工場地帯の一角に鎮座している。 旧大和川はこの付近を流路としており、現在境内に残る菱沢池は当時の川瀬であったという。 新撰姓氏録の左京神別の中村連の氏神を祀ったとされている。 中世の事情はよくわからないが、足利時代の末天文の頃、火災にかかつて社殿ことごとく鳥有に帰した。 その後境内の水辺(現在菱沢池として残る)に榊木が発生した。朝廷にこれを報告したところ大変よろこばれ、神社を再建の上、仲村三十八大明神の社名を賜わつたと伝えている。 近世には菱江村の氏神であつた。と同時に庖瘡の神としても有名であつた。 鳥居から社殿までの参道がまがつているのは、参拝後背を神にむけ退出し、無礼になるのを防ぐためとされている。 |
菱江と仲村神社 東大阪市内には、若江など水辺を表す地名があります。古代に河内平野が大きな入り江となり、その岸辺であることを示す名前なのでしょう。いつ頃からこの付近に人が住みはじめたかは不明ですが、玉串川が二つに分流する間にできた、少し高くなったところに住んだものと思われます。 仲村神社は貞観9年2月に官社になっており、若江郡の二十二座の一つです。祭神は己々都牟須比命としており、平安時代に編纂された「新選姓氏録」には、中村連の先祖とされています。このことから、枚岡神社を中心とする中臣氏は、河内平野にも進出していたであろうと推定されます。 また、「当社は疱瘡を病める者祈願すれば験ありと称し、参詣する者多し。(仲河内郡誌)」とあり、正徳四年(1714)阿波、淡路の領主蜂須賀家の家臣陶山与一左衛門長之・水谷平右衛門勝政より疱瘡全快の謝恩のため鳥居が寄進されています。伝承では、何か祈願をするときは、大和川(菱江川)に入り斎戒沐浴を行う川瀬の祓いを行います。そして、社殿の軒下の雨だれの砂を頂き、これを袋に入れて腰に下げてお守りとしたそうです。大和川が付け替えられてからは、境内の菱沢池で祓いを受けたのですが、その風習も大正時代にはなくなったそうです。 昭和62年4月 大阪玉川農業協同組合 東大阪市教育委員会 社頭掲示板 |
仲村神社 仲村神社略記 <延喜式内社> 祭神 己己都牟須比命(興台産霊命) 「新撰姓氏録」によれば ┌藤原朝臣 己己都牟須比命−−天児屋根命─┼大中臣朝臣 └中村連 とあり奈良の春日大社、河内の枚岡神社の御祭神『天児屋根命』の親神様『己己都牟須比命』を祭祀奉る神社であります。 御神徳《病気平癒》《家内安全》《事業繁栄》《交通安全》《学業成就》《厄除け》《良縁結び》 御由緒 当社は延喜式内社と申しまして、延長5年(927)に完成した『延喜式』(五十巻)(醍醐天皇)の巻第九神名帳に「河内の国、若江郷、仲村神社」とあるが如く千年を越える古い歴史を持ち、その創立は当社の御祭神より別れた藤原氏、中臣氏と並ぶ(中村連氏族)によって氏神様として奉斎せられたことに始まり、近世には菱江村の氏神様となり、当時流行していた疱瘡(天然痘)の病魔退散の神として又、身体健康、家内安全を守る神として近郷近在は勿論、遠くは京都、阿波の徳島、淡路の庶民より崇敬され、上は朝廷藩主の信仰ににの接し、その霊験も大なるものがあった。 その証として淡路洲本の住人、陶山与一左衛門長之が病気平癒を祈願して後、目出度く完治した事を感謝して寄進した朱塗り鳥居一基(元文3年、1739)又、寛政4年(1792)には、大阪城代であった紀朝臣正順(堀田正順)が伝染病の流行を恐れて、大阪庶民のために当社に祈願し、その謝恩として寄進したとされる石灯籠一対が、境内に現存し当時の信仰を現代に伝えている。 夏祭 7月25日 秋祭 10月16日 月次祭 毎月1日、15日 末社 琴平神社 御祭神 琴平大神 菱江稲荷神社 御祭神 宇賀御魂大神 社頭掲示板 |
菱沢池 本社は、往古より疱瘡除けの神として中河内郡誌にも「疱瘡を病めるもの祈れば験ありと称して参詣するもの多し」とあり江戸時代には信仰を集めました。その祈願をするとき必ず禊ぎをしたと言ふ、大和川に入り斎戎沐浴を行いそのうえ川瀬祓を行った。そして社殿の軒下の雨垂れの砂を頂きこれを袋に人れて腰に下げお守りとした。ところが、大和川が付け替えられて流れが少なくなり、その後は境内に現存の池「菱沢池)に入り禊をして沢辺祓を奉仕したとされる。 しかしながら時代の変遷により環境も著しく変わり池の水位も漏水により保存困難となり、かって先人が郷土の発展の為に歴史の上に築かれたものであり五殻豊穣、家内安全を祈願されたものです。 改修平成9年7月吉日 社頭掲示板 |
仲村神社 仲村は奈加牟良と訓べし○祭神分明ならず○菱江村に在す、(河内志、同名所図会)、例祭9月27日、○姓氏録、(左京神別上)中村連、己巳都牟須比命子天乃子矢根命之後也、 類社 信濃國埴科郡中村神社 官社 三代實録、貞観9年2月26日丙申、以河内國若江郡中村神、預官社、 神社覈録 |