辛国神社
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   【延喜式神名帳】辛国神社 河内国 志紀郡鎮座
   【延喜式神名帳】長野神社 鍬 河内国 志紀郡鎮座
  長野神社

   【現社名】辛国神社
   【住所】大阪府藤井寺市藤井寺1-19-14
       北緯34度34分9秒,東経135度35分37秒
   【祭神】饒速日命 天児屋根命 (配祀)品陀別命 市杵島姫命
       (合祀)素盞嗚命(長野神社祭神)
       『大阪府神社名鑑』饒速日命・天児屋根命、素盞鳴命
       『特選神名牒』伊香々色雄命・天児屋根命
       『神社覈録』「祭神韓国連祖神歟」
       『神祇宝典』「新羅国神也」
       『大日本地名辞典』長野連祖神
       『河内国式神私考』気長帯日霊尊

       この神社の祭神は、社名のとおり韓国の祖神を祀るものと思われる。


   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創建年月日は不詳
       雄略天皇の時長野邑を授りし物部氏の其祖を祀る
       貞観9年(867)2月26日官社
       明治5年(1872)村社
       明治41年2月10日長野神社を合祀
       明治41年12月神饌幣帛料供進社

   【関係氏族】辛国氏
   【鎮座地】境内右奥に老松の茂つた小高い処があり
        神社はもとこの丘の上にあったと思われる

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「春日社」と称していた
   【公式HP】 辛国神社
   【社殿】本殿春日造
       幣殿・拝殿・井戸舎

   【境内社】市杵島姫神社・八幡神社・稻荷神社

藤井寺駅南、藤井寺西小学校の北の住宅地の中に広い社地を有している。
「辛国」の表示は韓神の祭祀された社であると思われる。
境内右奥に老松の茂つた小高い処があり、これを春日山と呼んでいるので、神社はもとこの丘の上にあったと思われる。
拝殿の右に、「辛国池旧址」の石碑が立つていて、後に半ば涸れた小池がある。明治初期には周囲400mほどの池であった。この池は春日神社の神の使いである神鹿が水を飲むためのものと言われている。
室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神・天児屋根命を合祀したと伝えられている。
明治41年式内村社長野神社を合祀した。
二ノ鳥居はもと長野神社にあつたもので「元禄十七年、牛頭天王」の銘が彫られている。
地元の伝承によれば、旧藤井寺球場(現四天王寺学院小学校)の北にある恵美坂団地の一角の小字・“神殿”(コウドノ)が旧地であったという(日本の神々3所載・辛国神社2000)。今、神殿との小字名はなくなっているが、当社の北西約500mの恵美坂1丁目辺り(近鉄線の北側)かと思われる。


由緒

当社は今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創建された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社である。
日本書紀には「雄略13年春3月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあるが、餌香長野邑は旧藤井寺町のあたりと思われる。この地方を治めることになった物部氏はこの祖神を祀って神社をつくり、その後、辛国氏が祭祀をつとめ辛国神社と称するようになった。
三代実録には、清和天皇「貞観9年2月26日河内国志紀郡辛國神社を官社に預かる」とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられている。明治41年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




辛国神社

辛国神社縁起
からくにじんじゃ
御祭神
主神 饒速日命
   天児屋根命
   素盞鳴命
相殿 品陀別命
   市杵島姫命
末社 春日稲荷神社(宇迦之御魂大神)
御鎮座地 大阪府藤井寺市藤井寺1丁目19番14号
御由緒
当社は今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。
日本書記には「雄略13年春3月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われる。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、辛国氏が祭祀をつとめ辛国神社と称するようになった。 三代実録には、清和天皇「貞観9年2月26日河内国志紀郡辛国神社を官社に預る」とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられている。
明治41年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っている。
御神徳
●饒速日命=瓊瓊杵命の御兄。物部氏の祖神。
天孫降臨に先き立ち、天祖より天璽の瑞宝十種をさずかり、大和建国の任務をうけて河内国哮ヶ峰に天降りになった。瑞宝は「若し痛む処あらば、この十宝を一二三四五六七八九十と唱え振れ、此くなさば死人も生き反えらん」と教え諭された。
故に古来より病気平癒、厄除、呆け除の守護神として広く信仰されている。
●天児屋根命=藤原氏の祖神。
天照大御神が天岩屋戸に隠れ給うた時、岩戸の前で美声をあげて祝詞を奏上した神で、後天孫降臨に随って日向国に降った五部神の一人。その子孫は代々朝廷の祭祀を司った。
国土安泰、産業(農、工、商)繁栄、家内安全、災難厄除け、出世開運、合格祈願をする者も多い。
●素盞鳴命=天照大神の弟神。
素盞鳴命は気性の激しい直情径行の御性格のため、御姉君天照大神の勘気をこうむり、高天原から地上に追放された。そこで命は己れの犯した罪を深く反省し、困難に耐えて出雲の国にたどり着き、勇猛心を善用して「八岐の大蛇を退治した。」という神話は、実にわが日本民族の理想を示している。素盞鳴命が自ら苦難の道を歩み幸福の地を開拓されたという御神徳を、仰ぎ、古来より縁結び、厄除け開運の守護神としての信仰が篤い。
●品陀別命=応神天皇。
第十五代の天皇。治山治水につとめられ、又学問に極めて御熱心であった。この御代に百済、新羅、中国のいわゆる辛国から文字をはじめ、各種の大陸文化がわが国に伝来した。
母君は神功皇后である。古来より学問の神、安産の神としての信仰が篤い。
●市杵島姫命=素盞鳴命の子。美人のほまれ高く、弁天さまに見たてられている。天孫降臨に際し「よく養育せよ」との御神勅を奉じて天孫瓊瓊杵命を立派に成育せしめられた。その御神徳により子供の守護神と仰がれている。
建築様式
〔形式〕〔規模〕
本殿 三間社流造銅板葺 桁行十四尺九寸六分 梁間十七尺四寸
渡殿 桁行二間 梁間一間 切妻造 銅板葺 桁行九尺九寸五分 梁間十四尺九寸六分
幣殿 桁行二間 梁間三間 両下造 銅板葺 桁行十一尺三寸七分五厘 梁間二十二尺
拝殿 桁行五間 梁間三間 入母屋造千鳥破風付 桁行三十九尺 梁間二十八尺五寸 三間向拝唐破風付 銅板葺
他に、神饌所、祭器庫、手水所及び授与所を拝殿両側に併せ持つ。総坪数 65.46坪
なお、現社殿は昭和の大造営事業として旧社殿跡(旧社殿は文政9年建造)に昭和62年9月御造営なりました。
主な祭典・神事
歳旦祭(1月1日)
年の始めにあたり、神様に真心こめて感謝し、氏子、崇敬者の安泰をお祈りする祭典です。正月の間は一年間の開運厄除の守護矢として古来より伝わる当社の大神様の御神徳を有した「丹塗神矢」を授与いたします。
古神符焼上祭(1月15日)
過去一年間に納められた古神符・古神矢を忌火によって焼上します。また社頭では浄火で焼いた「福餅」入りの「ぜんざい」を厄除けとしてふるまいます。
節分祭(2月上旬の節分の日)
「人形」による厄を除けようと参詣する人々で賑わう当社のこの祭典では、福寿の豆にもあやかれます。
また、男42才、女33才は一生の大厄とされています。
祈年祭(2月17日)
年祈のまつりとも云い、年の始めにあたりその年の豊作を祈願する大切なお祭りです。
春日稲荷祭(3月下旬の午の日)
「イナリ」は稲生の義で、すベての食物を司る神・五穀の神と崇拝されており、春日稲荷社のこの祭礼日には一家の繁栄、商売繁昌をお祈りします。
夏祭(7月17日)
夏越の祓の祭であり、平安の昔病魔退散を願ってはじめられたと伝えられています。
秋祭(10月17日)
当社秋祭は御例祭と云いまして一年に一度行う最も盛大で大切なお祭りです。
七・五・三詣(11月15日)
氏神様へ日ごろのご加護に対してお礼を申し上げ、お子さまがますます立派に成育しますようにとお詣りします。
新嘗祭(11月23日)
その年に最初に実った稲を神様に感謝の気持をこめてお供えする重要なお祭りです。
月次祭
毎月1日、15日。特に毎月1日午前6時30分から氏子、崇敬者の皆様とともに大祓詞を唱える修祓行事を行っています。一人でも多くの方の参加をお待ちしています。
日供祭 毎日早朝にお供え物(「神饌」と言います。)をさしあげ、神恩感謝と祈願をこめます。
初宮詣り氏神さまに、氏子として誕生したことへの感謝とともに、今後の成長を祈って男子は30日目、女子は31日目にお詣りします。 ただ、お詣りの日は気候の厳しさ等もあり、必ずしも日数にこだわることなく、生後30日以後100日位の間で都合のよい時にお詣りなされて結構です。
交通安全祈願・安産祈願・病気平癒祈願・家内安全祈願ほか
毎日午前9時〜午後5時まで。

由緒書



辛国神社

辛國神社からくにじんじゃは、「延喜式えんぎしき」に記載のある式内社しきないしゃです。
カラクニという社名から、渡来系氏族との関連が想定されます。
近世には、旧丹南郡岡村の村社として祀られていました。
当時の絵図にも当社は氏神として描かれており、庶民の信仰の対象であったことがうかがわれます。
境内にある石の鳥居は旧藤井寺村の村社であった長野神社のもので、明治41年に合祀したときに移築されたものです。
現在、毎年10月17日には例祭が行なわれ、多くの人々で賑わいます。

社頭掲示板



辛国神社

当社は今から1500年程前、雄略天皇の御代に創建された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。
日本書記には「雄略13年春3月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とありますが、餌香長野邑は、現在の藤井寺市辺りといわれています。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀ったのが当神社の始まりでその後、物部同族の辛国連が祭祀の中心となり辛國神社と弥するようになりました。
三代実録には、清和天皇「貞観9年2月26日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る」とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われます。室町時代(義満の傾)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられています。
明治41年、長野神社の祭神素盞嗚命を合祀して現在に至っています。

公式HP



志紀辛國神社

志紀は前に同じ、』辛國は加良久爾と訓べし、○祭神韓國連祖神歟○丹南郡岡村辛國池南に、在す、今春日と称す、(河内志、同名所図会)、〇姓氏録、(和泉國神別)韓國連、采女臣同祖、武烈天皇御世、被遣韓国復命之日、賜姓韓国連、また采女臣、神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也、
官社
三代実録、貞観9年2月26日丙申、以河内國志紀郡辛國神、預官社、

神社覈録



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