楠根川(第二寝屋川)の東岸に鎮座する。これはかつての大和川の本流である。 古くは旧大和川の玉串川と長瀬川の両川が合わさつて入江となつていたところである。この入江を川俣江といつた。 おそらくこの川俣地区は旧大和川が河内の湖沼地帯に入る最先端にあたつていた。 交通の要地であったために、川俣には早くから人々がより集つて住み、神社も営まれたものと思われる。神社の創建がいつであるかはわからない。 古代の川俣には川俣公や川俣連といつた豪族がいた。入江を管理・支配していたのであろう。 弘仁式の時から小社に列せられていたと思われるが、中世・近世の事情はよくわからない。 江戸期は天神宮と呼ばれていた。 |
川俣神社 川俣神社は、奈良時代〜平安時代に官社となった神社の一覧表に記載され、そのころから祈年祭には、鍬・靱(矢を容れて背に負う道具)が供えられたと書かれています。 川俣の地名は古くから散られており、『日本書紀』には、仁徳天皇が詠んだと言われている歌があり、その中に「・・・川俣江の菱殻の・・・・」は、水辺に生い茂る菱を歌っており、この川俣は、当地であるといわれています。 奈良時代、僧行基が、川俣の一女性を救う話や、東大寺の大仏造営時、河俣人麻呂という豪族が、銭一千貫を寄進したと書かれています。この時代の他の書物にも、川俣・河俣が見うけられ、河俣氏は、古代からかなり勢力を持つ豪族であり、氏神として川俣神社をまつったといわれています。 神社地は「川中」という字名がついています。古代から地形の低いこのあたりは、何本にも川筋が分かれたり、入り江や中州が散在する状態であったと思われますが、こういう地形は、水運など交通の便もよく、古代文化の受け入れる地であったと思われます。 平成10年1月 東大阪市 社頭掲示板 |
川俣神社 鍬靫 川俣は加波末多と訓べし、和名鈔、(郷名部)川俣(印本川保と誤る)日本紀、応神天皇13年9月條、歌曰加破摩多曳能比、辞餓羅能、(上下略)○祭神川俣公祖神歟○川俣村に在す、(河内志、同名所図会)、○姓民録、(河内國皇別)川俣公、彦坐命之後也、 類社 大和國高市郡川俣神社の條見合すべし 神社覈録 |