姉埼神社
あねさきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】姉埼神社 上総国 海上郡鎮座

   【現社名】姉埼神社
   【住所】千葉県市原市姉崎2278
       北緯35度28分24秒,東経140度2分53秒
   【祭神】支那斗弁命 (配祀)天児屋根命 日本武尊 大雀命 塞三柱命
   【例祭】7月20日 夏季例祭 10月20日 秋季例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】元慶元年(977) 正五位上
       天慶3年(940)平将門追討祈願
       源頼朝が鎌倉への途次に「馬揃」を行う
       慶長6年(1601) 結城秀康社殿造営
       元和4年(1618)領主松平直政社領寄進
       明治維新後県社
       昭和61年1月火災

   【関係氏族】海上国造
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「明神」と称していた
   【公式HP】 姉埼神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】
   【境内図】 境内図

日本武尊海上の平穏を祈って風神長戸辺神を祀ると云う。海上国造一族のものと思われる姉崎古墳群中にある。
姉崎神社には境内に松ノ木が一本もなく氏子は門松も立てない。かって女神・志那斗弁が夫・志那津彦にたいそう待たされ「マツ身はつらい」と言ったことからという。
夫神は市原市の嶋穴神社の志那津彦命といわれる。
姉ヶ崎の地名伝承では、姉弟の神様がいて先に姉神が来て、弟神を待ったので「姉前(崎)」となったという。


由緒

一、姉埼神社は、社伝によれば、人皇第12代景行天皇40年11月、天皇の皇子日本武尊が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い、お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ、ここ宮山台においてお妃を偲び、風の神志那斗弁命(シナトベノミコト)を祀ったのが始まりという。
従って、御祭神は志那斗弁命であるが、その後景行天皇がこの地を訪れられて、日本武尊の霊を祀られ、更に人皇第13代成務天皇5年9月、このあたりを支配していた上海上(カミツウナカミ)の国造の忍立化多比命(オシタテケタヒノミコト)が、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と塞三柱神(サエノミハシラノカミ)を合祀し、又人皇第17代履中天皇4年忍立化多比命五世の孫の忍兼命(オシカネノミコト)が、大雀命(オオササギノミコト)(人皇第16代仁徳天皇)を祀ったといわれるから、風の神を主神として、外に数柱の御祭神が合祀されているわけである。これら祭神の御神徳は、姉埼神社への尊崇を高め、元慶元年(877)には神階も正五位上にまで進み、天皇の勅願所ともなった。又、「延喜式神名帳」にも、上総国の五社の一つとして載せられ、いわゆる式内社として有名になった。 一、その後、天慶3年(940)には、平将門追討の祈願が寄せられ、神社へ刀劔一振が奉納された。
ついで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。
さらに関東が徳川氏の勢力下にはいるに及んで、慶長2年(1597)には松平参州侯が、慶長6年(1601)には結城秀康が、共に社殿を造営したり、神馬を奉納したりした。なお、元和4年(1618)11月には、この地の領主松平直政が社領三十五石を寄進し、蘆屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。明治維新後、木更津県が誕生するに及んで、姉埼神社は県社となり、千葉県となっても引き継がれた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




姉埼神社略記

一、姉埼神社は、千葉県市原市姉崎2270番地の地に鎮座する。JR内房線姉ヶ崎駅で下車して、東方1200mの距離にある。 社殿は、宮山台という海抜50mの高台にあり、眼前に東京湾を望める高爽の地である。
一、去る昭和61年、祝融の災にあって、旧建物が失われ、今回新しく建造された神殿は、あたりの景観と相俣って、その偉容を見せ、神威を顕現している。
一、姉埼神社は、社伝によれば、人皇第12代景行天皇40年11月、天皇の皇子日本武尊が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い、お妃の弟橘姫の犠牲によって、無事上総の地に着かれ、ここ宮山台において、お妃を偲び、風の神志那斗弁命を祀ったのがはじまりという。 従って、御祭神は志那斗弁命であるが、その後景行天皇がこの地を訪れられて、日本武尊の霊を祀られ、更に人皇第13代成務天皇5年9月、このあたりを支配していた上海上の国造の忍立化多比命が、天児屋根命と塞三柱神を合祀し、又人皇第17代履中天皇4年忍立化多比命五世の孫の忍兼命が、大雀命(人皇第16代仁徳天皇)を祀ったといわれるから、風の神を主神として、外に数柱の御祭神が合祀されているわけである。
これら御祭神の御神徳は、姉埼神社への尊崇を高め、元慶元年(877)には神階も正五位上にまで進み、天皇の勅願所ともなった。又『延喜式神名帳』にも、上総国の五社の一つとして載せられ、いわゆる式内社として有名になった。
一、その後、天慶3年(940)には、平将門追討の祈願が寄せられ、神社へ刀劔一振りが奉納された。
ついで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。
更に関東が徳川氏の勢力下にはいるに及んで、慶長2年(1597)には松平参州侯が、慶長6年(1601)には結城秀康が、共に社殿を造営したり、神馬を奉納したりした。なお、元和4年(一1618)11月には、この地の領主松平直政が社領三十五石を寄進し、藍屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。
明治維薪後、木更津県が誕生するに及んで、姉埼神社は県社となり、千葉県となっても引き継がれた。
一、姉埼神社の御祭事は、正月の元旦祭、2月の節分祭、夏季(7月20日)と秋季(10月20日)の例大祭などである。
この外、古来流鏑馬の神事が行われたが、現在は式典だけが行われている。
一、又特殊神事として、「牛ほめ」の神事があったが、今は中絶されており、いつの日かに復活が望まれる。この「牛ほめ」の神事とは、2月11日に行われたお田植え祭りの神事の中で行われたもので、誠に珍らしい行事である。お田植え祭りは、「お宮の種まき」ともいわれ、当日は早朝拝殿にこもを敷き、牛になぞらえた高麗狗を安置し、鍬形と種形に切った餅を作り、10時ごろから祭典を行い、そのあとで「牛ほめ」の神事があった。
この「牛ほめ」のことばには、「目を見て候えば、銅の鈴を張りたるが如し」とか、「耳を見て候えば、琵琶の葉をならべたるが如し」とか、口・角・背・尾・爪などを次々とほめたという。牛をほめて、農業の振興や五穀農穣・産業の隆昌などを願ったものと思われる。
一、姉埼神社には、境内に松の木が一本もなく、氏子の家のお正月には門松を立てない。これには、特殊な伝承があって、御祭神の志那斗弁命が、かつて夫の神である志那都彦命に大変待たされたので、「待つ身はつらい」といわれたことから、「待つの音通の「松」を忌むようになったというのである。
なお、姉埼神社は縁結びの神といわれ、かつてその象徴として、神社の大鳥居の前に夫婦杉があった。これは二本の杉が、途中で一本の枝によって連結されていた。これに巧みに紙を結びつけると良縁が得られるといわれた。
以上のように、数々の伝承や神事を持つ姉埼神社は、産土の神として、御神徳益々明らかに輝き、御神威が弥々光りを増し、このたび新装成った御神殿に、氏子を初め、万民こぞって崇敬の誠をささげるものである。
(菱田忠義)
千葉県市原市姉崎
姉埼神社社務所
電話0436(61)5040
松の嫌いな明神さま
姉埼神社は景行天皇40年(110年)11月、日本武尊御東征の時舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗辮命を現在の丘上(太古丘の下は海で岬を形づくっていたと推定される)に祀ったのが創祖といわれる。
当神社の森は古来鬱蒼たる老杉に覆われて、その森厳さと、美しい林相を近郷に誇って来たものであり、氏子農漁民は朝夕この社を仰いで心にやすらぎを得て夫々の生業にいそしみ、又幾年かこの郷土を離れて帰郷した人達は、駅に降り立って心のふるさとである明神の杜に接し、更めて温い故郷の空気に包まれたという感慨を語っている。記録によればこの杉は慶長、寛永慶安年間に苗木が献納され、その数約4,000本とある所から推して、樹令は大体350年〜370年のものが主力であり、この時期に既に成木となっていたもの何本かが御神木を含めて樹令600年〜650年を数えるものと推定される。
明神とは創祀も古く、由緒も正しい神社に対し、中世以降授けられた称号であり、この地区に於て明神といえば当神社を指すものである。尚神佛習合現象のあらわれた11世紀の頃から御祭神に奉られた権現号も又神号の一つである。
当社の境内林に松樹の無い事、又この氏子区域内では正月に松を飾らないことについて、氏子外の方々から奇異の眼を以って見られ又質問される事が屡々ある。
我国には古来言葉に何らかの霊力があるとする言霊(ことだま)の信仰がある。例えば稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神であり、この神は元来五穀と蚕桑を司る神であるが、「いなり」という語から、その場所に固定して成功する「居成り」という信仰に転化し、邸内社として各家の守護神として、又商業の神としてデパートの屋上等に祀られる様になって来たものと思われる。又五星の先負、佛滅、或は数字の四(死)、九(苦)等が慶事の際忌まれる事等我々の日常生活に定着しているものは極めて多い。
姉埼神社の御祭神志那斗辮命は女神であり、夫神は島穴神社の御祭神志那津彦命といわれて居る。その時代狩猟に出立つ夫神を門べで、馬の口輪を執って、その鼻づらを目的地の方に向けて送ったものと思われる。はなむけという語はここから出たのではないかと推察される。大国主命の妃須勢理姫命が旅に出た夫神の帰りを待ち、空閨をかこって歎いた歌に「八千矛の神の命や、我が大国主、汝こそは男にいませば折見る嶋の岬々かき見る磯の岬落ちず若草の妻持たせらめ我はもよ女にしあれば汝除きて男は無し汝除きて夫はなし」
云々という長い歌が古事記に載っているが、この歌の如く当神社の御祭神も又、いつ帰るとも知れぬ夫神を待ちわび、待ちこがれ、「待つは憂きものなり」と歎かれ、「待つ」は「松」に通ずる所から、この郷に於ては古来松を忌むと書かれている。この伝説による風習が遠い祖先から伝承され、この氏子区域内個々の家庭に定着しているもので、約7000坪の境内に一本の松樹を見ない事と合せて、各戸の門口には竹と榊を組み合せた門飾りを立て、来る年毎の新年を祝い、現在に至っているものである。私見として、用材として役立つ松を若木で採取するより、雑木の榊を用いた方が国策にも副うのではないかと考察するので、この様な伝説による特異な民間神事は後世に伝え残して行きたいと思う。冒頭に述べた境内林の杉はここ数年来衰退枯死甚しく、無残な現状であり、この対応策として、植林、境内地の環境整備等今後三ヶ年計画を以て事業実施を行う予定であり、現在その計画を策定中であるが、元の林相に復元する為には少くとも百年単位の長期計画が必要であろう。(宮司海上信久)

社頭掲示板



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