弥刀神社
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   【延喜式神名帳】弥刀神社 河内国 若江郡鎮座

   【現社名】弥刀神社
   【住所】大阪府東大阪市近江堂 1-12-15
       北緯34度38分46秒,東経135度34分51秒
   【祭神】速秋津彦神、速秋津姫神
       『河内志』『河内名所図会』『神名帳考証』『神社覈録』祭神不詳
       『河泉神社記』『特選神名牒』祭神不詳

   【例祭】10月20日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平宝字6年(762)6月、大和川の大洪水で社殿流失
       中世の状況は明らかでない
       ある時期から牛頭天王が信仰された
       明治5年(1872)村社

   【関係氏族】不詳
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【社殿】本殿一間社春日造
       拝殿所

   【境内社】八坂神社・常世神社

弥刀小学校北西街中に鎮座する。 鎮座地は古大和川の自然堤防の微高地にある。
水上の安全を所るために祀られた神であつたと思われる。
天平宝字6年(762)6月、大和川の大洪水で長瀬堤が決潰した際、近江堂の字切所・切下・切の浦などからの激流のために、社殿ことごとく流失したとのことである。
地名は一大港湾にのぞむ大きな水戸(河口)であったことから「大水戸」(おおみと)と呼ばれ、「大水戸」→「おおみと」→「近江堂」と変化した。
江戸中期の儒学者・並河誠所が若江郡近江堂村にあった牛頭天王社を式内・弥刀神社と比定したもの。


御由緒略記

式内 彌刀神社 御由緒略記改修版
一、御祭神
一、本社
  速秋津日子神
  速秋津比売神
一、八坂神社 須佐之男命
一、常世神社 大己貴命
一、鎮座地  東大阪市近江党531番地字山ノ上
二、本社の由緒沿革
御祭神の速秋津日子神、速秋津比売神は『古事記』に伊邪那岐、伊邪那美の二神が大八島国とその他の島々を生み、また八柱の神を生みおえた後、河口の神すなわち水戸の神であるこの二柱の神を生み給うたと記している。
神代の昔、此の地が鴨の水戸であったために、高天原より天の浮橋により天降られた神々が、浪速潟から水戸に着き、水戸の神の許しを得て大和川筋をさかのぼり、大和に入られと、当地には語り伝えられている。
当社創祀の年代は明かでない。伝えるところによれば、由緒となる建物・器物などは、天平宝字6年(762)6月、大和川の大洪水で長瀬堤が決潰した際、近江堂の字切所・切下・切の浦などからの激流のために、社殿ことごとく流失したとのことである。
『延喜式』の『神名帳』には、河内国若江郡二十二座の中に「彌刀神社」があり、『河内国神名帳』には神階を従三位と記している。その後は徴すべき記録・遺物がなく判然としないが、『布施市史』によれば、この地が若江郡の豪族−美努氏の本貫として栄えたという。室町時代に作られた狂言『どもり』に、一年に一どたつ、河内の国に聞こえたる、あふみだうのいちばにて、布一尺もよう売らいで、さのみ人の聞くに物な言うそ……
とあり、中世には近江堂が、河内十三街道の市場として栄えた。従って彌刀神社も市場の神としても崇敬され繁栄していたのではなかろうか。
徳川時代に至り、近江堂の集落が発展するに伴ない、氏族神・市場神から産土の神として村人の崇敬を集め、社殿神域は整備され、社頭は荘厳を深めていった。往時の境内は現在よりもっと広かったと思われる。それは、今も付近には、馬場地・西の馬場地・鳥居地・御旅地・御供田・管絃地などの小字名を残していることによって知られる。
現在社頭に残る石造物で最古に属するのは、拝殿前一対の石燈籠で、享保15年(1730)に、大坂九之助町一丁目の河内屋与兵衛が奉納したもの。次は末社八坂神社の下段正面にある御前型の石燈籠で、宝暦9年(1759)と刻まれている。次に拝殿正面の狛犬一対は、文化5年(1808)当村久兵衛と大坂天満の京屋宗兵衛の寄進に係るものであり、広庭北側の石の手水鉢は天保9年(1838)木田磯右衛門・同治右衛門・同藤左衛門・平野屋権兵衛の四人が寄進したものである。
社殿の御造営に最も力を入れたのは、天保11年(1840)である。この年正月工を起し、8月10日上棟式を執行、遷宮を了した記録がある。また末社常世神社前の石の鳥居は同年11月、木田喜右衛門・木田久兵衛・木田伊八が寄進し、東入口の石の鳥居は同年9月、木田三左衛門・同宗右衛門・同三郎右衛門が寄進したもので、西入口の石の鳥居には木田氏・吉田氏の銘がある。
本社神殿は二間社春日造で、天保造営後、十数年毎に屋根替をして来たが、明治5年(1872)村社に列せられたので、明治7年(1874)に至って造営しなおした。
本殿正面の石階左右に「明治七歳甲戌第四月下涜 奉納正覚寺邨中谷多三郎」の銘のあるのは、その時の遺物である。その後昭和3年(1928)桧皮葺の神殿屋根を銅板葺に改め、昭和14年(1939)皇紀2600年の記念事業として、破損していた拝殿・幣殿・神饌所・透塀・潜門・社務所・石標ならびに常世神社神殿の造営に着手、翌15年2月10日に完戊、今日に至っている。前述の通り、当社は由緒深く歴史ある古社であるので、昭和43年の初め、東大阪市教育委員会より文化財としての価値を認められ、その解説文を記した立て札を交付された。その全文は次の通りである。

弥刀神社
若江郡に属し、近江堂字山の上に鎮座する当社も、神名帳の記載からすれば弘仁式となり、官幣小社であった。祭神は速秋津日子神・速秋津比売神といわれている。本地域も、かつては等高線5m内外で囲まれた一大江湾にのぞむ大きな水戸、すなわち海に入りこんだ地帯あるいは河口であったところから、大水戸と,呼ばれ、それが「おおみと」と転じ、さらに訛って近江堂と呼称されるようになったのであろう。ところで古代では水の流れの速いところで祓を行ったから、やがてその「速かに明るく」という語が、交通の要地であった本地域に祭る水戸の神の名「速秋津日子神」「速秋津比売神」(秋は明の借字)にもなったものと考えられる。
当社創建の年代は明らかでない。伝えるところによれば、由緒となるべき建物・器物などは、天平宝字6年6月長瀬川堤が決潰した際、字切所・切下・切の浦からの激流のために流失したという。
東大阪市教育委員会

現在、祭典は夏秋の二季に行われ、夏祭は7月20日、秋祭は10月20日に盛大に行われ、いずれも神楽の奉納があり、夏祭には子供御輿の巡幸があって、甚だ賑やかである。なお元且祭・節分祭にも参拝の入、跡を絶たない。
三、末社
1.八坂神社
御祭神は須佐之男命である。当社は往古より武人の尊崇篤く、武運長久の祈願をする人が絶えず、ことに国家有事の際、参拝祈願をこめる人がきびすを接したと伝えられる。『河内国神名帳』や『河内名所図会』に、彌刀神社は「今天王と称す」とあるのは、配祀の八坂神社の祭神、須佐之男命が俗に「牛頭天王」と呼ばれたことによるものである。これによって、当時この神社が主神をしのいで尊信されていたのを示すものではないかと思われる。
社殿は一間社の春日造りで、古式をよく残した貴重な建築物である。社殿内に棟札を存し、元は桧皮葺であったが、今は銅板葺に変っている。
東大阪市教育委員会でも、この社殿の文化史的の価値を認められ、昭和43年10月29日、同市文化財保護規則により、市の有形文化財に指定された。
昭和45年3月、同委員会より、右有形文化財の指定文を記載した立札を交付された。その全文は次の通りである。

有形文化財
弥刀神社末社
八坂神社本殿
弥刀神社の境内末社八坂神社の木殿で素盞鳴命をまつる。
一間社流造現在は銅板葺であるがもとは桧皮葺であった。建立年代は不明であるが斗共・虹梁・主屋木鼻の渦・若葉等の細部は江戸町代中期の特徴を示している。屋根廻り浜床等に改修のあとが見られるが江戸時代中期の作風をのこしている点貴重である。
昭和43年10月29日
東大阪市文化財保護規則により指定
東大阪市教育委員会

右指定立札は八坂神社の下段正面に建てられている。
2,常世神社
御祭神は大己貴命である。大己貴命は須佐之男命の御子で、大国主命とも申上げる。この神社の御由緒は古く、大己貴命が出雲の国から、国拓きのため浪速の岬を経て河海の水戸(みなと、すなわちみと)に着き、この常世神社の位置にあった大きな石の上に登り、大和の国を遙かに眺め、国拓きを決意し、水戸の神の許しを受けてから大和川をさか上り大和に入られ、三輪山にいつき祭られたと、土地の人々は語り伝えている。
この故事によって、人々は大己貴命を祀る神社をこの地に建て、常世神社と名づけた。常世とは恒久の世界の意で、空想上の世界の意から転じて海外の国々をいうこととなったのであるが、この地が河海の水戸であり、海外へ交通する要衝であったので、「とこよ」と名づけたのであると思われる。
ちなみに当地を近江堂と称するのは、この地は昔大和川の川口に当るので、大水戸と呼んだのを、後に「おおみどう」と転訛し、近江堂の字を当てたものと思われる。
四、境内現況
境内敷地は近江堂531番地字山ノ上に在り、総面積は636.61(2,104.51平方米)である。その内、社域はほぼ方形で576.29坪(1,905.10平方米)を占め、その西北隅に参道60.32坪(199.41平方米)が約35m西に延びている。社域のほぼ中央に在って西面する拝殿の東側に、一段高い長方形の区面があり、玉垣をめぐらした中に、本殿と末社八坂神社があり、いちょう・楠等の古木が生い繁っている。同じく末社の常世神社は拝殿の東南方に在って東面し、周囲は広庭となっている。
東西参道の入口に、石の大鳥居があり、山階宮晃親王の御筆になる「彌刀神社」の社額がかかっている。西参道の東端に石の手水鉢があり、拝殿の前に左右一対の石造狛犬と石燈籠がある。常世神社の社前にも石の鳥居と石燈籠とが立っている。東の鳥居の附近に「式内彌刀神社」の石標があり、その南に接して氏子の集会場がある。社務所は本社殿の一区画の南にあり、境内地一帯は周囲の水田より高い。 神社の西方、現在近鉄線路敷地になっているあたりを字お旅地というが、ここは昔神聖な土地で、往時彌刀神社の祭典に当り、御神霊が遷御されたところと伝えられている。
五、関係文献
○延喜式
 河内国若江郡彌刀神社
○狂言記拾遺
 (記事前掲)
○大日本史
 河内国若江郡、彌刀神社、今在近江堂村、近江堂蓋大彌刀之転譌。延喜制列小社。
○河内名所図会
 若江郡彌刀神社、近江堂村にあり、延喜式出今天王と称す、此地の生土神也。
○河内志
 若江郡、彌刀神社、在近江堂村、今称天王。
○ 河内国風土記
 若江郡、若江郷、彌刀神社。
○河内国名所図 延宝二年版
 若江郡、彌刀神社。
○河内国内神名帳 明和五年写本雲明稿
 若江郡、彌刀神社従三位。
○諸国神社部類
 河内国若江郡、彌刀神社、在近江堂村、式内今称天王、此地生土神。
○神名帳考証 度会延経 同延佳著
 彌刀神社、箕輪村、天川田名命。姓氏録云、河内神別、美努連、角凝魂命四世孫、天川田奈命之後也。三代実録云、元慶三年、河内国若江郡之人、美努連清名、貫左京三条。古事記、大物主大神顕於御夢白云々以意富多々泥古而令祭祀云々於河内之美努村、見得其人貢進。 ○河泉神社記 明治六年写本 吉川躬行、敷田年治共著
 河内国若江郡、彌刀神社、所祭未詳、俗称進之男命、在近江堂村、按に此村名元来大彌刀なるを訛りて、近江堂とせしなり。 ○神祇志料
 彌刀の神社、今近江堂村にあり、河内志、式社細記、按村名もと、大彌刀なりしを誤りて、近江堂と書りしなるべし。
○神社要録
 河内国若江郡、彌刀神社、彌刀は仮字也。兼永卿本に、「イヤト」と読り、いかがや。○祭神詳ならず。○近江堂村に在す。今天王と称す。
〔以上友田由義夫氏調査に依る〕
○大阪府誌
彌刀神社は、南方字山の上にあり。延喜式内の神社にして、速秋津比古神、速秋津比売神を祀れり。祭神は、古事記に、「次生水戸神、名速秋津口子神、次妹速秋津比売神」と見ゆる水戸の神にして、社名は、前記の如く水戸の転じたるものならん。
創建の年月は詐ならず。昔は荘麗を極めたる神社にして、附近に残れる西の馬場、西南の馬場、管絃地、太夫の地、御旅地等の字地は、当社に因みあるものならんと云ふ。河内国内神名帳には、神階を従三位と記せり。今は天王と称す。本地の産土神にして、明治五年村社に列せらる。境内は五百九拾坪を有し、本殿拝殿を存し、末社に八阪神社常世神社あって、古木欝蒼せり。夏祭は六月三十日、秋祭は十月二十日に行はる。
あと書き
当彌刀神社は、多数氏子の尊信も篤く、千有余年の歴史を有する尊い神社でありますが、当社の古い由緒を尋ね、歴史を探り、神徳を一層高めるため、昭和30年、当社の篤信家であった木田定治郎氏が中心となって、『彌刀神社御由緒略記』を編修されました。爾来それを各方面に頒布してまいりましたが、今やその冊子も残りなくなりましたので、この度、旧版を改め一層精確な良いものにするため、郷土史家松本俊吉氏(元、布施市史編修委員、奈良県桜井市在住)に改修のことを依嘱しましたところ、先生はこれを快諾され、つぶさに実地を踏査し、旧御由緒略記を基礎とし、さらに先生の豊かな学殖と優れた識見とをもって、新見解をも加え稿を草して、当社に贈って下さいました。わたくしはここに、先生の一方ならぬ熱意と御尽力に対し、深甚の謝意を表する次第でございます。
なおその上に、わたくしが当地に伝わる伝承や最近の出来事の一二を書き添え、木田政治氏が編修の整理や印刷の校正の任に当り、完成刊行の運びに至りました。
願わくは、当社ゆかりの諸賢が一読の栄を賜わり、当社に対する理解と敬愛の情を深めて下さいましたならば、望外の幸せと存ずるものでございます。
昭和46年陽春3月吉日
式内彌刀神社奉賛会長
木田忍治

社頭掲示板



弥刀神社

若江郡に属し、近江堂字山の上に鎮座する当社も、神名帳の記載からすれば、弘仁式となり、官幣小社であった。
祭神は、速秋津日子神、速秋津比売神と言われている。
本地域も嘗ては等高線5m内外で囲まれた一大港湾にのぞむ大きな水戸、すなわち海に入り込んだ地帯、あるいは河口であったところから、大水戸と呼ばれ、それが「おおみと」と転じ、さらに訛って近江堂と呼称されるようになったのであろう。
ところで古代では水の流れの速いところで祓いを行ったから、やがてはその「速やかに明るく」という語が、交通の要地であった本地域に祭る水戸の神の名「速秋津比子神」「速秋津比売神」(秋は明の借字)にもなったものと考えられる。
当社創建の年代は明らかでない。伝えるところによれば、由緒となるべき建物、器物などは、天平宝宇6年(762)6月長瀬川(旧大和川)の堤が決壊した際、字切所、切下、切の浦からの激流のために流失したという。
 東大阪市教育委員会
 式内 彌刀神社奉賛会

社頭掲示板



彌刀神社

彌刀は假字也、(兼長卿本イヤトと読り、いかがや、)〇祭神詳ならず○近江堂村に在す、今天玉と称す、(河内志、同名所図会)、
考証云、箕輪村、

神社覈録



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