饒速日命を祖先に持つ物部大連公、後に小田の連公(第9代開化天皇の妃の兄)は大和より当所小田に移り住居し、祖先物之部武彦命を祀られ小田神社を建立した。 |
由緒 饒速日命を祖先に持つ物部大連公、後に小田の連公(第9代開化天皇の妃の兄)は大和より当所小田に移り住居し、祖先物之部武彦命を祀られ小田神社を建立した(1400余年前)。上古は、醍醐天皇の延長5年(927) に編集された延喜式の神名帳に記載されている式内社として伊都郡内では、天野大社と並んで大社として神領も多く朝廷の尊敬も深かったと言う。しかしその後の数々の兵乱に合って社地衰廃し、祠は焼失してしまった。徳川時代に紀州の殿様徳川頼宣がこのことに非常に嘆かれて「小田神社」の字を石に刻み、2度と焼失することのない石の神殿をお建てになった。森の広さも一辺4町の四方形であったが、今は周り2町余である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
小田神社 小田神社は、饒速日命の13世の子孫であり物部尾輿公の弟神、小田連公の祖とされる物部建彦命をお祀りしています。 平安時代中期の延喜式神名帳に「小田神社」として登載されている式内社であると共に鎌倉時代初期に紀伊国神名帳にも「従5位上小田神」として記載されている官幣社で、往古から神祇官の幣帛に預かる格式高い神社として栄えました。その神域は4町四方もあったと伝えられ広大にして荘厳な社として朝野とも尊敬が深かった大社でありました。 しかし幾度の兵乱のため、社伝や宝物を失い、社地も荒廃して本殿に仮殿を設けてお祀りしていましたが紀伊藩主徳川頼宣公が元和年間には境内本殿跡に石の宝殿を建て「小田神社」と刻しご神体として後世に伝えさせ、現在にいたっております。 社頭掲示板 |
小田神社 小田神社は、饒速日命の13世の孫である物之部武彦(建彦)命を主祭神としてお祀りしている。 この神は物之部尾興連公の弟神で小田連等の祖である。 醍醐天皇の延長5(927)年に撰上された『延喜式神名帳』に、「小田神社」として記載されている式内社(紀伊国で三十一社、伊都地方では天野大社とともに二社)である。 又、平安末から鎌倉初期の編纂といわれる『紀伊国神名帳』には、「従五位上小田神」の名で神祗官の幣例に預かる官知神として伊都郡内五社の中に列せられている。 このように、往古の小田神社は、神域が四町四方(一町は109m)もあったと伝えられるほど、広大かつ立派な社としてその尊厳さは他社に及ぶものがなく、朝野ともに尊敬の深い大社であった。 しかるに、数度の兵乱のため社殿や宝物を失い、社地も荒廃して木陰に仮殿を設けてお祀りしていたが、紀州徳川の藩祖頼宣公が天和年中に旧境内本殿の跡に石の宝殿を建て「小田神社」の四文字を刻んで後世に伝えさせたという(これが現在の御神体となっている。 これによって「延喜式内社」の面目が作られ、江戸屋五兵衛なる町人が御神燈を献納したり、高野山から「式内社方角案内」の額が奉納されたりしている。 社名の「小田神社」は、地名に基づくものでなく、小田連公が大和からこの地に移り住み、その祖先である物之部武彦命を奉り祀りしことによる氏族名から付けられた名で、その建立は千四百年前と伝えられている。 江戸時代末に刊行された『紀伊名所図會』の「小田神社」の項に、次の二首が掲載されている。 守ります小田の御神の恵みとも しらでやしづがをしねかるらむ(読人しらず) 玉だれのをだの宮居はあれにけり 昔にかへすますらをもがな(小田 牛雄) 「物之部」は、「モノノグ(兵器)」と「モノノフ(兵士)」を掌る氏族の名称で、古来から大伴氏とともに我が国の軍神として崇められてきた神であった。 明治維新後の小田神社は、高野口町大字小田の氏神様として現在に至っている。 祭礼の日に行われた競馬は近郷の呼び物であったというが、今はその面影すら残していない。 和歌山県神社庁 |
小田神社 小田神社 境内周二町 延喜式神名帳伊都郡小田神社 本国神名帳伊都郡従五位上小田神 村中にあり 郡中丹生神社を除きては式内の神は当社のみなれは上古は大社にして朝野共に尊敬深かりけんに数度の兵乱を経て社地衰微し祠も廃絶せしを 南龍公嘆かせ給ひて境内に石の宝殿を建てさせ給ひ小田神社の字を刻ましめ給ふ 森の広さも古は境内方四町もありしに由なれとも今は周二町許なり 此辺田地の字に神田といふもあれは古は神領も多かりしなるへし 小田は地名にして祭神詳ならす 或いはいふ舊事記に物部ノ建彦ノ連公は小田ノ連等カ祖とあり当社の小田は姓にて小田ノ連此地に居り其祖物部建彦連公を祭りしより小田社といふか 紀伊続風土記 |