天神社
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   【延喜式神名帳】意支部神社 河内国 若江郡鎮座

   【現社名】天神社
   【住所】大阪府東大阪市御厨1150番地
       北緯34度40分19秒,東経135度35分7秒
   【祭神】大国主命 少名彦命
   【例祭】10月18日 秋季大祭
   【社格】
   【由緒】神社の創建その他の由緒はわからない

   【関係氏族】江首
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】御厨を祀る
   【祭祀】古くは「意岐部神社」「御厨神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】須賀神社・愛宕神社・水神社・智葉神社・稻荷神社

第二寝屋川南東岸近く、街中のやや微高地に鎮座。
明治以來、現在の東大阪市御厨地区と長田地区とで、どちらの地区の神社が式内の意支部神社であるかで争つている。御厨は天神社といい、長田は長田神社という。
裁判にもなつたこともあり、現在もまだ解決されていない、論社となつたままである。
意支部という社名の難解さが、この神社をわからなくしている一因である。社名の意味やこの神社を祀つた氏族がはつきりしないので、神社の創建その他の由緒はわからない。延喜式神名帳だけにみえる神社である。
この地の奥方・置方の地名が意支部に通ずるということから論社とされているが、御厨天神社は古くは御厨神社と呼ばれていたこと、式内社からもれていたとの伝もある。



由緒

当社の創建年代は詳らかではないが、延喜式に意岐部神社があり、これは村名が社名になったもので、口碑によると現在の社名は近世に改称したものである。古くは意岐部神社、または御厨神社と称していたと伝えられている。
大阪府全志によれば、本地(大字御厨)は古来若江郡に属し、御厨村といった。延喜式の内膳司に「造雑魚鮨十石、味塩六斗河内国江厨所進」と見える江厨は本地であって、村名はそれによって起こり、姓氏録河内国皇別に「江首江人附彦八井耳命七世孫木津彦大雨宿禰大確命之也」と見える江首もまた、本地ではないかと考えられる。
里伝には、文武天皇の吉野に行幸あらせられた時、本地から供膳されたので此の名を賜ったといい、あるいは称徳天皇が河内国に由義宮を造って、西京と称されたとき、御厨を設置された所という。
大阪府史蹟天然記念物によると、天神社意岐部村大字御厨西北隅奥方と称するところに鎮座とある。
境内の樟(周囲二十一尺)の老樹をもって風致を添えている。
末社に智葉神社、玉岡神社、外に三柱がある。
元禄の銘ある石灯籠があり、枚岡神社より移された能舞台もあるが、近年演能が無く毀損している。
天神社の北を敷地といい、往昔大伽藍の遺跡というが、その名の詳細はわからないが寺内、北坊、門屋小路、中小路、出口等の地名があり往昔大伽藍のあったことを証している。
本尊薬師如来(伝聖徳太子作)は、後世これを大和国秋篠寺へ移したものと、同寺の石灯籠は当社前のものと同形であり、また紋章も共に巴となっているのは、何等かの相互関係を有するものと記されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




天神社

本地(大字御厨)は古来若江郡に属し、御厨村という。延喜式の内膳司に「造雑魚鮨十石、味塩魚六斗河内国江御厨所進」と見える江厨は本地であって、村名はそれによって起こり姓氏録河内国皇別に 「江首、江人付彦八井耳命七世孫来目津彦大雨宿禰大確命之也」と見える絵首は、また本地に因みしものでないかと考えられる。里伝には文武天皇の吉野に行幸あらせられたとき、本地から供膳せられたのでこの名を賜ったといい、或いは称徳天皇が河内国に由義宮を造って西京と称されたとき、御厨を設置せられた所という。
大阪府史跡名勝天然記念物によると天神社は意岐部村大字御厨神社は村の西北隅奥方と称するところに鎮座し、大名持命、少彦名命を祭る。或いは延喜式意岐部神社という(中略)
境内の樟(周囲5.1m)の老樹をもって風致を添える。末社智葉神社、玉岡神社外4柱がある。元禄の銘ある石灯籠古雅賞するものがある。
枚岡神社より移されたという能舞台があり、近年演能無く毀損している。
天神社の北を敷地といい、往昔大伽藍の遺跡と言うがその名の詳細は分からない。
寺内・北坊・門屋小路・中小路・出口等の地名があるが蓋し往昔大伽藍のあったことを証している。
本尊薬師如来像(聖徳太子作)は後世これを大和国秋篠寺へ移したものと、同寺の石灯籠は天神社前のものと同形であり、また彼此の紋章も共に巴となっているのは何等かの相互関係を有するものと記されている。
東大阪市教育委員会

社頭掲示板



天神社

旧御厨村の中央に位置し、大名持命、少彦名命の二神をおまつりしています。創建年代は文献が無く解りませんが、延喜式神名帳にみえる意岐部神社がこの神社であるとも伝えられています。古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名が使われるようになりました。また、大正4年には新家村の菅原神社と菱屋東の稲荷神社と山科神社、荒本の荒本神社の4社が合祀されました。
境内には、市の天然記念物に指定されている「くすの木」があるほか、本殿東側にある小さな四社の殿前の元禄10年(1697)銘の石燈篭や拝殿西側にある奈良秋篠寺の石燈篭と同形の八角形の石燈篭や寛成9年(1797)銘の狛犬、正徳元年銘の手水鉢などの石造物があります。また、枚岡神社から移築された能舞台や村相撲が盛んであったことを示す番付表も保存されています。
ところで、御厨という地名は、朝廷にお供えする魚介類を獲るため、平安時代の延喜5年(908)、付近に拡がる湖沼一体を「大江御厨」と定めたことに由来する。
平成15年3月 東大阪市

社頭掲示板



天神社のくすの木

東大阪市の木であるクスノキは、関東以西の太平洋岸から台湾・東南アジアに分布する常緑高木で、多量の樟脳を含むため虫害を受けずに腐敗しにくく、そのために寿命が非常に長い樹木として知られています。このことは平成元年6月に環境庁が発表した全国の巨樹ベスト10のうち9件までがクスノキである事実がよく示しています。(全国一は鹿児島県蒲生町の大クスで幹周24m)
天神社の社殿東側に威風厳かに存在する「くすの木」は、幹周約6mを測る市内で最も太いクスノキです。樹齢900年の伝承は、実際はもう少し若いとしても、東大阪市で最も樹齢の古いクスノキであることは間違いないと見られることから、平成10年10月に市の文化財に指定されました。
この「くすの木」が芽生えた頃、御厨の地は、延喜式に「造雑魚鮨十石、味塩六斗、河内国江厨所達」と見える江厨にあたり、神に供える食料を献納した皇室領であったと考えられています。天神社は、古くは延喜式にみえる意岐部神社であったとされ、また、神社の付近一帯には寺内、北坊など寺院伽藍のあったことを示す地名も遺されています。数百年にわたり、変遷した幾多の歴史を、この「くすの木」は見守り続けてきたものと思われます。
平成10年11月
東大阪市

社頭掲示板



意伎部神社

意伎部は假字也○祭神、在所等詳ならず、

神社覈録



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