意賀美神社
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   【延喜式神名帳】意賀美神社 河内国 茨田郡鎮座

   【現社名】意賀美神社
   【住所】大阪府枚方市枚方上之町1-12
       北緯34度48分48秒,東経135度38分38秒
   【祭神】高おかみ神 (合祀)素盞嗚尊 大山咋神 大国主神
       明治12『大阪府神社明細帳』高おかみ神・素盞鳴尊
       『神祇宝典』伊弉諾尊

   【例祭】 10月14日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創建年代は不詳
       当地の豪族伊香色男の邸内に鎭座していた
       明治5年(1872)村社
       明治42年10月14日村社須賀神社を合祀
       翌15日境内須賀神社の旧地である現鎮地に遷座
       明治42年12月神饌幣帛料供進社
       昭和9年大風害で社殿・社務所を大破

   【関係氏族】伊香色男
   【鎮座地】旧社殿は現在より西200mの宮山にあった
        明治42年10月現在地に遷座

   【祭祀対象】淀川の鎮守
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神饌所・神樂殿・祭器庫・社務所・手水舎

   【境内社】稲荷社・琴平社

枚方市駅東約500mの万年寺山と呼ばれる、香里丘陵の北部、淀川の沿岸まで突出した標高50mの台地にある。この地はもと長松山万年寺があった。萬年寺は明治3年廃寺となつた。社地には石造十三重塔が遺つている。また現地は万年山古墳の上である。淀川の流れを臨む景勝の地である。
開化天皇の御代に当地の豪族伊香色男・伊香色女の邸内に鎭座していたと伝えられている。
旧社殿は現在より西200mの宮山にあった(現伊加賀北町付近)。明治42年村社須賀神社(素盞鳴尊)、村社日吉神社(大山咋神、大国主神)を合祀、境内狭隘のため、須賀神社の旧地である現鎮座地に遷座した。


意賀美神社

創建年代は不詳ですが、延喜式内の古社です。「延喜式」とは平安初期の国家の法制書で、「式内」とは延喜式に登載されていることを意味します。元伊加賀宮山の地にあり、産土神として、又淀川の鎮守として御神威高く、古来航行の船人達が通航の安全と水害排除祈願のために創建し、開化帝の御代に伊香色男命、伊香色女命の邸内に高?神を奉祀したと伝えられています。
 明治5年村社に列せられ、同42年10月14日村社須賀神社(素盞鳴尊)、村社日吉神社(大山咋大神、大国主大神)を合祀し、翌15日境内狭隘のため、須賀神社の旧地である現鎮座地に遷座しました。同年12月に神饌幣帛料供進社に指定されました。昭和9年の室戸台風で社殿・社務所を大破、同10年10月、現社殿・社務所を復興しました。
 合併した須賀神社は牛頭天王社(祇園社)と称し、もと現鎮座地にあり、清和帝の貞観14年天下に悪疫流行の時、万年寺の開祖聖宝上人が天皇より神璽を賜わり、終息祈願のため山上に勧請、爾来諸病平癒に神験があります。万年寺は明治3年廃寺となり、社は同5年村社に列せられました。
 日吉神社は岡の地にあり、山王大権現と称しました。往古洪水に際し、日吉大神の御神体が流れ来り、村人が家に持ち帰ったが、霊験顕著なので氏神として奉祀したと云われています。一説には伝教大師が、平安京の裏鬼門に当る此の地に阿弥陀仏及び日吉大神の二像を作り、皇城の鎮護の社寺と定めたとあります。
 意賀美神社の資料室には数学の絵馬である「算額」が保管されています。これは神仏の加護により、数学者としての上達を祈念して奉納するものです。数学者の岩田清庸は当地に病気療養のために滞在し、病の癒えたお礼に文久元年、須賀神社の前身である牛頭天王社に奉納したとのことです。

ふるさと枚方発見



万年山古墳

万年山古墳は、明治37年枚方小学校運動場拡張工事中に発見された。当時の記録によると、主体部は粘土郭と思われ、内部からは青銅鏡八面、鉄刀等が出土しているこの青銅鏡は、現在東京大学理学部人類学教室に保管されている。築造年代は四世紀中頃と推定されている。墳丘の形状は不明。標高37.7mの丘陵の突端部、脹下に淀川をのぞむ要衝の地に築造されていることは、被葬者の性格を表わしていると思われる。
また,この地には奈良時代創建の密教系寺院万年寺があったが、明治3年の廃仏毀釈によって廃寺となった。そのため三矢町浄念寺に本尊は預けられた。
式内意賀美神社は、古くは伊加賀宮山にあって淀川の鎮守として通航安全と水害排除の祈願ため創建されたと伝えられる。
明治42年に日吉神社、須賀神社を合祀し、現在の地に遷座した。
枚方市教育委員会

社頭掲示板




意賀美神社

意賀美神社
鎮座 枚方市枚方上之町1−12
御祭神 高お神
    素盞鳴尊
    大山昨神
    大国主神
祭日  春祭4月15日
    秋祭10月15日
由緒
当社の創建年代は不詳であるが、延喜式内の古社である。
当社は元伊加賀宮山の地にあり、産土神として、又淀川の鎮守として御神威高く、古来航行の船人達が通航の安全と、水害排除祈願のために創建、開化帝の御代伊香色男命、伊香色女命の邸内にあったと伝えられる。
明治5年村社に列せられ、同42年12月神饌幣帛料供進社に指定された。
明治42年10月14日村社須賀神社(素盞鳴尊)、村社日吉神社(大山咋神、大国主神)を合祀、翌15日境内狭隘のため、須賀神社の旧地である現鎮座地に遷座した。
昭和9年大風害で社殿・社務所を大破、同10年10月現社殿・社務所を復興した。
合併した須賀神社は、牛頭天王社(祇園社)と称し、もと現鎮座地にあり、清和帝貞観14年天下に悪疫流行の時、万年寺の開祖聖宝上人が天皇より神璽を賜わり、終息祈願のため山上に勧請した。爾来諸病平癒に神験ある。
万年寺は明治3年廃寺となり、社は同5年村社に列せられた。
日吉神社は岡の地にあり、山王大権現と称した。往古洪水に際し、日吉大神の御神体が流れ来り、村人が家に持ち帰ったが、霊験顕著なので氏神として奉祀したと云う。一説には伝教大師が、平安京の裏鬼門に当る此の地に阿弥陀仏及び日吉大神の二像を作り、皇城の鎮護の社寺と定めたとある。後応仁の兵火に焼亡したが、慶長5年枚方城主本多政康が一乗寺と共に再建し、氏神として厚く尊崇した。
絵馬
祈願または御礼参りのために奉納する絵を書いた額で、多くは上のほうは山形になっている。古代では馬または木馬を奉納していたという名残りで、馬の絵が多い。
絵馬が一般化したのは鎌倉時代からで、馬以外のものを描くようになった。
盛んな社寺では立派な絵馬殿(額殿)や絵馬堂を造って、大小の絵馬を陳列して参拝者の目を楽しませている。
絵馬はもともとは人々の切実な祈願を発現したもので、目を病んでいる人は目の絵を、手足が痛む人は手足の絵を描いて、神に平癒を祈願したものである。
現代では内容も変わり、合格、進学、就職、良縁などの祈願が圧倒的に多いが、これは世相の反映による一種の流行かもしれない。
淀川に沿って細長くのびる旧枚方の町並みを東西に分けるかのように、こんもリと緑に包まれて突き出た丘が万年寺山です。この丘の上には、古墳時代はじめに築かれ、銅鏡八面を副葬していた万年寺山古墳がありました、川風にゆらぐ梢のあい間から、摂・丹の山々とむかいあい、豊かな淀川の流れにひろがる平野を一堂に見渡せる風光明媚なこの丘は、京阪二都の中間にあり数々の歴史の舞台となってきました。
いい伝えによると、その昔推古天皇の時、高麗の僧恵灌が、この地の風景の勝れているのを愛で、山の木立や川の流れが唐の林岸江に似ているとして、草庵を建てたのが万年寺のはじまりでした。一千年余の法灯を伝え、タ暮を告げる晩鐘は人々に親しまれてきましたが、明治の神仏分離令でとりはらわれ、その跡に意賀美神社が遷ってきました。いまも表参道の数多い石段を登りつめた緑陰のなかに、「長松山万年寺」と刻んだ標石や十三重の石塔が苔むしており、往時を偲ばせてくれます。
神社の森を北に向うと、豊臣秀吉の茶屋御殿跡があり、枚方小学校も、一時この地に建てられました、近年、丘の中ほどに紅梅を中心とした植樹もすすみ、新たな観梅の名所になっています。
万年山古墳
万年山古墳は、明治37年枚方小学校運動場拡張工事中に発見された。当時の記録によると、主体部は粘土槨と思われ、内部からは青銅鏡八面、鉄刀等が出土している。この青銅鏡は、現在東京大学理学部人類学教室に保管されている。築造年代は四世紀中頃と推定されている。墳丘の形状は不明、標高37.7mの丘陵の突端部、眼下に淀川をのぞむ要衝の地に築造されていることは、被葬者の性格を表わしていると思われる。
また、この地には、奈良時代創建の密教系寺院万年寺があったが、明治3年の廃仏段釈によって廃寺となった。そのため三矢町浄念寺に本尊は預けられた。
式内意賀美神社は、古く伊加賀宮山にあって淀川の鎮守として通行安全と水害排除の祈願のため創建されたと伝えられる。
明治42年に日吉神社、須賀神社を合祀し、現在の地に遷座した。
枚方市教育委員会
意賀美神社の御祭神と御神徳
高芹大神 (たかおかみのおほかみ)  貴船神社
水の神・淀川の鎮守の神
素盞鳴大神 (すさのをのおほかみ)八坂神社
祇園の神・農業の神・厄災病難よけの神
大山咋大神 (おおやまくいのおほかみ)日吉大社
山の神・文化の神・安産の神
大国主大神(おおくにぬしのおほかみ)出雲大社
国土の神・殖産農業の神
[昭和14年2月社頭に掲額]
境内社の御祭神
稲荷神社
豊受大神(とようけのおほかみ)伊勢・神宮
琴平神社
大物主神(おほものぬしのかみ)、金刀比羅宮
天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ)伊勢・神宮
武甕槌神(たけみかづちのかみ)石上神宮
経津主神(ふつぬしのかみ)春日大社
誉田別命(ほんだわけのみこと)石清水八幡宮
表筒男命(うわつつおのみこと)住吉大社
中筒男命(なかつつおのみこと)
底筒男命(そこつつおのみこと)
境内神社近辺
御茶屋御殿跡
梅林の西側の山が御殿山と名付けられている。
天正13年(1585)大閤秀吉が、枚方城主・本多政康の娘乙御前(おとごぜん)のために建立。延宝7年(1679)枚方宿大火の際に焼失と伝わる。
閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)御観戦跡碑
親王は伏見宮第二十代邦家親王の皇子。明治五年正月、閑院宮家を継承された。三条実美の二女と結婚。
大正元年(1912)陸軍大将。同8年に元帥の称号を賜う。
昭和6年参謀総長に就任。髭の参謀として有名を馳せ、同15年辞任。25年5月帰幽。
小賀玉の木(おがたま)
モクレン科に属する常緑喬木。材は床柱に、葉は香料に用いる。
寺社の境内によく見かけられる。
京都亀岡の出雲太神宮の御神木は[招霊]。俳句では苧環とも。
田中邸の椋(むく)[大阪府指定天然記念物]
ニレ科の落葉喬木。葉面がザラザラしている。物を磨くのに用いる。
忠魂碑
昭和3年11月に大阪造兵廠で製造された。
昭和5年4月29日竣功の[除幕式と招魂祭]を挙行と記録される。

由緒書



意賀美神社

由緒
当社の創建年代は不詳であるが延喜式内の古社である。当社は元伊加賀宮山の地にあり、産土神として、又淀川の鎮守として御神威高く、古来航行の船人達が通行の安全と水害排除祈願のために創建、開化帝の御代、伊香色男命、伊香色女命の邸内にあったと伝えられる。
明治5年村社に列せられ、同42年12月神饌幣帛料供進社に指定された。明治42年10月14日村社須賀神社(素盞鳴尊)村社日吉神社(大山咋神、大国主神)を合祀、翌15日境内狭隘のため、須賀神社の旧地である現鎮座地に遷座した。昭和9年大風害で社殿・社務所を大破、同10年10月現社殿・社務所を復興した。合併した須賀神社は、牛頭天王社(祇園社)と称し、もと現鎮座地にあり、清和帝貞観14年、天下に悪疫流行の時、万年寺の開祖聖宝上人が天皇より神璽を賜り、終熄祈願のため山上に勧請した。爾来諸病平癒に神験がある。万年寺は明治3年廃寺となり、社は同5年村社に列せられた。日吉神社は岡の地にあり、山王大権現と称した。往古洪水に際し、日吉神社の御神体が流れ来り、村人が家に持ち帰ったが、霊験顕著なので氏神として奉祀したと伝う。一説には伝教大使が平安京の裏鬼門に当る此の地に阿弥陀仏及び日吉大神の二像を作り、皇城の鎮護の社寺と定めたとある。
後応仁の兵火に焼亡したが、慶長5年枚方城主本多政康が一乗寺と共に再建し、氏神として厚く尊崇した。
枚方市指定文化財
『算額』
神社仏閣の絵馬堂、拝殿に奉掲されている絵馬のうち、数学の絵馬を算額といいます。大阪府に残る十数面のうち、北河内には国中神社(四條畷市)と当神社に貴重な二面が残されています。殊に算額は自身の研究を発表する手段として奉納され、神仏の加護により、更に数学者としての上達を祈念する願望が込められています。当神社の算額は縦83cm、横105.8cm,枠幅10.3cmと小型ではあるが四隅を飾金具でとめた重厚な額です。文久元年(1861)に厄災病難除けとして御神徳の篤い素盞鳴大神を奉祀する牛頭天皇社、祇園社)、後の須賀神社に奉納されたもので、奉納者である岩田清庸の『順天堂算譜』には「所掲于河州枚方 牛頭天皇社者・・・・」とあります。
岩田清庸(1810−70)は、北摂麻田藩(現在の豊中市蛍ケ池)の人で、大阪順天堂の教授として活躍,安政4年(1857) の和算番付表には東の大関とあり『算学速成』など五部の書物を刊行しています。岩田家は大庄屋で摂州麻田藩に貢献した名門です。清庸は当地に縁故をたより病気療養のために滞在し、病の癒えた御礼にこの算額を奉納したことが、算額の末尾に記されています。

大阪府神社庁



意賀美神社

意賀美は假字也○祭神高おかみ歟、(総國風土記、伊弉諾尊といふ、今從はす、)○伊加賀村後山に在す、(河内志、同名所図会、○総國風土記に、伊加賀崎郷意賀美神社と見えたり、)例祭9月9日、○当國石川祁太祁於賀美神社あり、
類社
和泉国和泉郡、同國日根郡意賀美神社、(各一座)越前國坂井郡、備後國甲奴郡意加美神社、(各一座)

神社覈録



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