大津神社
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   【延喜式神名帳】大津神社 三座 鍬靫 河内国 丹比郡鎮座

   【現社名】大津神社
   【住所】大阪府羽曳野市高鷲8-1-2
       北緯34度34分10秒,東経135度34分57秒
   【祭神】素盞嗚命 奇稻田姫命 天日鷲命 (合祀)大山咋命 菅原道真
       『河内国式内社目録稿本』「津連等百濟氏祖神、進雄命・稻田姫命・天日鷲命」
       『河内国式神私考』大長谷若建天皇・紀小弓宿禰・大伴談連
       『大阪府史蹟名勝天然記念物』百済の辰孫王の後裔がその祖神を祀れる
       渡会氏「神名帳考証」には「塩君、津連祖神」
       「神社覈録」「大津乃命歟」
       『神祇志料』『地理志料』「百濟辰孫王の曾孫午定君の三子味沙辰爾麻呂」

       神名帳に三座とあり、百済の辰孫王の後裔である味沙・辰爾・麻呂か。


   【例祭】10月7日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代不詳
       創建当時の祭神は葛井氏・船氏・津氏の祖神であると考えられいる
       明治5年(1872)村社
       明治40年1月神饌幣帛料供進社

   【関係氏族】津連等百濟氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】津連等百濟氏祖神
   【祭祀】江戸時代は「午頭天王」「大宮」と称していた
   【社殿】本殿中山造桧皮葺
       幣殿・拝殿・平和会館・社務所

   【境内社】平和之社・大宮弁天宮・大宮稻荷社
   【宮寺】宮寺は真言宗大宮山南坊であつたが、明治初年廃佛毀釈により廃寺となつた

広い境内を持つ、街中平地の神社。
古代この地方には、百済貴須王の子孫といわれる「葛井氏、船氏、津氏」の三氏が勢力を張っていた。この三氏のうち津氏一族がこの地を卜して「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥とされている。
中世以降には、大津神社はこの地方九ケ村の氏神とされ、「河内の大宮」と称された。その後、仏教の隆盛に伴い、「本地垂迹説」に基づいて「午頭天王社」と称し、境内に宮寺真言宗大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けた。
南之坊は明治初年廃仏毀釈により廃寺となつた。


由緒

当大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇(885〜930)の御代に編纂された「延喜式」に「大津神社」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていました。
応神天皇(4〜5世紀はじめ)の御代に、文字をはじめ各種の大陸文化が朝鮮半島を経由して我国に伝来した際、当河内地方は難波の港と大和を結ぶ要路であったことから渡来人が土着し、荒地を開拓し産業を興して、遂に河内文化の繁栄を見るに至りました。
当時この地方には、百済貴須王の子孫といわれる「葛井(ふじい)氏、船氏、津氏」の三氏が勢力を張っていました。この三氏のうち津氏一族がこの地を卜して「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥だろうと云うのが古来からの定説で在ります。このように大津神社は津氏一族の守護神として創祀されましたが津氏一族が朝廷に召されれて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には、大津神社はこの地方九ケ村の人々の「氏神」として受け継がれ、「河内の大宮」と称えられました。その後、仏教の隆盛に伴い、「本地垂迹説」に基づいて「午頭天王社」と称し、境内に宮寺真言宗大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けました。広く世の人々からは、「北宮の午頭さん」と称えられ、親しまれました。
明治維新になると、新しい神社制度が定められ、神仏混淆が厳しく禁じられたため、高鷲、埴生両村の氏神として明治5年5月村社に列格され、「神道大津神社」となりました。第二次大戦後は、占領政策の神道指令によって国家の支配を脱し、昭和21年6月2日、宗教法人令に基づき神社本庁所属の「宗教法人大津神社」として発足、今日に至っております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大津神社

鎮座地 大阪府羽曳野市高鷲8丁目1番2号
(近鉄南大阪線高鷲駅南100m)
御由緒
当大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇(883〜930)の御代に編纂された『延喜式』に「大津神社」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていました。
応神天皇(4〜5世紀はじめ)の御代に、文字をはじめ各種の大陸文化が朝鮮半島を経由して我国に伝来した際、当河内地方は難波の港と大和を結ぶ要路であったことから渡来人が土着し、荒地を開拓し産業を興して、遂に河内文化の繁栄を見るに至りました。
当時、この地方には、百済貴須王の子孫といわれる「葛井氏・船氏・津氏」の三氏が勢力を張っていました。
この三氏のうち津氏一族がこの地をトして「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥だろうと云うのが古来からの定説であります。
このように、大津神社は津氏一族の守護神として創祀されましたが、津氏一族が朝廷に召されて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には、大津神社はこの地方九ケ村の人々の「氏神」として受け継がれ、「河内の大宮」と称えられました。
その後、仏教の隆盛に伴い、『本地垂迹説』に基づいて「午頭天王社」と称し、境内に宮寺真言宗大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けました。広く世の人々からは、「北宮の午頭さん」と称えられ、親しまれました。
明治維新になると、新しい神社制度が定められ、神仏混淆が厳しく禁じられたため、高鷲・埴生両村の氏神として明治5年5月村社に列格され、「神道大津神社」となりました。
第二次大戦後は、占領政策の神道指令によって国家の支配を脱し、昭和21年6月2日、宗教法人令に基づき神社本庁所属の「宗教法人大津神社」として発足、今日に至っております。
御祭神
素盞鳴命
奇稲田姫命
天日鷲命
配祀
大山咋命
菅原道真朝臣
祭日
一、大祭日
夏越祭  7月8日
本殿前に設けられた「茅の輪」をくぐりながら、無病息災を祈願します。旧暦6月の祓。
秋の祭 10月8日
例大祭。稔りの秋を迎え、報恩感謝を捧げます。
冬の祭 12月8日
新穀の感謝を捧げます。
平和の祭 4月8日
今日の平和があることを英霊に感謝し、未来の平和を祈念します。
その他
歳旦祭・節分祭・七五三詣り等暦日の諸祭典を始め、末社の初午祭・弁天祭等を行います。
御神徳
「神代の昔、高天原で、素盞鳴命は天照大神の弟神として最も貴い神として現れた。しかし、あまりにも猛々しい性格のために姉君天照大神の勘気をこうむり、ついに高天原から地上に追放された。そこで命は己れの犯した罪を深く反省し、困難に耐えて出雲の国にたどり着き、勇猛心を善用して八岐の大蛇を退治した」という神話は、実に我が日本民族の理想を示しています。
素蓋鳴命が自ら苦難の道を歩み幸福の地を開拓されたという御神徳を仰ぎ、古来より、縁結び・夫婦和合・疫病災難の鎮圧・農耕殖産の守護など開運の神として一般大衆より深く信仰されて来ました。
また、簸川のほとりで、八岐の大蛇を退治して危急を救った奇稲田姫と契りを結ばれ、須賀の地に新居を構えて詠まれた歌
『八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を』
これは、我が国和歌の発祥といわれています。
末社
一、平和之社
昭和26年平和條約締結を記念して、祖国のため人柱となり、国難に殉じられた、氏子出身の戦没将士英霊278柱を奉斎境内末社として平和之社を創祀す。
昭和51年創祀25周年を迎え、氏子各位の浄財寄進により本殿並拝殿を新築竣工、4月7日英霊310柱遷座祭執行。
二、大宮弁天宮
古来宮池の中に北宮の弁天さんと、仰がれ世の婦人たちから親しまれ崇敬されたと伝えられる。終戦後復興したが社殿の朽ちたるを歎き敬神婦人会が浄財を寄進、昭和46年10月社殿を造営現在地に再建す。
三、大宮稲荷社
昭和47年3月境内の西北に清地をトし、社殿を造営して伏見稲荷を勧請し鎮座
大宮稲荷講社支部14人員242名にて奉斎す
四、境外末社埴生野神社
明治の末より当神社に合祀せられていたが、昭和27年12月認証を得て元の鎮座地埴生野宮林へ境外末社として再建さる。
特殊神事
一、茅の輪くぐり
神代の昔、素盞鳴命が、高天原を追放されて出雲の国にたどり着かれる途上で、御世話になった人へ『茅の輪を作り、これを掲げおけば悪疫を免る』と、教えられたという伝説が、後世、「茅の輪くぐりの神事」として伝わりました。
当神社では、毎年7月8日の夏越祭にこの神事を行って、無病息災・延命長寿の加護を御祈りしています。
二、星祭
古来、奇稲田姫命は、歳徳恵方神と称えられ、この神の遊行される所を、吉方棚・明きの方・恵方といって、方角の良いしるしとされている。
「厄年だ、星廻りが悪い」等と思い悩む人々のために、この神の御威徳によって、悪鬼神を退散させ方角の崇りから身を御守護していただきます。新しい年が、楽しい夢多き年となるように、毎年節分の夜、星祭を厳修して護符を授けています。
参考古記録
一、延喜式(巻九)約950年前
大津神社 二座(鍬・靱)
註三座とは御祭神が三柱のこと鍬・靱とは、鍬一口。靱一口の官幣に預ったこと
二、本殿御造営の棟札約320余年前三代在将軍家光の頃
寛永17年庚申7月17日上棟
北宮邑をはじめ九ケ邑の氏子総代名を列記す
三、河内志 約250年前享保20年出版
大津神社三座(鍬・靱)
(丹南郡)丹下ノ宮邑二在リ今大官ト称ス
四、河内名所図絵 約150年前」享和元年出版
大津神社(鍬・靱〕
延喜式に出づ 丹下の宮邑にあり今大宮と称す
五、大阪府誌 約80年前明治35年出版
大津神社高鷲村大字北宮に在り、邑の中央に鎮座せる式内の神社にて大宮と称し、素盞鳴尊奇稲田姫命天日鷲命の三柱を祀れり。明治5年村社に列せられ邑の産土神たり。
神社有財産
一、土地境内地約2000坪
二、諸建物
本殿 中山造銅板葺12坪8合
幣殿 平屋建銅板葺12坪5合
拝殿 瓦葺12坪
平和之社 本殿拝殿銅板葺8坪
手水舎 瓦葺3坪
平和会館 平屋建瓦葺36坪
〔元宮寺 真言宗山南之坊を社務所として使用後改装す)
社務所兼住宅 平屋建瓦葺50坪
うぶすな児童館 平屋瓦葺18坪
氏子区域
羽曳野市 西部地域で、元高鷲村、埴生村両村の36町会の地域が氏地となっている。
五大宮戎社
古来、福徳、招福の神、生業の守護神、商売繁昌の神と崇められる戎大神を境内にお祀りしたいとの気運が高まり、昭和61年1月より氏子諸々の誠の心が結集、浄財が集まり境内の南西に清地をトし、杜殿を造営、今宮戎神杜より戎人神を勧請し、12月19日御鎮座奉祝祭を帆行。
祭日が8日である大津神社の戊さんだから「八日戎」とし、1月7日を宵戎8日を本戎祭9日を残戎とする。

社頭掲示板



大津神社

高鷲駅から南に3分程歩いた所に位置し、別名丹下(たんげ)の大社として親しまれています。この神社は、大・小の官社(式内社)と祭神を記した平安時代前期の『延喜式(えんぎしき)』に記載され、天皇から進物を受けていた由緒(ゆいしょ)ある神社です。
 古代には「古市大溝」という人工水路が近くに流れていたことから、当初はこの地を本拠地として貢物(みつぎもの)の輸送にかかわっていた渡来系氏族の船氏(ふなし)・葛井氏(ふじいし)・津氏(つし)のうち、津氏の祖先神を 祀(まつ)った社(やしろ)であったと考えられています。江戸時代には、丹下9ヵ村の氏神(うじがみ)として人々に崇拝(すうはい)されていました。
 現在の祭神は、素戔鳴命(すさのおのみこと)・奇稻田姫命(くしなだひめのみこと)の夫婦神と天日鷲命(あめにひわしのみこ)、大山咋命(おおやまぐいのみこと)、菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)で、社殿は寛永(かんえい)17年(1640)に立てられた本殿、拝殿、幣殿(へいでん)からなり、茅の輪くぐり(無病息災(むびょうそくさい))の夏越祭は7月8日、秋祭りは10月8日に行われます。

羽曳野市HP



大津神社

歴史街道 大津神社
大津神社は、大・小の官社(式内社)と祭神を記した平安時代前期の「延喜式(927)」に記載され、天皇から進物を受けていた由緒ある神社です。
創建年代は詳らかではありませんが、古代には「古市大溝」という人工水路が近くを流れていたことから、当初は、この地を本拠地として西国から貢物輸送に関わっていた渡来系氏族の津氏が祖先神を祭った社であったと見られています。
江戸時代には、丹下九カ村の氏神として人々に崇拝され、現在は素盞嗚命と奇稻田姫命の夫婦神、天日鷲命、大山咋命、菅原道真公が祭られています。
社殿は、寛永17年に建てられた本殿、拝殿、幣殿からなり、茅の輪くぐり(無病息災)の夏越祭は7月8日、秋祭りは10月8日に行われます。
羽曳野市

社頭掲示板



大津神社

御祭神 素盞嗚命、奇稻田姫命、天日鷲命
合殿 大山咋命 菅原道真公
由緒
 当神社は延喜式内社として由緒ある古社で河内誌に「丹下郷宮邑に在り今大宮と称す。」とあり、近郊九ケ村の氏神として崇敬され今日に至った。
 元来この地方に応神天皇の御代来朝せる百済系貴族の文化人が開拓せし地にて船、葛井、津氏の一族が広く居住し河内文化の向上、繁栄に寄与され古記録にある故おそらく津氏一族の氏神としてこの地を創建されたのが当大津神社の起源であろうと言うのが古くより一致した説である。
 本殿は桧皮葺中山造り
 寛永17年(約3百年前) 御造営
祭日 夏越祭 7月8日、例大祭10月8日

社頭掲示板



大津神社三座 鍬靱

大津は於保都と訓べし○祭神大津乃命歟○丹南郡丹下ノ宮村に在す、今大宮と称す、(河内志、同名所図会)〇日本紀、天武天皇巻云、自大津丹比両道、軍衆多至、○当國河内郡にも同社あり
連胤按るに、播磨國多可郡大津乃命神社、加都良命神社あり、当國若江郡加津良神社あり、是を見れば大津加津良の神は、由縁ありて当國播磨國ともに相離れず坐すにやあらむ、猶考ふべし、
類社
飛騨國荒城郡大津神社、播磨國多可郡大津乃命神社、

神社覈録



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