丹生都比女神社
にぶつひめじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】丹生都比女神社(名神大 月次/新甞) 紀伊国 伊都郡鎮座

   【現社名】丹生都比女神社
   【住所】和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
       北緯34度15分46秒、東経135度31分19秒
   【祭神】丹生都比売大神 高野御子大神 大食都比売大神 市杵島比売大神
   【例祭】 4月22日又は近い日曜日 春の大祭 8月18日 夏の大祭 10月16日 例祭
   【社格】旧官幣大社
   【由緒】創建年代は不明
       仁寿元年(851年)正五位下
       貞観元年(859年)従四位下
       寛平年間従三位
       寿永2年(1183)従一位
       元暦2年(1184年)3月正一位
       正応6年(1293年)造営
       徳治元年(1306)造営
       明応5年(1496)大火
       明治6年県社
       大正13年2月11日官幣大社

   【関係氏族】天野氏・丹生氏
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「丹生高野)明神」「天野四社明神」と称していた
   【公式HP】 丹生都比売神社
   【社殿】本殿春日造 四殿
       拝殿・神饌所・楼門・社務所・貴賓館・収蔵庫

   【境内社】佐波神社・若宮

本殿は四殿あり、第一殿に主神、丹生都比売(にうつひめ)大神を祀り、第二、第三、第四殿に、夫々に、高野御子(たかのみこ)大神、御食都比売(みけつひめ)大神、市杵島比売(いちぎしまひめ)大神を祀る。
天津彦火瓊々杵尊が丹生津比売を祀ったのに創まる。
丹生津比売の御終焉の聖地天野の社地を本宮と定め鎮座した。
創建年代は不明であるが。空海が高野山を開く以前よりここにあったと思われる。古くは紀ノ川沿いの丹生酒殿神社を里宮とし、丹生都比売神社は山宮として機能していた。高野山開山後は高野山の援助のもと発展を遂げた。


由緒

丹生都比売大神は天照大神の御妹神で別名稚日女尊(わかひるめのみこと)と申します。織物の祖神と言われ、御子の高野御子と共に大和地方を巡歴され、農耕殖産を教え導かれこの地に鎮座されました。神功皇后に協力された功績で応神天皇より紀ノ川以南の広大な地を神領として与えられました。その後も皇室の御崇敬は厚く延喜の制で名神大社に列せられ、大正13年官弊大社になりました。 それ故社宝には、国宝や重文も多く保存されています。古くは弘法大師が当社の側に曼陀羅院を建立し、その後神白、神黒、2匹の犬の導きで高野山に真言密教の道場を開き、以来当社は高野山の守護神として崇拝されています。第3、4殿には鎌倉時代の初め行勝上人により、敦賀の気比神宮、安芸の厳島神社を勧請され、4柱の神を各殿にお祀りして以来4社明神とも呼ばれてお導きの神として参詣者が絶えません。
当社の特殊神事の1月14日の御田祭、4月22日の花盛祭及び渡御の儀は平安時代の古式そのままに行われています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




丹生都比女神社

丹生郡比売神社(旧官幣大社)にぶつひめじんじや
例祭神 
    にぶつひめのおおかみ
第一殿 丹生都比売大神(丹生明神)
    たかのみこのおおかみ
第二殿 高野御子大神(狩場明神)
    おおげつひめのおおかみ
第三殿 大食都比売大神(気比明神)
    いちきしまひめのおおかみ
第四殿 市杵島比売大神(厳島明神)
    ぎょうしょうしょうにん
若宮  行勝上人
    さわじんじや
境内社 佐渡神社
社宝
宝物は、建物を除き神社収蔵庫に保管している他、東京・京都・奈良の国立博物館、和歌山県立博物館、高野山霊宝館に出陳中のものもあり、主な宝物は左表の通りです。
指定区分  名称    員数   時代
国宝  銀銅蛭巻太刀  一口   平安時代
重文  楼門      一字   室町時代
重文  本殿      四殿   室町時代
重文  本殿内宮殿   四殿   鎌倉時代
重文  木造狛大    四対   鎌倉時代
重文  兵庫鎖大刀   一口   鎌倉時代
重文  鍍金長覆輪大刀 一口   鎌倉時代
重文  金銅琵琶    一面   鎌倉時代
重文  木造鍍金装神輿 一基   鎌倉時代
重文  法華経     八巻   平安時代
重文  後村上天皇宸筆寄進状一巻 南北朝時代
重文  待従頼宝施入状 一巻   南北朝時代
県文  楽太鼓縁    一対   鎌倉時代
県文  鼓胴      三個   鎌倉時代
県文  瑞華鸞八稜鏡  一面   平安時代
神社周辺の旧跡
鏡池と八百比久尼
輪橋下の池に写る自分の姿が、八百歳にしては余りに若々しいのを嘆き鏡を池に投げ入れたと伝えられています
大峰修験者の碑 四基
南北朝時代に建立され、多くの修験者の参加(一回約200名)により行が行われました。
貧女一燈お照の墓
高野山復興の原動力となった一燈を献じた少女お照の墓といわれています
西行堂
西行法師の徳を偲んで建てたと伝えます。側には西行妻娘の墓があります。
横笛の恋塚
出家して高野山に住む溝口入道を慕い、舞姫横笛は天野に草庵を結んだ場所をいいます。
その他、ニッ鳥居・鬼王団三郎の墓・有王丸の墓・亀田大隅守の碑・子の日権現生誕地・柳沢明神等の旧跡もあります。
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野220番地
丹生都比売神社社務所
例祭礼
歳且祭 1月1日 新年の繁栄と無病息災を祈念する祭
御田祭と厄除祭
    1月第三日曜日 豊穣を祈る新年の農耕神事(芸能)と厄祓い
祈年祭 2月17目 今年の稲作の豊穣を祈念する祭
花盛祭 4月第三日曜日 祭神(女神)に花を供え春(花)を祝ぐ祭
大祓式 6月30日 半年の諸々の穢れを祓い無病息災を祈願する祭
神還祭 7月18日 修験者が祭神を奉じて峰々を回り帰還される祭
秋季大祭 10月16日 当社の最荘重な秋の例大祭
新嘗祭 11月23日 天皇が神に新米を供え自らも食される祭日に神社も氏子が供えた新米を神に供え収穫お礼の祭
大祓式 12月31日 後半年の穢れを祓い新しい年を迎えるよう祈願する祭
月次祭 毎月16日 月々の例祭で無病息災を祈願する祭
神社略記
四面山に囲まれた幽僻の地、海抜500mの盆地天野に約1700年前よりお祀りされている丹生都比売神社は、通称天野社・天野大社の名で呼ばれています。
弘法大師が高野山開創と共に、特に関係深い当社は、地主神また高野一山の鎮守神として現在に至っています。
天平年間の頃に出来たという「丹生大明神告門」によると、丹生都比売大神は、天照星大神の妹神で椎日女命(わかひるめのみこと)とも申し上げ、神代この紀伊国竜田(三谷)に御降臨され、御子高野御子大神と共に紀伊・大和地方を巡歴、終焉の聖地として天野原に上り「朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮に、常世の宮として鎮り給う」と記されています。
神功皇后への協力の功として、応神天皇より紀の川より南、有田川に至る広大な土地を神領として与えられました。弘法大師が、高野山に真言密教の道場を開くにつき高野御子大神が狩人に化身し、黒白二頭の犬にて案内した事等により高野山により丹生明神・高野明神として二社が祀られました。
鎌倉時代には、行勝上人により二位尼の援助のもと気比明神・厳島明神が勧請され四社となり現在の形が出来ました。その後、徳治元年(1306)に大整地が行われ社殿も現在の姿に造営され神社としての威容が整いました。
しかし、明応5年(1496)大火の災害に見舞われ全社殿及ぴ付近の寺院堂塔伽藍が焼失したが、社殿内の御神体が安置されている内宮殿は搬出され難を逃れ、明応8年(1499)4月楼門が現在の二階に改造、四社殿は十余年の歳月を要しで造営が完了しました。
江戸時代に第一殿、明治時代に第三殿が、台風のため裏山の倒木により損壊したが修復され現在に至っています。四社殿とも一軒社春日造りで日本では最大といわれています。また、社殿内部には内宮殿があり、その中に御神体を安置する形式も他に例のない神社として有名です。

由緒書



丹生都比女神社

御由緒
紀ノ川より紀伊山地に入り標高450mの盆地天野に当社が創建されたのは古く、今から1700年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞 にうだいみょうじんのりと 』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命 わかひるめのみこと とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
  また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后 じんぐうこうごう の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。
  ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝 ぎしわじんでん』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、当社は、その総本社であります。
  丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ(絵図参照 3DCG再現映像)明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。
  また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習でした。
鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われます。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。
 尚、平成16年7月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産へ登録されました。

公式HP



丹生都比女神社

紀伊山地の入り口にあたる、標450mの盆地である天野の地に神社が創建されたのは、今から1700年以上前と伝えられる。
『丹生大明神告門』によれば、丹生都比売大神は、天照大御神の御妹神で、稚日女尊とも申し上げ、紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を伝えられ、この地に鎮座せられたとある。
 また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后出兵の折、大神の託宣により、赤土を賜り、これを天逆鉾に塗り船に立てたところ、戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿を造営され、紀伊山地の北西部一帯を神領として寄進されたとある。
今も大神を御祭神とする神社は県内八十社をはじめ、全国約百八十社を数え、当社が本社である。
 さらに、『日本書紀』に神功皇后が新羅より帰還された後の記事として天野の祝(神職を意味する)が登場することから、神社の奉斎が古くから行われていたことを示すものとされている。
 式内社としては、名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預る。
また、蒙古襲来の後、紀伊国一之宮ともなった。
これは、幕府が当社に異国降伏を祈願したところ、大ガラスが飛び立ち暴風が起こって元の軍船を壊滅させた御神威が理由とされる。
社格制度上では、大正13年に官幣大社に列格している。
 信仰的には、真言密教との密接な関係を保ってきた神社として知られる。
弘法大師は、丹生都比売大神より神領を借受け、高野山の壇上伽藍の御社に守護神として大神を祀り、真言密教の総本山を開いた。
大神の御子の高野御子大神は、弘法大師空海の前に、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へ導いたと今昔物語に伝わる。
 また、古来、高野山への参詣者は、表参道である町石道を登り、途中にある二つ鳥居からまず当社に参拝するのが習わしであった。
鎌倉時代から明治の廃仏毀釈までは、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、惣神主をはじめ社家19家と社僧、神子、神楽男総勢56人で護られてきた。
その間、舞楽法会が行われている。
これは、都からの伶人30余名による舞楽が奉納され、高野山の僧侶百余名による法会が、国の安泰を祈る行事として、社頭で行われたものである。
 神社の社殿は、鎌倉時代に、行勝上人により、大食都比売大神と市杵島比売大神が勧請され、現在の四殿となり、室町時代に火災により消失するが、すぐに復興されている。
朱塗りに彫刻と彩色を施した社殿は、春日造では日本一の規模を誇ると言われる。
楼門とともに重要文化財に指定されている。
鏡池に架かる朱塗りの太鼓橋は、天野盆地の里山の風景に溶けこみ四季折々に姿を変える。
 主なご祭礼としては、例祭は秋の大祭として斎行され、春の大祭としては、四月第三日曜日にご祭神に花を供える花盛祭があり、この日渡御の儀が行われご神幸がある。
他に、1月第三日曜日に行われる御田祭があり、起源は平安時代後期とされる豊作を祈る農耕神事である。
 平成16年、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界文化遺産に登録された。

和歌山県神社庁



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