平地の街中に鎮座する。 御野県主神社は御野の県の首長家の祀る神社であつた。大化前代からの歴史のある古い神社である。 三野県主は河内の古い豪族で、美努村に本拠があつたことがわかる。この三野県主の勢力を背景に、御野県主神社は古くからの有力神社であつたと考えられる。 中世の神社の状況はよくわからない。 大坂夏の陣の兵火にかかつたという。 近世には天日大明神といつて、上之島村の氏神であつた。 玉串川の堤防跡が神社の森としての名残をとどめている。その東側に御野県池がある。 |
由緒 式内御野県主神社 御祭神 角凝魂命 天湯川田奈命 御由緒 古代の河内で三野県を支配した豪族三野県主が、祖神として斎き祭った神社である。 三野県主は旧英田村・三野郷村の一帯で、現在の東大阪市松原 水走 吉田 花園 玉串から八尾市福万寺 上之島に及ぶ広大な地域にあたる。 天武天皇13年(685)三野県主は連の姓を賜り、その後美努連として外交交渉や学問の分野でおおいに活躍した。 延喜式神名帳には若江郡に御野県主神社二座として載る。江戸時代には河内郡上之郷総氏神として崇敬された。 明治5年(1872)村社に列せられる。同42年(1909)6月 神饌幣帛料供進神社に指定される。 境内地 旧大和川(玉串川)の堤防が神社の森として残る。古木鬱蒼として八尾市の保全樹林に指定されている。 境内地の南に接して御野県池がある。 社頭石碑 |
御野県主神社 御野県主神社縁起 御野県主神社 八尾市上之島町南1丁目71番地 御祭神 角凝魂命 天ノ湯川田奈命 の二座 境内末社 稲荷大神 倉稻魂神 猿田彦命 大宮女命 日吉大神 三王権現 菅原大神 菅原道真 天照皇大神、 天照大神 豊受大神 八幡大神 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后 厳島大神 市杵島姫命 御由緒 古代河内の豪族美努連、三野県主が祖神を斎き祭った神社である。『新撰姓氏録』河内神別には美努連は角凝魂命の四世の孫天ノ湯川田奈命から起こるとある。三野県主は三野県の長で、『日本書紀』清寧天皇条に河内三野県主小根がみえる。天武天皇13年(685)に三野県主は連の姓を賜う。その後、美努の氏名は美奴・三野・三努とも書き、美努連は三野県主の後裔氏族である。美努連の一族の三野連岡麻呂は、大宝2年(702)第七次遣唐使の一行に加わり、見聞を広めて帰国し、文化の交流につくした。また美努連浄麻呂は慶雲3年(706)遣新羅大使となり、新羅国王の勅書に浄麻呂の名が記されている。また彼は『懐風藻』に歌を残し、外交、文学に大きく貢献している。そのほか三野連石守は『萬葉集』に名を連ね、美奴連智麻呂・美努連清庭 美努連清名などの一族とともに対外交渉、学問分野での活躍がめだっている。 また信貴山資財宝物帳に延喜17年(917)美努常眞・有貫などが若江郡三條竹村里を、承平6年(936)美努忠貞が澁川郡三條里苅里を施入したとの記事があり、教興寺鐘銘に「河内国高安郡教興寺洪鐘一口」弘安3年(1280)康辰正月25日奉鋳する所也とあり、施主筆頭に美乃正吉の名が刻銘されている。 社名の御野県主は三野県主と同じである。なお同系の氏族に鳥取氏があり、大県郡(現在柏原市高井田)に天湯川田神社、宿奈川田神社を祭っている。 『古事記』には崇神天皇の御代、疫病が流行したとき、大物主神の子意富多多泥古を河内国美努村(八尾市上之島町付近という)に探し求めて、この意富多多泥古を神主として大三輪の神を祭ったところ、疫病がおさまったという。大神神社の摂社に大直禰子神社があり、祭神は大直禰子命、配祀として少彦名命と活玉依姫命を、お祀りしている。 延喜式神名帳には若江郡に御野県主神社として載る江戸時代は河内郡上之島村の氏神で、天日大明神として崇め祭った。 明治5年(1872二)御野県主神社に復し、村社に列せられる。同年、当地の日吉神社(三王権現)を合祀する。同42年(1909)6月、神饌幣帛料供進社に指定される。 御社殿 元和元年(1615)、大阪夏の陣の時、兵火にかかったが、村民協議して再建した。 宝永4年(1707)11月、地震により本殿及び拝殿が崩壊した。翌年、本大字住民新右兵衛門が首となって有志を募り、翌5年、再建した。 文化14年(1817)3月、拝殿を新築した。棟梁は河内国豊浦村の八木市良右衛門信次であった。(棟札) 明治9年(1876)12月、本殿が壊頽したが、村民協議して新築再建する。梁棟は結城清五郎。 大正7年(1918)4月、本殿上屋根廊下新築拝殿修理する。大工は当村結城和一郎。 昭和63年(1988)10月、本殿の覆殿、幣殿(廊下)拝殿手水舎を改築落成する。 境内地 境内地は旧大和川(玉串川)の右岸堤防とその東側平地に広がる。 社殿は旧堤防の東外側に接して建ち、東面する。石華表(石鳥居)は東側入口に立つ。 旧堤防はよく旧観を残し、古木欝蒼としており、昭和61年2月25日八尾市の保全樹林となりエノキ・ムクノキなど五本が市の保存樹に指定されている。神域にふさわしい景観を今なおとどめている。 境内地の南に接して御野県池がある。かって堤防決壊時に流れ出てたまった水とも伝える。正徳2年(1712)の創設で、村共有の池であった。(宝永元年(1704)10月大和川付替え工事完了。) 現在の神社所有の境内地公簿面積は次の通りである。 上之島町南1丁目71番地 宅地 583、78坪 72番地 宅地 432、74坪 73番地 山林 222、94坪 74番地 溜池 539、96坪 山本町5丁目1番地 雑種地 86坪 合計1865、42坪(六反二畝五歩四合二勺)となっている。 境内にある石造物のうち、東正面入口の石の大鳥居は昭和13年7月の建立である。 旧鳥居は現在末社の鳥居として立っており享保5年(1720)3月のもので、当地の氏地である上之島村、及び万願寺村の新家・式部の氏子が建てたものである。 狛犬は文政3年(1820)9月、上之島及び上代若中の奉献したもの一対がある。 常夜燈は享保14年(1729)2月、享保14年9月、宝暦12年(1762)9月、・天保12年(1841)9月、明治39年(1906)3月のものがある。弘化3年(1846)4月の金毘羅大権現の御神燈がある。 御旅所 昔は旧上代村、現在の上尾町の公民館のところにあり、古木に囲まれ荘厳な神域となっていた。現在は上尾町6丁目にある。御旅所は神輿の巡行の時に仮鎮座されたところで、台石が残っている。また元禄11年(1698)9月吉日の供物の台石がある。昭和48年水越川の改修工事にともない、上尾町の氏子が中心となり玉垣の寄贈を募り、現在のところに整備された。 なお、現在御旅所の横の道路際に天保15年(1844)8月の『恵 東千年 西万年』の石碑が立っているが、これは、当時水越川の氾濫で流れた橋を石橋にして復旧した時の記念碑である。 御祭典 元旦祭 1月1日 節分祭 2月 夏祭 7月2日 御神楽奉納 秋祭 10月15日 蒲団大鼓巡行 御神楽奉納 氏地 寛永11年(1634)領主旗本曽我丹波守古祐以来、上之島村のほか高安郡万願寺村の内字式部と新家の二町も氏子であったが、文化年中に至り分離したと三野郷村誌に記載されている。 現在は八尾市上之島地区一円である。 (八尾高等学校教諭棚橋利光氏の指導による) 萬葉集(三首) 三野連名欠けたり(美努連岡麻呂のこと)の入唐の時、春日藏首老の作れる歌 62 在嶺よし対島の渡海中に 幣取り向けてはや還り来ね 三野連石守の梅の歌一首 1644 引き捩ぢて折らば散るべみ梅の花 袖に扱き入れつ染まば染むとも 天平2年11月大宰の師大伴旅人の大納言に任けらえ京に上りし時従者等別に海路を取りて京に上りここに覇旅を悲み傷みて各所心を陳べて作れる歌十首 3890 わが夫子を我が松原よ見渡せば 海人をとめども玉藻刈る見ゆ 右の一首は、三野連石守の作れる 御野県主神社 社務所 八尾市上之島町南1丁目71番地 電話0729-24 0966 昭和63年10月13日謹製 由緒書 |
御野県主神社 御野県主一族の祖神 角凝魂命、天湯川田奈命を祀る延喜式内社である。 三野郷と呼ばれてきたこの地一帯は、古代天皇家の直轄地と言われる三野県のおかれていた土地である。三野県主氏はこの県の管掌氏族で、河内国はもちろん朝廷においても有力な氏族の一つであった。 中世この地は玉櫛庄となり、正和3年(1314)に七条院領美濃勅旨田、また永禄八年(1565)には、美濃勅旨本役六百文か八尾市常光寺に寄進された記録がある。 八尾市教育委員会 社頭石碑 |
御野縣主神社二座 鍬靱 御野は假字也、縣主は阿賀多奴之と訓べし、〇祭神詳ならず○今河内郡上島村御野郷辻に在す、今天日と称す、(河内志)〇姓氏録、(河内国神で津)美努連、角凝魂命三世孫天湯川田奈命之後也、〇当國志紀郡志貴縣主神社もあり、 氏人 日本紀清寧天皇巻、23年8月條、河内三野縣主小根.天武天皇13年正月甲申朔庚子、三野縣主、賜処曰連、』続日本紀、慶雲2年12月癸酉、從六位下美努連淨麻呂、授從五位下、 此外も氏人あり、今挙げず、 神社覈録 |