平地。街中。叢林はよくめだつ。 この地付近は反正天皇の多治比柴垣宮の伝承地である。 反正天皇の御名代の制による丹比部として設置された地域を統括した丹比連の祖神を祀ったのが創建で、その後宣化天皇の流れをくむ丹比公(真人)の支配地に変わったので、その一族の祖神をも加えられたと思われる。 延喜式内社であるが、都は平安京へ移ってからは地域は衰退していった。また南北朝の争乱や戦国期の畠山抗争のあおりで喪失、衰微していった。 明治40年11月23日式内社村社櫟本神社を合祀した。 |
由緒 当丹比神社に鎮まります火明命は瓊瓊杵尊の御子でありまして、丹治比氏の祖神であります。丹治比氏は奈良時代に火明命の御神徳を承けて大変繁栄し、皇室に忠勤を働きましたので、仁明文徳清和天皇の時代に何度も位を授けられ神宝幣帛を捧げられたのであります。火明命は御母神木花開耶姫からお生れになった時、仰せられたお言葉に「吾れ天神の子なり其の名を火明命という、火の難に当えども少しも損なう所なし、復倫に超れた気(いきおい)あることを明さむと欲う」と、これは火明命が火の神様であり生々躍動の神であるぞと言らせられた神語であり偉大なる御神徳を顕わされた神意であります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
多遅比瑞歯別命の産湯の井戸 仁徳天皇と磐の媛の間にお産まれになった皇子で若松宮と称し、この井戸の水で産湯を使わしめられたと云う事が今の世まで語り伝えられている。この人は後の18代反正天皇のことである。 昭和63年8月吉日 社頭掲示板 |
丹比神社 ご祭神は、火明命、瑞歯別命。合祀により菅原道真公、大山祇命、伊邪那岐命、伊邪那美命、凡河内倭女姫命。 ご由緒 丹比神社に鎮まります火明命は瓊瓊杵尊の御子でありまして、丹治比氏の祖神であります。丹治比氏は今から千三百年前(奈良時代)に火明命のご神徳をうけて大変繁栄し、皇室に忠勤を働きましたので千二百年前(仁明文徳清和天皇)の時代に何度も位を授けられ神宝幣帛を捧げられたのであります。 火明命は御母神木花開耶姫からお生まれになった時仰せられたお言葉に「吾れ天神の子なり 其の名を火明命といふ 火の難に當へども少しも損ふ所なし 復倫に超れた気あることを明さむと欲ふ」と、これは火明命が火の神様であり生々躍動の神であるぞと言られた神語であり偉大なるご神徳を顕はされた神意であります。 氏子地区 (堺市) 多治井・多治井西・東多治井・真福寺・真福寺ニュータウン・丹上 (羽曳野市) 野・河原城・郡戸 ご神木 ご本殿裏には樹齢千年をこえるご神木(楠)があります。 又、境内北側入口には、二本の楠が寄り添い立っており、上のほうで結ばれているように見える為、縁結びの木として親しまれています。 反正天皇産湯の井戸 第一八代反正天皇(多遅比瑞歯別命)がご誕生の際、産湯をお使いになられたという井戸があります。 多遅比瑞歯別命は、その名の示すとおり歯並びのたいそうきれいな天皇で、瑞井という井戸で多遅(タチ=いたどり)の花がたくさん咲いていたところから、多遅比という別名ができ呼ばれました。現在では字が読みやすく改まり多治井となりました。 その時代では丹比神社も多遅比神社(タチヒノジンジャ)と呼ばれていました。 五輪塔 本殿北側には、五輪塔があります。 本塔は、仁徳天皇がお亡くなりになったことを悲しんで、反正天皇が建立したと言われています。 その為、仁徳天皇陵のある西側を向いています。 その昔、この石を持ち帰り漬物石に使用したことがあり、その際に夜になると石が泣いたそうです。 その出来事で、もとの神社に返しました。 それ以来この石は、夜泣き石と呼ばれるようになりました。 現在では、夜泣きのひどい赤ちゃんがお参りすると、夜泣きが良くなるという言い伝えがあります。 公式HP |
丹比神社 丹比は郡名に同じ○祭神多治真人祖神歟、(総国風土記火明命といふ、今從はず、)○丹南郡丹治井村に在す、今天神と称す、(河内志、同名所図会)、例祭八月廿日、○日本紀、仁徳天皇14年、是歳作大道置於京中、自南門直指之至丹比邑、」同紀、反正天皇巻云、天皇初生于淡路宮、生而歯如一骨、容姿美麗、於是有井、曰瑞井、則汲之洗太子、時多遅花落在于井中、因為太子名也、多遅花者今虎杖花也、故称謂多遅比瑞歯別天皇、元年10月都於河内丹比、是謂柴離宮、』古事記、(履仲段)令幸於倭、故到于多遅比野、」日本紀、宣化天皇巻云、上殖葉皇子、是丹比公、偉那公、凡二姓之先也、』古事記、(宣化段)恵波王者韋那君多治比君之祖也』旧事紀、(帝皇本紀)上殖葉皇子、丹比椎田君祖、〇姓氏録、(右京皇別)多治比真人、宣化天皇皇子賀美恵波王之後也、 連胤按るに、当社はかならず多治氏の社なるべし、然れども皇別神別の二流あり、既て総國風土記には、神別の祖として火明命といふ、然るに神別の方は、伊豫國にのみ見えて、周敷連となりし後所見なく、皇別の方は、苗裔に高位高官ありて、貞観の度官幣の時、丹遅真人を氏人として遣されしをおもへば、当社は皇別の氏祖なる事分明になりぬ、故に神別は、氏人のみ挙げて實は探らざる也、猶考ふべし、 神位 続日本後紀、承和14年12月癸卯、奉授河内國丹比郡无位丹比神從五位下、』文徳実録、嘉祥3年10月辛亥、進河内國丹比神従五位上、」三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授河内國從五位上丹比神正五位下、 官幣 神宝 三代実録、貞観元年7月14日丁卯、遣使諸社、奉神宝幣帛、散位從五位下丹遅眞人縄主為丹遅社使、 氏人 日本紀、天武天皇6年10月庚寅朔癸卯、内大錦下丹比公麻呂爲摂津職大夫、同13年10月己卯朔、丹比公賜姓曰真人、」同、持統天皇4年7月丙子朔、以正廣参授丹比真人為右大臣、(続日本紀巳下、多治比真人の氏人多人数見えたり、今更に挙げず、)」三代実録、貞観8年2月21日丁卯、左中辮正五位下丹遅眞人貞峯等賜姓多治真人、先是、貞峯等上表曰、宣化天皇皇子、加美恵波皇子生十市王、十市王生多治比古王、此王生産之夕、忽多治比花、飛浮湯沐釜、以斯冥感、名多治比古王、成長之後、固執謙退、奏請求姓、因賜姓多治比公、便以名為姓、存其旧意、飛鳥淨御原天皇13年11月1日、定八姓13氏、是時、多治比古男、左大臣正二位志摩公賜姓真人、志麻真人、是貞峯之高祖父也、天平6年、遣唐使正三位行中納言兼皇太子伝式部卿多治比真人廣成入唐之日、改作丹遅、復命之後、猶用旧姓、伝來百年、無心変改、天長9年4月25日、木工頭從五位上多治比真人貞成等、奏請改多治比三字、為丹遅両字、当于斯時、直峯等身非氏長、不預私譲、心懐不穏、豈偏賞入唐之新文、訛所生之旧字乎、伏願、以古多治字、換今丹遅姓、但縁煩文、請省此字、雖除一字、称謂不変、然則存先祖之感生、胎孫謀於不朽、拝表以開、詔許之、(今按、巳上皇別也) 神社覈録 |