阿麻美許曽神社
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   【延喜式神名帳】阿麻美許曽神社 鍬靫 河内国 丹比郡鎮座

   【現社名】阿麻美許曽神社

   【住所】大阪府大阪市東住吉区矢田7-6-18
       北緯34度35分44秒,東経135度31分46秒
   【祭神】素盞嗚命 (配祀)天児屋根命 事代主命 稻荷大神 天照皇大神 大物主命
       明治12年『神社明細帳』素盞鳴命
       昭和27年『神社明細書』右殿春日大神 左殿事代主命
       『河内国式内社目録稿本』「所祭未詳、天彦根命、少彦名命、天児屋命」
       『河内国式神私考』彦己蘇根命

       当社本来の祭神は不詳である

   【例祭】 10月16日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創建年代など一切不詳
       大同年中(806−809)の創建という
       神階従三位という
       大治2年(1127)2月15日奈良春日神社より春日神を勧請
       明治5年(1872)郷社
       同40年1月幣饌料供進社

   【関係氏族】依羅連
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「天王」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・絵馬舎・祓所・社務所・神器庫・井戸屋形

   【境内社】春日神社(右殿)・恵比須神社(左殿)・琴平神社・稻荷神社・天照皇大神社
   【宮寺】明治初年まで天見山の山号を持つ神宮寺があった。今でも同寺山門は境内出入口となっている。

大和川南岸に鎮座している。遠くからでも社叢が盛り上がって見える。
大同年間(806〜809)に創建されたといわれ、「阿麻岐志の宮」とも「七郷の宮」とも称せられている。
この地は依羅連一族の居住地と想定され、この社を創祀したと考えられている。
境内には樹齢500年以上とされるクスノキ12本、モチノキ2本、ムクノキ2本があり、昭和43年に大阪市の保存樹林に指定されている。 手洗舎の東側に「行基菩薩安住之地」の石碑が建っている。



由緒

当神社は大和川にかかる下高野橋の南、天美丘に鎮座する。大同年間(806−809)に創建せらでた古社で延喜式内社の郷社でもある。御祭神は素盞鳴命、右殿に天児屋根命、左殿に事代主命が祀られ、俗に「阿麻岐志の宮」と呼ばれ、又矢田地区、天美地区に氏子地のあるところから「七郷の宮」とも称せられている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




阿麻美許曽神社略記(旧郷社)

大阪市東住吉区矢田7丁目6番18号
    副神 天児屋根命(春日さん)
御祭神 主神 素盞鳴命
    副神 事代主命(戎さん)
末社 稲荷社・皇大神宮・琴平社
当神社は大和川にかかる下高野橋の南、天美丘に鎮座する。(大阪市域で昔は河内国中河内郡矢田村に属する神社てある。)大同年間(806〜809)に創建せられた古社て延喜式内社の郷社でもある。御祭神は素盞鳴命、右殿に天児屋根命、左殿に事代主命が杞られ、俗に「阿麻岐志の宮」と呼ばれ、又矢田地区、天美地区に氏子地のあるところから「七郷の宮」とも称せられている。
拝殿は文久3年(1863)に建てられ、御本殿は独特の阿麻美造りにて昭和35年に再建、社務所・参集殿は昭和55年に造営された。神域三千坪、昭和43年に大阪市条例によって保存樹林に指定され樹令五百年の楠の古木が林立し緑深き森を形ち造っている。
7月17日の夏祭、10月17日の秋祭で七郷の氏子は勿論の事、遠近の崇敬者も多く終日賑わう。又1月8日の戎祭(八日戎)には数百個の提灯が奉納せられ、明々と境内地を照らし荘麗てある。
境内地の一隅には、「行基菩薩安住之地」の碑の他、石造りの狛犬、石灯籠の古いものが見られる。

社頭掲示板



阿麻美許曽神社

開運松原六社参りのひとつ。素盞鳴尊・天児屋根命・事代主命を祭神とする。古くは阿麻岐志の宮ともいい、天美の地名の由来となった古社である。創建は平安時代初頭の大同年間(806〜809)と伝えられる。10世紀前半に、当時、祈年祭にあたって国家から幣帛をうけることができた由緒深い延喜式内社にも定められた。
境内には、明治初年まで天見山の山号を持つ神宮寺があった。南および東に建つ門は同寺の山門である。拝殿前の一対の狛犬の台座に「天見山」「阿闍梨快道之代」「文化四年九月」の銘があり、社僧が文化4年(1807)に建立したことがわかる。
手水舎の東側には「行基菩薩安住之地」の石碑が建っている。江戸時代には、同地に奈良時代の高僧である行基が居住していたという伝承があった。神社北西の大和川に架かる橋を行基大橋と呼ぶのはこのためである。
拝殿前には、注連縄石が建っており、若宮春隆宮司が日露戦争後の明治40年(1907)に、天美や現大阪市東住吉区矢田より出征した氏子の人々を顕彰し、名も刻んでいる。 東門の「郷社阿麻美許曽神社」の社号標石〔昭和10年)の揮毫は、春日大社(奈良市)の江見清風宮司によるが、これは、明治時代前半に若宮氏が春日大社禰宜職から出仕したためである。

社頭掲示板



阿麻美許曽神社

神社は矢田村の氏神であるので、大和川の付替後にも、松原市に属さず松原市天美西3丁目と天美北7丁目の間にある370mの道路(旧府道26号線)は、象の鼻のように細長く、現在も東住吉区矢田7丁目とされています。 矢田村氏神の参道として残されているのでしょう。 旧狭山西除天道川はこの参道の東側をジグザグに北上していたと思われますが、大和川の開削後は干拓されて、元の川は西除川として、浅香山の方向に付け替えられています。
現在の祭神は素戔鳴尊、天児屋根命、事代主命と一般に知名度の高い神様が並んでいますが、金剛寺本では1座とあり、主祭神名は不明です。 
式内社調査報告書(河内国編)、381頁によれば、「神名帳考證」を引用して、主祭神を「中臣の祖、大小橋命の子で阿摩比古命(アマノヒコノミコト)であろう」と推定しています。
須牟地寺や中臣須牟地神社が中臣氏に縁が深いことからもわかるように、この辺りが中臣家の支配地であったこと、および神社名の許曽は尊称を意味することから、「アマノヒコを祭神とする説」は説得力があります。
一方「河内国式神私考」によれば、舊事記に見える「彦己蘓根命(ヒコミソネノミコト)」とする説があり、「河内国造の祖で、丹比の天見丘に葬る」(春原政包日記)とあります。
この説の理由には、「物部氏が滅びた後に中臣氏がこの地を占拠し、祭神を阿摩比古命に入替えた可能性がある」ということにあるようです。 先代舊事本紀巻第十国造本紀には「神武朝期に河内国造に彦己曽保理命が任命された」と見えるので、この神社を物部系の神社に分類する人があり、そこで上記のような仮説が考えついたのではないかと考えられます。
拝殿は文久三年(1863)建造のもので、本殿は独特の阿麻美造で昭和35年に再建されました。 樹齢500年の楠木の群は大阪市条例で保存樹林に指定されています。

大阪市HP



郷社 阿麻美許曾神社

祭神 素盞鳴命
祭神一説阿摩毘命なりといふ(神名帳考証)、一説中央牛頭天王、東春日、西は蛭子(河内名所図会)、猶栗田博士は当社の祭神に社て説をなして曰く、「按するに今琉球北界に大島あり、古の阿麻彌島なり、中山傳信録、琉球国史略、中山宗円、及南島志、魔藩名勝考引、中山傅説並に云ふ、上古神人あり阿麻美久の神又阿摩彌久筑之神といふ、始めて阿摩美嶽に降る、之を天孫氏といへり、三男二女を生む、一を天神とし一を海神とす、此に拠るに阿麻美久神、或は我が天神伊弊諾神の御子、綿積神にして、所謂二女は豊玉姫、玉依姫か、琉球人名宇今猶豊玉の語を用いるもの多きも、海神豊玉彦の名に由縁あり、然らば彦火々出見尊の幸し給へる海神の宮、疑ふらくは彼地方にあらんか、阿麻美許曾神社恐らくは阿麻美神を祀るに似たり、然れども未だ明証を得す姑く附して後考に備ふ、」と論旨当を得たるが如しと雖も、猶考察の余地あり、創祀年代今詳ならず、醍醐天皇延喜の制式内の小社に列り、祈年祭鍬靭各一口を加へ奉る、丹比郡十一座の一なり(延喜式)其後の沿革漠としも知るべからす、近隣七ヶ村の本居神なり(河内名所図会)明治6年郷社に列す、境内1725坪(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿其他絵馬舎、祓所、社務所、納屋、門等の建物を備ふ。

明治神社誌料



阿麻美許曾神社 鍬靫

阿麻美許曾は假字也○祭神詳ならず〇丹北郡南枯木村南天見丘(一名阿麻岐志)に在す、今天王と称す、(河内志、同名所図会)、

神社覈録



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