「河内永和」駅の北100mの平地の真ん中に鎮座している。本殿背後の北側に神宮寺とされる長栄寺がある。 当社の創建は、白鳳時代鴨氏が居往しその祖神を祀つたに始まり、社名はそれに由来すると云われている。 中世に至り、この地は石清水八幡宮領となり、当社も八幡宮と称されるに至つた。 大坂夏の陣で兵火にかかり、社殿ことごとく鳥有に帰したと言われている。 |
当社由緒略記 東大阪市高井田1280番地b 延喜式内 鴨高田神社 1.御祭神 速須佐之男命(素盞鳴命) 大鴨積命(大賀茂都美命) 神功皇后(息長足姫命) 応神天皇(品陀別命) 1.例祭日 夏祭 7月17日 秋祭 10月17日 1. 由緒略記 当社はその創建が遠く白鳳2年(673)と伝えられる延喜式内社であり「延喜神名帳」によれば渋川郡六座の筆頭に位置する官幣小社であった。中世にいたり「石清水文書」保元3年(1158)の官宣旨には石清水八幡宮領として河内国高井田の庄の名が見え後「河内誌」には当社について「在高田村今若江郡也 山州八幡神祭料 因称八幡宮」とあり当社が石清水八幡宮領となりこれが八幡宮と称される由縁である。この附近が戦場となった大阪夏の陣元和元年(1615)には当社も兵火にかかり社殿ことごとく烏有に帰したが後、数年を経て再建され「河内名所図絵」には当社北隣長栄寺の鎮守となり今八幡宮と称されるとある。明治元年(1868)神仏分離後明治5年(1872)郷社に列せられ同年2月西高井田八幡社並びに5月13日新喜多山科神社を合祀し明治14年(1881)社殿及び拝殿を新築、明治40年(1907)1月神饌幣帛料供進神社に指定され、更に同年4月高井田北ノ町八幡神社を合祀し現在に至っている。 1. 御祭神 当社の祭神については「神名帳考証」は大鴨積命とし、又「大阪府全誌」「大阪府史跡名勝天然記念物」は速須佐之男命としているが現在は速須佐之男命・大鴨積命・神功皇后・応神天皇の四御柱を祭神とする。その由来は「神祇全書」「旧事記」によれば古代鴨氏の祭神が大鴨積命であるとしている。その鴨氏について「古事記」には、崇神天皇の御代(四世紀初頭)速須佐之男命の後裔太田田禰古命が天皇の勅命を受け荒び猛び給う大三輪神を斎祀り静めし事によりその孫大鴨積命が鴨(賀茂)君の姓を給うとの条が見える如く元来大和葛城を本拠に主に祭祀(祭典)を掌った氏族である。往古その鴨氏の一族がこの地に居住し鴨氏の開祖大鴨積命及び祖先速須佐之男命を祀ったのが当社の始まりであり、社名もそれに由来する。又応神天皇は八幡宮の主神であるが前述の如く、石清水八幡宮との関係によりその母神である神功皇后と供に当社の祭神に加えられたものである。 1. 社記 醍醐天皇延喜18年(918)当地方大洪水にて五穀実らず、諸民当社に祈願をこめて霊験有り百姓大いに喜べりとある。又宝暦(1751〜1763)安永(1772〜1780)の悪疫流行の折、神職久左衛門が1月9日より10日間断食して悪疫祓除の祈願を行い、全村その厄を逃れたと伝えられる。なお拝殿西側にある樟は樹齢約1000年と言われ、今は幹が少し残る程度であるが通称お駒樟と呼ばれ、昔お駒狐が棲息したりしとも、又お駒なる女性がこの木に呪詛の釘を打ち込み願いが叶えられしとも伝えられる。 境内は約1400坪。本殿、拝殿、神饌所、宝庫、手洗所、社務所を有し、末社には水神社、鴨稲荷社、鴨戎社がある。昭和三八年(1963)7月18日未明花火による失火の為本殿檜皮葺き屋根を半焼せしが直ちに銅板にて葺き替え修理された。 由緒書 |
当社由緒略記 東大阪市高井田1280番地 延喜式内社 鴨高田神社 御祭神 速須佐之男命(素盞鳴命) 大鴨積命(大賀茂都美命) 神功皇后(息長足姫命) 応神天皇(品陀別命) 例祭日 夏祭 7月17日 秋祭 10月17日 当社は延喜式内社で延喜神名帳によれば渋川郡六座の筆頭に位置する官幣小社であった。 当社の創建は往古鴨氏が居住してその祖神を祀ったに始まり社名はそれに由来すると言われていて遠く白鳳2年(673)と伝えられる。 中世にいたり石清水文書保元3年(1158)官宣旨には石清水八幡領として河内国高井田の庄の名が見えており、後「河内誌」には当社について「在高井田村今若江郡也山州八幡神祭料因称八幡宮」と記し当社が石清水八幡宮領となり八幡宮と称されたる由縁である。この付近一帯が戦場となった大阪夏の陣元和元年(1615)兵火に罹り社殿ことごとく烏有に帰し後数年を経て再建されている。 「河内名所図会」に当社の隣長栄寺の鎮守となり今八幡と称するとある。 祭神については「神名帳考証」は大鴨積命なりと記し「大阪府全誌」「大阪府史跡名勝天然記念物」には素盞鳴命であるとしている。 明治元年(1868)神仏分離後明治5年(1872)郷社に列せられ明治5年(1872)3月西高井田品陀別命並びに5月13日に新喜多山科治を合祀し命じ14年(1880)社殿及び拝殿を新築し明治40年(1906)1月神饌幣帛料供進社に指定された。更に明治40年4月5日高井田字北ノ町「品陀別命」を合祀し現在に至っている。 又社記によれば後醍醐天皇の延喜18年(916)当地方大洪水にて五穀実らず諸民当社に祈願をこめて霊験あり百姓大いに喜べりとある。又安永年間悪疫流行するや時の神職久左衛門1月9日より10日間断食して悪疫祓除の祈祷を執行し全村その厄をまぬがれたとある。 境内は約1400坪、本殿拝殿神饌所宝庫手洗所社務所を有し末社には水神社鴨稲荷社鴨戎社がある。 なお拝殿西側にある樟は樹齢約一千年と言われるが今は枯死して幹が少し残っている程度である通称「お駒樟」昔お駒狐が棲息したりと又お駒なる女性がこの木に呪詛の釘を打ち込み願が叶えられたによりこの名ありと伝えられる。 昭和38年7月18日未明本殿桧皮葺屋根花火による失火にて半焼せしが銅板にて葺き替え修理した。 昭和59年10月吉日 鴨高田神社 社頭石碑 |
鴨高田神社 平安時代の「延喜式」ののせられた古社で、「大阪府全誌」には、速須佐之男命、社の由緒書には大鴨積命、神功皇后、応神天皇を加えた四神を祭神としています。別名「八幡社」とも呼ばれていましたが、これは保元3年(1158年)銘の「岩清水八幡宮文書」に、「河内国高井田庄」の名がみえることに由来すると考えられています。しかし、大阪夏の陣によって社殿がことごとく消失し、その後数年をかけて再建されたと言われています。当神社には、神事に参加する村人たちによって宮座が構成されており、戦前まで久左衛門講、信座講、灯明講の三つの宮座がありました。 境内には「八幡宮高井田村」と刻む享保13年(1728年)銘の石燈篭一対や「常夜灯八幡宮御宮前」の文字を縁取りで彫る安永3年(1774年)銘の石燈篭、「河州新喜多新田」の名を刻む寛保2年(1742年)銘の石燈篭、寛政9年(1797年)銘の狛犬一対など多数の石像物が残されています。 平成15年3月 東大阪市 社頭掲示板 |
郷社 鴨高田神社 祭神 品陀和氣命 八幡大神 創建年月縁由等詳かならねど、延喜の制小社に列せられ、河内國澁川郡六座の一なり(延喜式)河内志に拠れば、中古此地を山州八幡神の祭料に供せしにより八幡宮とも称すといへり、されど祭神は未だ詳かならす、社記にも不詳と記ぜり、今祭れる品陀和気命は、明治5年3月同村宇西高田に祭りしを合祀し、八幡大神は、嚢に同村村社八幡神社を合併したるものなり、明治6年郷社に列す、境内1369坪(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿及び廊下。神饌所等の建物を備ふ。 明治神社誌料 |
鴨高田神社 鴨は賀茂、」高田は多加太と訓べし、〇祭神詳ならず〇今若江郡高井田村に在す、今八幡と称す、(河内志、同名所図会)、例祭9月15日、 河内志云、中古以此地供山州八幡神祭料、因称八幡宮、 類社 飛神國荒城郡、丹後國加佐郡高田神社、(各一座) 神社覈録 |