石田神社
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   【延喜式神名帳】石田神社 三座 河内国 若江郡鎮座

   【現社名】石田神社
   【住所】大阪府東大阪市岩田町 4-11-13
       北緯34度38分4秒,東経135度37分15秒
   【祭神】誉田別命 帯仲彦命 息長足姫命(配祀)天照大神 天児屋根命
       『神社覈録』祭神詳ならず
       『特選神名牒』今決めがたし
       『大阪府史蹟名勝天然記念物』五十日足彦命・同比盗_・誉田別尊

   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】当神社の創建は欽明天皇の頃
       延喜式小社で弘仁式の時からの官社であった
       明治5年(1872)岩田八幡宮から現在の社名に変更
       昭和9年の室戸台風で社殿が倒壊

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない
       神社北方の田圃の中にあつた幸神塚と無名の塚の二塚はいまはない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「石田八幡」と称していた
   【社殿】本殿流造
       祝詞舎・拝殿・神饌所・社務所・手洗所

   【境内社】稻荷神社

この地はかつては古大和川下流域の低温地であつた。
神社の創始は欽明天皇の時代に、近くの田圃の中に岩船があり、そこへ誉田別命、足仲彦命、息長帯姫命の三神があらわれたので、社壇を築いて奉祀したと伝。
中世の事情はよくわからないが、ある時代に八幡神の勧請があつたものと思われ。近世には岩田八幡宮として崇拝された。古代の祭神三座はこのときに失われたものと思われ不明である。



岩船の伝説・幸神塚と無名塚

岩船の伝説・幸神塚と無名塚
現在は住宅地になっているが、石田神社の北側に昭和38年頃まで直径2mたらずの円錐形の二つの小塚が水田の中にあった。
東の塚を「幸神塚」といい、西の塚は「無名の塚」とよばれていた。
伝説によると「幸神塚」は「賽の神」(村への疫病などの侵入を防いだり道行く人を災難から守る神)をまつった旧地だといわれている。
またここを開拓したとき、船によく似た大きな岩石があり、その長さは東塚より西塚に達し全長50m近くもあった。これは古代大きな石の船がここで難破したもので二つの塚はその前後のものといわれている。石田神社の社伝によると欽明天皇(500年代)の御代の岩船に祭神が降りてきたと伝えられる。
岩田町文化財保存会
協力 東大阪市教育委員会

社頭掲示板




石田神社と宮寺「善城寺」

平安時代の初め延長5年(927)に完成した「延喜式」の神名帳にのせられている古い神社で、帯仲彦尊(仲哀天皇)、息長足姫尊(神功皇后)、誉田別尊(応神天皇)の三座をまつり、後に天照大神、天児屋根命を合祀した。
欽明天皇の時代(500年代)にこのあたりの水田に岩船があって、三神がその上にあらわれそこで神社を築いておまつりをしたと伝えられる。
属に八幡宮と呼ばれ明治5年に村社と定められた。
また神社の宮寺「善城寺」は石田神社の北側にあり、禅宗黄檗派で、江戸時代には村人の尊崇する寺であったが、明治初年の神仏分離の際廃絶した。寺に安置されていた不動明王像(室町時代作)と左右の制多迦 矜羯羅童子の二体も共に当地の西光寺に移され現存している。
岩田町文化財保存会
協力 東大阪市教育委員会

社頭掲示板




石田八幡宮由緒略記

御由緒略記
御祭神 仲哀天皇(足仲彦尊)第十四代
    応神天皇(誉田別尊)第十五代
    神功皇后(息長足姫尊)
御創立 欽明天皇御宇(537〜571)此の田圃の中に岩船ありて、其の上に三神現じ給ひしより初めて社壇を築きて、奉祀せるものなり。
御社號 延喜式内石田神社又は石田八幡宮と稱す。
例祭日 7月15日・10月15日
御神徳 
仲哀天皇 当時しばしば九州熊襲の反乱がありて、国民が不安な生活を営むことが久しかったので、天皇は之を御親征になり、舟師を率いて海路筑紫に幸し給ひ、熊襲を討たれ、陣中にて崩御し給う。
応神天皇 仲哀天皇の皇子で御母は神功皇后にあたられる御方であります。八幡大神の主神にましまして、御在世中は深く内外の政治に大御心を用ひ給ひ、学問、文化、殖産、興業、交通、経済等あらゆる面に、御治績を垂れ給ひ、爾来天皇は厄除開運の御神徳と共に、我が国文教の祖、殖産興業の守護神として、国民の崇敬するところである。
神功皇后 仲哀天皇の皇后にましまして、父は開化天皇の曾孫にあたられる気長宿禰王、母は葛城高額媛と申し、天日槍の後裔にあたられる御方であります。仲哀天皇と御一緒に九州に熊襲征伐に向はれ、天皇が陣中で崩御せられた後も、女姓の御身ながら、秘して喪を発せられず、懐胎の身をもって、男装して海を渡り、新羅を征し之を降し給うた。その後、高麗、百済も亦臣となり朝貢するに至った。爾来応神天皇を奉じて政を摂り給うこと七十年余、御年百歳で、雅桜宮に崩御せられた。古来長寿の御神徳と共に、特に安産の守護神岩田帯の授与として民の崇敬するところである。
伝記 
当神社の北方(四拾間)を距てたる水田の中に、二箇の塚あり、東なるを幸神塚と云い、西なるを無名の塚なり、今は住宅地なれども、何れも高さ十五尺位の円錐形の小塚で、この塚の下に船に似たる長大の岩石ありて、其の長さは、東塚より西塚に達し、全長貮拾余間に及ぶ、是れ上古航海せる、石船の難破して沈没せるものなりと石田神社の記事中に、岩船ありと云うはこの石船のことを指せるものなり、之を開拓せし者ありしに大磐石あるを見たるも、暴風忽然として起り、其の場に気絶せりと云う。

由緒書



石田神社三座

石田は伊波多と訓べし○祭神詳ならず○岩田村に在す、今八幡宮と称す、(河内志、同名所図会)、
類社
山城國久世郡石田神社の條見合すべし

神社覈録



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