里中の神社。 弓削村と東弓削村の場合、どちらが本村で、どちらが枝村か不詳。 境内に延命水と呼ばれる井戸がある。旱魃の時もかれたことがないと伝えている。この霊水を口にすると長寿を保つと信仰されている。 |
弓削神社 当社は今を去る千有余年前に物部氏がこの地に繁栄してその先祖を祀り創建せられ、延喜式内の古社として上下の尊崇あつく、特に延命長寿の神として名高い。大阪府史料弓削神社の條の河内誌、大阪府全志、大阪府史跡名所天然記念物によると清和天皇貞観元年正月授従五位上とあり、又同上河内誌、大阪府史跡名所天然記念物によると醍醐天皇の延喜の制に於て延喜式内社に列し、並大月並、相嘗、新嘗に予り朝廷から幣帛を供進せられていた。その後、世の変遷時の流れに従い消長があったが、明治五年村社となり、大正3年幣帛供進社に指定せられ、八尾市二俣に鎮座の天照大神を合祀し、昭和27年宗教法人弓削神社として神社庁に属している、境内には昔から延命水と言う霊占があり、この水を口にすれば長命すると言い伝えられている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
弓削神社 式内社で、祭神は物部氏の祖神である饒速日命、宇麻志麻治命をまつり、物部氏に属した弓削一族の本拠であった。 孝謙天皇の信頼を得た弓削道鏡は、この地の出身で、由義宮に天皇の行幸を仰ぎ、同宮を「西京」とした。更に道鏡は弓削一族の栄達をはかったが、天皇の没後は失脚し、下野国薬師寺別当として放逐された。 古くこの境内には長寿を保つと伝える「延命水」という井戸がある。 八尾市教育委員会 社頭石碑 |
弓削神社由来 この神社は式内社で祭神はにぎはやひの命、その子うましまじの命、天照大神の三神をまつる。 神代の昔、天孫にぎはやひの命は神武天皇御東征以前既に河内大和地方をおさめ後天皇に帰順され日本国の基をきづかれた功労者であった。その後子孫が物部の姓をたまいこの地方を中心に弓削部、矢作部、くつつくり部等の武器製造の部民とともに富強をきわめ守屋の頃には権勢を誇っていた。 弓削道鏡は弓削部の一族で深く秘法を修め時の天皇の信任厚く太政大臣法王の位に達した。 この神社は1200余年前に創建されたと伝えられる。昔からこれらの部民が祖神を氏神としてあがめ今日に及んでいる。境内「延命水」は清く冷たく長寿延命の霊泉とされている。 昭和42年10月 社頭石碑 |
弓削道鏡 弓削の地は道鏡の出身地である。道鏡は「俗姓は弓削連河内人也」と続紀に記され、若くして葛城山に登り、如意輪法、宿曜秘宝を修め、看病禅師として名声を博し、孝謙天皇の病をなおし、信任をえて、ついには法王となった。 しかし称徳天皇の死去とともに失脚、下野国薬師寺の別当におとされ、宝亀三年(772)に歿した。 称徳天皇がこの地に行宮を造られるにあたり、信任の厚い道鏡は弓削宮(由義宮)の造営の許しを得た。 社頭石碑 |
弓削神社 天照大神は我が国の始祖と仰がれ給い、紀伊国五十鈴の川上に鎮座し給う。 饒速日命は天神で天璽を奉じて天磐舟に乗りこの国に降り給う。 可美麻冶命は饒速日命の御子である。 饒速日命は神武天皇御東征前に既に大和河内地方を治めて御東征に偉勲をたて、御子可美麻冶命と共に朝廷に仕えて功績をたて、その功績により子孫に物部氏の姓を賜り、この地方一帯に勢力を張り、守屋の頃には富強をきわめた。 一族弓削氏はこの地に栄えて祖神を尊崇して祀ったのが当神社である。 弓削の道鏡はこの弓削の一族である。 御祭神については大阪府神社史料弓削神社の條河内誌に「比古佐白布都命」大阪府全誌に「一に布都大明神」とも呼び、大阪府市蹟名所天然記念物の渡会氏神名帳考証に「弥加布都命、比古佐白布都命」特撰神名牒には「高魂命、天日鷲命」とあり神社要録、大日本史神祗志、地理志科等には「弓削宿祢神か或は弓削祢祖廟也」とあって諸説があるが、弓削宿祢は物部連の族であるから物部氏の祖神である饒速日命可美麻冶命を御祭神として奉斎し、二俣に鎮座の天照大神を合祀して三柱を御祭神と奉斎申しあげている。 弓削神社氏子会 |