日本武尊海上の平穏を祈って風神長戸辺神を祀ると云う。海上国造一族のものと思われる姉崎古墳群中にある。 姉崎神社には境内に松ノ木が一本もなく氏子は門松も立てない。かって女神・志那斗弁が夫・志那津彦にたいそう待たされ「マツ身はつらい」と言ったことからという。 夫神は市原市の嶋穴神社の志那津彦命といわれる。 姉ヶ崎の地名伝承では、姉弟の神様がいて先に姉神が来て、弟神を待ったので「姉前(崎)」となったという。 |
由緒 一、姉埼神社は、社伝によれば、人皇第12代景行天皇40年11月、天皇の皇子日本武尊が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い、お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ、ここ宮山台においてお妃を偲び、風の神志那斗弁命(シナトベノミコト)を祀ったのが始まりという。 従って、御祭神は志那斗弁命であるが、その後景行天皇がこの地を訪れられて、日本武尊の霊を祀られ、更に人皇第13代成務天皇5年9月、このあたりを支配していた上海上(カミツウナカミ)の国造の忍立化多比命(オシタテケタヒノミコト)が、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と塞三柱神(サエノミハシラノカミ)を合祀し、又人皇第17代履中天皇4年忍立化多比命五世の孫の忍兼命(オシカネノミコト)が、大雀命(オオササギノミコト)(人皇第16代仁徳天皇)を祀ったといわれるから、風の神を主神として、外に数柱の御祭神が合祀されているわけである。これら祭神の御神徳は、姉埼神社への尊崇を高め、元慶元年(877)には神階も正五位上にまで進み、天皇の勅願所ともなった。又、「延喜式神名帳」にも、上総国の五社の一つとして載せられ、いわゆる式内社として有名になった。 一、その後、天慶3年(940)には、平将門追討の祈願が寄せられ、神社へ刀劔一振が奉納された。 ついで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。 さらに関東が徳川氏の勢力下にはいるに及んで、慶長2年(1597)には松平参州侯が、慶長6年(1601)には結城秀康が、共に社殿を造営したり、神馬を奉納したりした。なお、元和4年(1618)11月には、この地の領主松平直政が社領三十五石を寄進し、蘆屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。明治維新後、木更津県が誕生するに及んで、姉埼神社は県社となり、千葉県となっても引き継がれた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
姉埼神社略記 一、姉埼神社は、千葉県市原市姉崎2270番地の地に鎮座する。JR内房線姉ヶ崎駅で下車して、東方1200mの距離にある。 社殿は、宮山台という海抜50mの高台にあり、眼前に東京湾を望める高爽の地である。 一、去る昭和61年、祝融の災にあって、旧建物が失われ、今回新しく建造された神殿は、あたりの景観と相俣って、その偉容を見せ、神威を顕現している。 一、姉埼神社は、社伝によれば、人皇第12代景行天皇40年11月、天皇の皇子日本武尊が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い、お妃の弟橘姫の犠牲によって、無事上総の地に着かれ、ここ宮山台において、お妃を偲び、風の神志那斗弁命を祀ったのがはじまりという。 従って、御祭神は志那斗弁命であるが、その後景行天皇がこの地を訪れられて、日本武尊の霊を祀られ、更に人皇第13代成務天皇5年9月、このあたりを支配していた上海上の国造の忍立化多比命が、天児屋根命と塞三柱神を合祀し、又人皇第17代履中天皇4年忍立化多比命五世の孫の忍兼命が、大雀命(人皇第16代仁徳天皇)を祀ったといわれるから、風の神を主神として、外に数柱の御祭神が合祀されているわけである。 これら御祭神の御神徳は、姉埼神社への尊崇を高め、元慶元年(877)には神階も正五位上にまで進み、天皇の勅願所ともなった。又『延喜式神名帳』にも、上総国の五社の一つとして載せられ、いわゆる式内社として有名になった。 一、その後、天慶3年(940)には、平将門追討の祈願が寄せられ、神社へ刀劔一振りが奉納された。 ついで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。 更に関東が徳川氏の勢力下にはいるに及んで、慶長2年(1597)には松平参州侯が、慶長6年(1601)には結城秀康が、共に社殿を造営したり、神馬を奉納したりした。なお、元和4年(一1618)11月には、この地の領主松平直政が社領三十五石を寄進し、藍屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。 明治維薪後、木更津県が誕生するに及んで、姉埼神社は県社となり、千葉県となっても引き継がれた。 一、姉埼神社の御祭事は、正月の元旦祭、2月の節分祭、夏季(7月20日)と秋季(10月20日)の例大祭などである。 この外、古来流鏑馬の神事が行われたが、現在は式典だけが行われている。 一、又特殊神事として、「牛ほめ」の神事があったが、今は中絶されており、いつの日かに復活が望まれる。この「牛ほめ」の神事とは、2月11日に行われたお田植え祭りの神事の中で行われたもので、誠に珍らしい行事である。お田植え祭りは、「お宮の種まき」ともいわれ、当日は早朝拝殿にこもを敷き、牛になぞらえた高麗狗を安置し、鍬形と種形に切った餅を作り、10時ごろから祭典を行い、そのあとで「牛ほめ」の神事があった。 この「牛ほめ」のことばには、「目を見て候えば、銅の鈴を張りたるが如し」とか、「耳を見て候えば、琵琶の葉をならべたるが如し」とか、口・角・背・尾・爪などを次々とほめたという。牛をほめて、農業の振興や五穀農穣・産業の隆昌などを願ったものと思われる。 一、姉埼神社には、境内に松の木が一本もなく、氏子の家のお正月には門松を立てない。これには、特殊な伝承があって、御祭神の志那斗弁命が、かつて夫の神である志那都彦命に大変待たされたので、「待つ身はつらい」といわれたことから、「待つの音通の「松」を忌むようになったというのである。 なお、姉埼神社は縁結びの神といわれ、かつてその象徴として、神社の大鳥居の前に夫婦杉があった。これは二本の杉が、途中で一本の枝によって連結されていた。これに巧みに紙を結びつけると良縁が得られるといわれた。 以上のように、数々の伝承や神事を持つ姉埼神社は、産土の神として、御神徳益々明らかに輝き、御神威が弥々光りを増し、このたび新装成った御神殿に、氏子を初め、万民こぞって崇敬の誠をささげるものである。 (菱田忠義) 千葉県市原市姉崎 姉埼神社社務所 電話0436(61)5040 松の嫌いな明神さま 姉埼神社は景行天皇40年(110年)11月、日本武尊御東征の時舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗辮命を現在の丘上(太古丘の下は海で岬を形づくっていたと推定される)に祀ったのが創祖といわれる。 当神社の森は古来鬱蒼たる老杉に覆われて、その森厳さと、美しい林相を近郷に誇って来たものであり、氏子農漁民は朝夕この社を仰いで心にやすらぎを得て夫々の生業にいそしみ、又幾年かこの郷土を離れて帰郷した人達は、駅に降り立って心のふるさとである明神の杜に接し、更めて温い故郷の空気に包まれたという感慨を語っている。記録によればこの杉は慶長、寛永慶安年間に苗木が献納され、その数約4,000本とある所から推して、樹令は大体350年〜370年のものが主力であり、この時期に既に成木となっていたもの何本かが御神木を含めて樹令600年〜650年を数えるものと推定される。 明神とは創祀も古く、由緒も正しい神社に対し、中世以降授けられた称号であり、この地区に於て明神といえば当神社を指すものである。尚神佛習合現象のあらわれた11世紀の頃から御祭神に奉られた権現号も又神号の一つである。 当社の境内林に松樹の無い事、又この氏子区域内では正月に松を飾らないことについて、氏子外の方々から奇異の眼を以って見られ又質問される事が屡々ある。 我国には古来言葉に何らかの霊力があるとする言霊(ことだま)の信仰がある。例えば稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神であり、この神は元来五穀と蚕桑を司る神であるが、「いなり」という語から、その場所に固定して成功する「居成り」という信仰に転化し、邸内社として各家の守護神として、又商業の神としてデパートの屋上等に祀られる様になって来たものと思われる。又五星の先負、佛滅、或は数字の四(死)、九(苦)等が慶事の際忌まれる事等我々の日常生活に定着しているものは極めて多い。 姉埼神社の御祭神志那斗辮命は女神であり、夫神は島穴神社の御祭神志那津彦命といわれて居る。その時代狩猟に出立つ夫神を門べで、馬の口輪を執って、その鼻づらを目的地の方に向けて送ったものと思われる。はなむけという語はここから出たのではないかと推察される。大国主命の妃須勢理姫命が旅に出た夫神の帰りを待ち、空閨をかこって歎いた歌に「八千矛の神の命や、我が大国主、汝こそは男にいませば折見る嶋の岬々かき見る磯の岬落ちず若草の妻持たせらめ我はもよ女にしあれば汝除きて男は無し汝除きて夫はなし」 云々という長い歌が古事記に載っているが、この歌の如く当神社の御祭神も又、いつ帰るとも知れぬ夫神を待ちわび、待ちこがれ、「待つは憂きものなり」と歎かれ、「待つ」は「松」に通ずる所から、この郷に於ては古来松を忌むと書かれている。この伝説による風習が遠い祖先から伝承され、この氏子区域内個々の家庭に定着しているもので、約7000坪の境内に一本の松樹を見ない事と合せて、各戸の門口には竹と榊を組み合せた門飾りを立て、来る年毎の新年を祝い、現在に至っているものである。私見として、用材として役立つ松を若木で採取するより、雑木の榊を用いた方が国策にも副うのではないかと考察するので、この様な伝説による特異な民間神事は後世に伝え残して行きたいと思う。冒頭に述べた境内林の杉はここ数年来衰退枯死甚しく、無残な現状であり、この対応策として、植林、境内地の環境整備等今後三ヶ年計画を以て事業実施を行う予定であり、現在その計画を策定中であるが、元の林相に復元する為には少くとも百年単位の長期計画が必要であろう。(宮司海上信久) 社頭掲示板 |
略記 景行天皇40年(110)日本武尊(やまとたけるのみこと)御東征の時、走水(はしりみず)の海(浦賀水道)で嵐に遭い、お妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)の犠牲によって無事上総の地に着かれた。 この宮山台において、お妃を偲び、かつ舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗弁命(しなとべのみこと)を祀ったのが創始と伝えられる。 その後父である景行天皇がこの地を訪れられて日本武尊命の霊を祀られ、さらにこの地を支配していた上海上の国造(かみつうなかみくにのみやっこ)が天児屋根命、塞三柱神(さえのみはしらのかみ)、大雀命(おおさざきのみこと)(16代仁徳天皇)を合祀されたといわれる。 御祭神のご神徳は姉埼神社への尊崇を高め、元慶(がんぎょう)元年(877)5月神階は正五位下勲五等、同年7月正五位上を授けられる。延長5年(927)に纏(まと)められた延喜式神名帳にも上総国五社の一社として記載せられいわゆる式内社として有名になった。 天慶(てんぎょう)3年(940)朱雀(すざく)天皇の勅使から平将門追討の祈願により刀剣一振りが奉納され、現在も神宝として保管されている。治承4年(1180)源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをし、戦勝の祈願をしたことから爾来の秋の例祭には流鏑馬(やぶさめ)の神事が行われるようになった。 慶長2年(1597)、および同6年に社殿を造営し、元和4年(1618)松平直政がこの地に封せられ神領三十五石を寄進した。明治6年(1873)木更津県が誕生するに及んで県社に列せられた。 【特殊神事】 神社では、古来以下の神事・行事が行われていたが、いずれも現在中絶されている。 1)、流鏑馬神事 源頼朝の馬ぞろえに端を発し、10月20日の秋季例祭時に行われていた。 2)、お田植祭 2月11日に行われていた。牛になぞらえた高麗犬(こまいぬ)を安置し「牛褒(ほ)め」の神事をおこなった。「目ヲ見テ候ヘバ、銅(あかがね)ノ鈴ヲ並ベタルガ如ク」などと牛の部位を次々と褒め、五穀豊穣などを願った。 3)、御筒粥(おんつつがゆ) 2月15日に行われていた。葦にて筒を9体作り、それらを米粉を煮た白粥の中に入れ置き、翌明け方にその筒中の粥の分量で年の豊凶を占うとされる。九種とは桑・蚕・麻・麦・小麦・早稲・晩稲・粟・大豆であり、農家ではそれを参考に農作したといわれている。 4)、獅子頭 夏季例大祭の渡御前に、子供たちが獅子頭を持ちその地域を清めて回っていた。「桃食って、コテーランネー」と家々を回ると、獅子の口におひねりを入れたという。昭和30年代まで続き、現在獅子頭は拝殿に3体並んでいる 【松の嫌いな明神様】 明神とは創祀も古く由緒正しい神社に対し平安以降に授けられた称号であり、この地域において明神とは姉埼神社を指す。 姉埼神社の主祭神の志那斗弁命(しなとべのみこと)は女神であり、夫神志那津彦命(しなつひこのみこと)(島穴神社の御祭神)の帰りを待ちわび「待つは憂(う)きものなり」と歎かれ同音の「松」を忌むようになったと伝えられる。 この姉崎(姉前)という地域名もこの伝承が語源ともいわれる。 境内は勿論、氏子地域では、1本の松樹を見ないこと事と合わせ、正月の門飾りには松の代わりに竹と榊(門榊(かどさかき))を用いている。また、新年の挨拶状、家具や服の模様などにも一切松を使用しない氏子もいる。 【境内及び近郊の古墳群】 姉埼神社は、東京湾を望む海抜約50メートルの宮山台にあり、JR姉ヶ崎駅から徒歩15分ほどの距離にある。境内の広さは約6、700坪を有し、杉や楠の高木と相まってその威容を顕現している。 姉崎地区には、4〜6世紀に造られたとされる古墳群がある。境内には、一号(宮山古墳)、二号(白波塚古墳)、三号(浅間神社)の三基の円墳がある。 大型の古墳は前方後円型が多く、境内隣接地には4世紀後期に造られたと想定される全長約90メートルの「釈迦山(しゃかやま)古墳」があり、近郊には全長130メートルの天神山古墳、また鍵穴型の特徴を今に留める現存全長103メートルの二子山古墳をはじめ多くの古墳群を見ることができる。これらの古墳群は、当時上海上の国造(かみつうなかみくにのみやっこ)として勢力を持っていた忍立化多比命(おしたちけたひのみこと)およびその一族の墳墓と考えられている。 公式HP |
姉埼神社 市原郡姉崎町大字姉崎字宮山に在り、境内二千五坪、祭神は志那斗瓣命なり。社殿に云ふ、日本武尊東征の時之を創建したまふと、志那斗瓣命は島穴神社の祭神志那都比古命の妃なり。景行天皇東幸の時日本武尊を合祀せらる、成務天皇5年9月忍立化多比命此の地に降り天児屋根命・塞神三柱命を合祀し、履中天皇4年9月また大雀命を合祀す。元慶元年5月従五位上勲五等の神階を進め正五位下を授け勅して雨を祈らしめらる、是より勅願所と称す。同8年7月正五位上を授けらる、延喜式神名帳に上総国海上郡二座並に島穴神社・姉埼神社と記載せり。天慶3年平将門追討の時勅使祈願を修し剱一口を納む、今尚神殿に蔵せり。治承4年8月源頼朝兵を社前に勅す、是より流鏑馬の神事あり。慶長2年松平参河守(結城秀康)社殿を造営し神馬一匹を寄附す。元和4年松平出羽守直政の此の地に封せられし時神領三十六石を寄附す。明治6年縣社に列せらる、大祭は7月7日、小祭は10月20日なり。境内に末社二十一座あり、社地丘陵に位し全丘老杉森鬱として社殿壮麗なり。此の地の俗神島穴神(或は云ふ「千葉郡舊三山村二宮神社弟神なり)遠遊して久しく待つも帰り給はざりしを恨み松樹を忌むと、待松国訓相同じきが故なり、今に至る迄境内越えて松樹を見ず。明治39年12月幣饌料供進指定。 社頭掲示板 |
大鳥居建設について 1850余年の歴史と由緒を有つ当社の杉は、古きは七百余年、多くは三百五十年前後の樹齢を重ね、その数四百を算え、明神の森と称えられてその荘厳な林相を保ち、氏子の心のふるさととして長い歳月の風雪に堪えて来たものでありますが、この数年来これら老杉が、急激に衰退枯死の現象を起し、憂慮すべき状態に立至って居ります。 茲に関係者相はかり残存木を選定して、此の所に大鳥居を建設し、以てこれを後生に伝え遺さんとするものであります。 社頭掲示板 |
霊泉御瀧水之碑 景行天皇40年(皇紀770年今より1855年前)11月、日本武尊御東征の時、舟軍の航行安全を祈らむとして、風神志那斗辨命を始めてこの山上に祀る。これ當姉埼神社の創祀なり 當社境内は6666坪あり、全山老杉に覆われ、樹蔭晝なを暗く、炎暑の季また冷氣漂う。この宮山の深奥部より湧き出づる水は、清冽にして古来涸るゝことを知らず。滾々と湧きて流れて今日に至る この水を常に用うる者は正氣五体に漲り能く百歳の長壽を保つと傳えらる 蓋し霊泉と稱ばるゝゆえんなり 社頭石碑 |
由緒 景行天皇40年(110年、今より1885年前)日本武尊が御東征の砌、舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗弁命をここ宮山台に祀ったのが創祀と伝えられる。 「延喜式神名帳」に上総五社の一つと記され所謂式内社として尊崇を高める。 天慶3年(940年)平将門追討の祈願の勅使より刀剣一振が奉納される。 源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして武運長久を祈願した事から爾来10月20日秋の例祭には流鏑馬の神事が奉仕されていたが現在は行われていない。 境内には松の木が一本もなく、氏子の家では正月に門松を立てない。これは御祭神志那斗弁命が「待つ身はつらい」と云われたことから「待つ」に通ずる「松」を忌むようになった。 社頭掲示板 |
姉埼神社 姉埼は阿禰佐岐と訓べし〇祭神級長津彦命、級長戸邊命、(地名記)〇姉ケ崎村に在す、(同上)今市原郡に属す、例祭月日、 神位 三代実録、元慶元年5月17日丁巳、授上総國從五位上動五等姉前神正五位下、同8年7月15日癸酉、授上総國正五位下勲五等姉前神正五位上、 社領 当代御朱印高三十六石 神社覈録 |
縣社 姉崎神社 祭神 志那斗辮命 天児屋根命 日本武尊 大雀命 塞神三柱命 大日靈尊 高皇産靈尊 神皇産靈尊 豊玉姫命 創立年代竝に由緒特島穴神社に同じ、(同神社の項を参照すべし)亦一傅あり、曰く、「景行天皇40年11月、日本武尊寅夷御征討の時、当岳に登り給ひしに、山景秀絶、海面清皓、白浪を遠見し給ひ、是れ景趣佳好の美岳なりとて、風神志那斗弁命を祭祀し給ふ」と、景行天皇53年9月、天皇親しく東國を歴覧し給ひ此の地に来りて御登拝の時、皇子日本武尊の勲労を追懐あらせられ、皇子を合祀し宮殿を建立せられしと、陽成天皇元慶元年5月17日丁巳、授上総國從五位上勲五等姉崎神正五位下、と三代實録に見え、次いて同8年更に正五位上に進み給ふ、延喜の制式内の小社に列せられ、当國五座の一に坐ます、先是社傅に云く、元慶元年大旱あり、勅して祈雨を当社に修せられ爾來勅願所たりと、又天慶3年9月、平將門謀逆の際、御劔を納給ひしと、後ち治承4年8月源頼朝捷を祈り鳥居前に於て軍馬を調練す、是より流鏑馬の神事起れり、後陽成天皇慶長2年5月松平三河守当社造営の事あり引馬一頭を奉納す、次いて後水尾天皇元和元年、松平忠政此の地に封せらるゝや、社領三十六石を寄進す、明治6年9月、縣社に列す。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他御供所、額殿等十棟より成り、娩然として竝ひ峙ち宏社を極む、本殿は慶長6年5月松平三河守の再建なり、境内は6682坪(官有地第一種)駅を去る東方十町、石階を登る事数百級、老杉鬱蒼として天に聾ゆ、但、一株の松樹を交へす、國志云、父老相伝ふ、此神は島穴神社に奉祀せる志那都比古命の妃なり、陽神将に北征の途に就かれ給はんとせらるゝや、妃神に謂て曰く、遠からすして帰るべしと、妃神待つこと久して終に帰り給はす、是より松樹を忌む、蓋、松、待間音相通ずるに依りてなり、故に境地松を忌むなりと、又村俗歳首門松を飾らず、又薪とせす、皆神の忌給ふに因ると称す、西北海を望み、筑波を右に、富士を左に、朝靄暮煙。幾幅の画圖を巻舒するが如し。 明治神社誌料 |