平地の街中に鎮座する。 往古このあたりは、朝鮮の高麗からの渡来氏族が各所に蟠居し、繁衍した「大狛」「狛」を姓とする氏族が祖霊として祭祀したのであろう。 近世徳川期には「久宝寺の牛頭天王」と一般に呼ばれていた。 |
由緒 本神社の創立年月は不祥でありますが、藤原忠平が、醍醐天皇より朱雀天皇に至る三十年の間に勅を奉じて撰した「延喜式」(今より約1050年前)の中の神名帳に記されている「式内社」で小社に列せられております。河内国神名帳には、神位を従四位とあり、明治5年、神社制度発布の際、郷社に列せられるとともに、旧渋川郡第一大区第一小区一二番組、即ち、大蓮、金岡、衣褶、柏田、蛇草、横沼、吉松、三の瀬、長堂、太平寺、岸田堂、大池等の各村奉仕神社氏子より、本神社を親宮と称し、毎年米麦両度の初穂を供進されました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
許麻神社 式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一である。この地は古く巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神を祀ったと伝えられる。 境内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残である。 この寺は聖徳太子の建立で、戦国時代に兵火にあって焼失した。その後観音院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音は今念仏寺にある。 神社の西方にむかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった。 八尾市教育委員会 社頭石碑 |
許麻神社 許麻神社の創立は不詳であるが、「延喜式」神名帳には小社に列せられており、今から1100年以前より存在していた由緒ある神社で、江戸時代には「久宝寺の牛頭天王」と呼ばれていた。 許麻は高麗こうらいに通じ、この地は古くは「巨麻荘」または「許麻荘」といい、高麗からの渡来民族が多く住み着いていた。彼らが祖霊として祭祀したのが、後に神社として祀られ、社名に「コマ」が残ったと思われる。 また、かっては、この神社と同じ敷地内に「久宝寺観音院」が宮寺としてあり、この寺の創建は聖徳太子が建立された「久宝寺」に遡るが、戦国時代、松永弾正久秀の兵火に罹り、灰燼と化した。 幸い、聖徳太子自作と伝わる本尊の11面観音は難を逃れ伊賀の国に疎開したが、紆余曲折を経て、現在は同じ久宝寺町にある、念仏寺に安置されている。 久宝寺観音院は寛文7年(1677)再興されたが、明治初年の神仏分離により廃寺となった。 社殿の建立は天正10年(1582)に社殿改建の記録が残っているとのことで、その後幾度となく改建、修復がされたが、近年では昭和44年(1969)不審火で焼失している。 現在の社殿は2年後の昭和46年(1971)に鉄筋構造で再興されている。 久宝寺が寛文7年(1667)に再興された時の「鐘楼」は神社の「手水舎」となって保存されている。 由緒書 |
郷社 許麻神社 祭神 高麗王霊神 年代詳ならずと雖、当地には高麗人の帰化せしものを置かれたる事、日本書紀其他に見ゆれば、此等が其本國の王を祀り創めたるべきは殆んど疑ひなきが如し、醍醐天皇延喜の制小社に列す、澁川郡六座の一なり、後世牛頭天王と称す、供僧坊観音院あり、之れ古の久宝寺といひしものなり、明治6年郷社に定まる、境内778坪(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿、幣殿其他神輿殿、社務所、絵馬舎を備へ、社地櫻樹林をなし、春期は甚も称すべし、社家に古笥あり、蓋に、「許麻の里澤邊に生ふる杜若、君が手毎の水やかざさん」 といふ古歌を題す、今も村の東西北に明星澤の旧跡ありて、昔杜若の名所なりしと。 明治神社誌料 |
許麻神社 許麻は假字也、和名鈔、(郷名部)大縣郡巨麻、若江郡巨麻、○祭神詳ならず○許麻庄久宝寺村に在す、今天王と称す、(河内志、同名所図会)、○当国大縣郡大狛神社もあり 連胤按るに、大縣郡巨麻は大狛神社あり、若江郡巨麻は当社のましますが故の地名なるべし、若江澁川の郡界は今も入交れりとそ、 神社覈録 |