神名帳」や「紀伊国神名帳」等にも記載されているたいへん由緒ある神社です。現在は森、今中、川尻、堀口、押川の産土神となっていますが、往時には西根来(現在の根来)も含む、弘田庄、更に古くは山崎庄、岡田庄を加えたこの地域の総産土神でありました。末社は120社、社領も十町八反二畝(約107000u)を数えたと伝えられていますが、残念ながら天正13年(1585年)秀吉の根来攻めの際、周辺の寺社とともに灰燼に帰し、縁起、寄進状、宝物等すべて焼失しました。 その後、寛永元年(1624年)の頃、十分の一に縮小して再建され、現在に至っております。明治41年(1908年)には川尻、堀口、押川の各神社のご祭神が合祀されました。 本殿はその歴史的価値が認められ、平成7年4月、和歌山県より有形文化財の指定を受けております。 平成18年3月 宗教法人荒田神社 社頭掲示板 |