長田神社
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   【延喜式神名帳】意支部神社 河内国 若江郡鎮座

   【現社名】長田神社
   【住所】大阪府東大阪市長田 1421
       北緯34度40分33秒,東経135度35分25秒
   【祭神】品陀別命、息長足姫命、多紀理毘売命
   【例祭】10月21日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】江首
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】塞神社・愛宕神社・稻荷神社・水神社・琴毘羅神社

第二寝屋川北東岸の街中に鎮座する。
神社の北方にあつた田圃の小字名に意伎宮(いきみや)屋敷および弓場(いば)というのがあつたことから論社とされている。


長田神社と子安地蔵

長田から西堤にかけて細長く続く旧集落は、古くは旧若江郡の北辺に広がっていた大きな湖沼(新開池)の南岸上にそって営まれた古い集落です。
長田村の中央字相生と呼ばれたところに鎮座する長田神社は、品陀別命(応神天皇)、息長足姫命、多紀理毘売命の三神を祀っています。神社の北方には、字意伎宮屋敷、弓場と呼ばれたところがあり、神社が消失したため現在地に移されたといわれます。境内には本殿の他に末社として塞神社・愛宕神社・稻荷神社・水神社・琴毘羅神社があります。
境内の北側には、「摂取庵」と呼ばれる浄土宗の堂があり、鎌倉時代末期の木像地蔵菩薩立像(像高91cm)が安置されています。この地蔵像は、地元に伝わる「子安地蔵縁起」によれば、嘉禄年中(1225〜27)恵心僧都作と伝えられ、江州(滋賀県堅田で子安地蔵としてまつられてきたものが、有縁の地である長田村へ移されたことがわかります。地蔵像及び子安地蔵縁起とともに、この地の歴史を伝える文化財として昭和49年3月25日に東大阪市文化財保護促進条例により有形文化財に指定されています。
昭和63年3月
東大阪市教育委員会

社頭掲示板



延喜式内といわれる長田神社

意岐部神社は古来平安朝の初期醍醐天皇の御代延喜式制によって、村の守護神として鎮座された由緒ある古社として記録を存せる宮であり、この遺書は村人によって伝承せられたる信仰上の伝統であり、旧村の歴史にとって誇り得るものであったが当時の宮の所在について旧長田村と御厨村の何れに鎮座せるものか、彼御社波是奈利 止慥々爾記有書奈久 辨有人毛無(かのみやしろはこれなり とぐしかにせるふみなく わきまえるひともなし)と、当時枚岡神社の宮司水走忠によって宮争の解決を神霊に誓って決定せんとし、長文の神詞を起草しこれを現在の楠根川橋上(長田村、御厨村の境にある橋)に於いて幣を中央に立てて、深更に至って濁を灯し御あかりの左右何かに倒れるか以って、宮の所属を決定したということである。しかしながら現在この由緒がある意岐部神社の所在は、中世の頃天災の為焼失し今日全くその旧址判明せず、現在の長田神社の北方(田圃の中)に意岐宮屋敷と言い、叉 弓場との下と称する。小字地名のあることによって意岐部神社の宮跡であろうと言われている。
  東大阪市教育委員会

社頭掲示板



長田神社と子安地蔵

長田から西堤にかけて細長く続く旧集落は、古くは旧若江郡の北辺に広がっていた大きな湖沼(新開池)の南岸堤上にそって営まれた古い集落です。
長田村の中央字相生と呼ばれた所に鎮座する長田神社ですが、横には「社は、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命、多紀理毘貴命の三神を祀っています。神社の北方には、字意伎宮屋敷、弓場と呼ばれた所があり、神社が消失したために現在地に移されたといわれます。境内には本殿の他に末社として、塞神社、愛宕神社、稲荷神社、水神社、琴毘羅神社があります。
境内の北側には、「摂取庵」と呼ばれる浄土宗の堂があり、鎌倉時代末期の木造地蔵菩薩立像(像高91cm)が安置されています。この地蔵像は、地元に伝わる「子安地蔵縁起」によれば、嘉禄年中(1225-1227)、恵心僧都作として伝えられ、江州(滋賀県)堅田で子安地蔵として祀られてきたものが、有縁の地である長田村へ移されたことがわかります。地蔵像及び子安地蔵縁起ともに、この地の歴史を伝える文化財として昭和49年3月25日に東大阪市文化財保護条例により有形文化財に指定されています。
昭和63年3月 東大阪市教育委員会

社頭掲示板



長田のおかげ燈籠

長田の村内には、5基の「おかげ燈籠」が残されています。
この燈籠は、江戸時代に盛んに行われた、伊勢神宮参宮の記念物で、ほぼ60年おきに遷宮が行われる年の参宮は、「おかげ年」といわれ、平年より一層のこ利益があると、いうことから、慶安3年(1650)・宝永2年(1705)・享保3年(1718)・享保8年(1723)・明和8年(1771)・文政13年(1830)と6回にわたって、各地で集団でのおかげ参りが行われました。
おかげ参りがひとたび起こると、父母や雇主に無断で参宮する、抜け参りも多く、とくに文政のおかげ参りでは、「おかげ踊り」とよばれる熱狂的な群衆の乱舞が、関西を中心に広がりました。
また、おかげ踊りは、幕末にあたる慶応3年(1867)の「ええじゃないか」踊りの騒動へとつながっていきました。
おかげ燈籠は、市内の加納・菱江・荒本・箕輪にもありますが、5基も残っているのは、ここ長田だけです。
神社の境内に残る燈籠一対は、高さ約2.9mあり、慶応3年(丁卯)(1867)12月に建てられたもので、「献灯」「おかげおどり」「世話方子供中jと刻まれ、この他、村内には文政のおかげ参りの翌年の天保2年(1831)に建てられた、古いおかげ燈籠も残されておリ、文化財として大切に守って行きたいものです。
平成6年12月
東大阪市

社頭掲示板



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