樟本神社(南木の本)
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   【延喜式神名帳】樟本神社 三座 鍬靫 河内国 志紀郡鎮座

   【現社名】樟本神社
   【住所】大阪府八尾市南木の本 7丁目
       北緯34度36分5秒,東経135度35分21秒
   【祭神】布都大神
       『河内志』「並布都明神」
       『河内各所図会』「布都明神と称して物部守屋の霊を祭る」
       『大阪府神社明細帳』「布都大神」

       延喜式に載る祭神は三座であり、当時の祭神名ははっきりしない。

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】
   【由緒】不詳

   【関係氏族】物部氏
   【鎮座地】最初木本に三座あつたが、分村した時に遷

   【祭祀対象】本来は木霊?
   【祭祀】
   【社殿】本殿権現造
       拝殿

   【境内社】

八尾空港の北の平地住宅地の中に三社が散在する。
最初木本に三座あつたが、分村した北木本が一座を分け、その後さらに分村した南木本がまた一座を分けたのであろう。
この地は物部氏の住地であり、その遠祖神を祀ったとされる。南木ノ本は物部守屋が蘇我馬子らにせめられた時、稲城をつくったと伝えられている。
境内に黄檗宗日羅寺がある。敏達天皇が百済で重く用いられていた日羅を呼び戻し、半島の政情を聞いたところ「兵事より百姓を保護し国力を充実した後に百済を討つべし。」と答申した。同行の百済使臣により暗殺されたと云う。


樟本神社(日羅寺)

この地は、物部氏の住地であり、この社はその祖神を祭ったものである。北木本と木本に同名の二社があ、延喜式神名帳には樟本神社三座と記されている。
守屋が聖徳太子の軍を防ぐためこのあたりに「稲城」を設けたとき、城中に榎木があったので、これを「榎木城」といい、村の名も「榎木村」といったが、のち「木本村」となったと伝える。
境内には黄檗宗日羅寺がある。薬師如来を本尊とする。日羅は百済へ渡り重く用いられた。敏達天皇は任那滅亡後、日羅を呼び戻し、百済の政情をたずねたところ、「兵事よりも、百姓保護に努め、国力を充実して、百済を討つべし」と説いた。このため同行して来朝していた百済使臣のために暗殺された。
厨子は、延宝8年(1680)平野の豪族末吉勘兵衛利長の寄進によるという。
八尾市教育委員会

社頭掲示板



樟本神社

当社は延喜式に記載されている樟本三座の一にして、創建の年代は詳かではないが、用明天皇の御代(約1400年前)物部守屋公が本拠地である稲村城(現光連寺敷地)の守護神として一族の祖神と崇めていた布部大神を奉祀されたものと伝えられる。
 紀記 古伝によると悪疫邪霊を祓い、又、鍬靫を司る農耕・武の神として広く村民の崇敬を受け現在に至っている。

社頭掲示板



日羅寺

敏達天皇勅願寺臨済正宗 高樹山日羅禅寺
ここ日羅寺は、物部守屋が籠もった稲城の跡に建てられました。
名の由来は、「日羅上人」とも「日羅将軍」とも言われる百済生まれの倭人で、大伴金村大連に随伴して百済に渡った火葦北国造阿利斯登の子です。後に百済の都城の治安守護にあたる将軍となり、文武両道に秀で信仰心厚く仏教への造詣の深い人物です。
西暦583年、敏達天皇勅令により、帰国した日羅の為に、この地(阿斗)にわが国最古の寺院の一つとして日羅寺は建立されました。同じく日羅開基寺院は、鹿児島の鳥羽上皇御命名一乗寺(末寺65ケ寺)を始め全国に百数十ケ寺あり、奈良県の橘寺には国の文化財、木造日羅立像にそのお姿を見ることができます。
明治の廃仏毀釈の中、樟本神社分社を境内にお迎えすることで残されました。また、熊本県には「日羅神社」もあり、将軍祭りは今も盛大に営まれ、日羅寺同様、村人の厚い信仰を集めています。
聖徳太子は病に苦しむ善男善女の病平穏を願い、四天王寺に病気治療所、薬草園をお造りになり、自らは薬師如来立像を彫られ、ここ日羅寺本堂に安置されたとの伝承があります。

社頭掲示板



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