高瀬神社
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   【延喜式神名帳】高瀬神社 河内国 茨田郡鎮座

   【現社名】高瀬神社
   【住所】大阪府守口市馬場町1-8
       北緯34度43分45秒,東経135度33分45秒
   【祭神】天之御中主命
       『神祇宝典』大物主神
       『河内式神私考』神日本磐余彦天皇

   【例祭】10月22日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】聖武天皇の勅願に依りて高瀬の里高瀬川の辺に鎭座
       南北朝時代には河内十七カ庄の里人が尊崇した神社
       天正2年(1574)織田・三好の兵災で社殿悉く鳥有

       当社所在地の“高瀬”を名乗る“高瀬氏”の祖神というのが妥当と思われる
       当社は川・津の守護神を祀ったのが始まりで、多分に水神的神格を有する神だったのであろう

   【関係氏族】津守氏 高瀬氏
   【鎮座地】元亀・天正の戦乱で焼失しその後現地に遷座

   【祭祀対象】本来は川を祀る
   【祭祀】江戸時代は「八幡」と称していた
   【社殿】本殿一間の流造
       拝殿・社務所

   【境内社】

人家の中に埋まった神社である。
往古は淀川はこの辺りを北上しており、その名も高瀬川と呼んでいたとされ、高瀬川の沿岸近くあつたものと思われる。
元亀・天正の戦乱で焼失しその後現地に遷座とする説もあるが不詳。
この地域は旧河内湖の北岸にあたり、周辺には弥生時代の遺跡もあり、そうとうに古い時代からの産土神だったものと思われる。
 守口や門真は難波京の表鬼門(東北、艮)の地に位置するところから、当社も鬼門の守護神として尊重されて来たようである。
聖武天皇の御代、行基が創建したといわれる高瀬寺が、その宮寺的存在であつたかと思われるが応仁の乱で焼失し、その後は再興されていない。


由緒

当社は延長5年(927年)醍醐天皇の命により編集された延喜式の「神社帳」に所載された神社で、式内社と呼ばれ、日本神社庁所属神社79,042社の内、式内社は3,132座に限り日本で公式に残る最も古い神社のひとつであり、北河内七市ではこの式内社は五座で、当守口市では金田町の津嶋部神社と当社のみであります。また、当社付近(長池町)から出土した流水文様の弥生式土器(守口市役所に保存)は西暦紀元前後と推定され、二千年もの遠い昔から当社は五穀豊饒、災厄排除を祈る人々の心のより処となっていたことを物語っています。
当社は古代の難波京(現在の大阪市)の表鬼門(東北、艮)の地に位置するところから鬼門の守護神として重責を果たして来ました。南北朝時代には河内十七カ庄の里人が尊崇した神社でありましたが、元亀天正年間に織田、三好の兵火で焼失し、江戸中期に再建され、鬼門の守護神、厄除の神としてあがめられてきました。
古代に当社付近は長柄船瀬という大阪湾の東端の港で、当地方は住吉大社の領有地と考えられています。住吉大社の神宮で古代難波の海上権を掌握していた名族の津守氏と当社とは永く強い結びつきがありました。津守氏は代々和歌に長じ、各勅選、私選集に数々の歌を遺され、平安時代から鎌倉時代にかけ津守氏の力添えを得て公卿、大宮人が競って当地を訪れ、多くの歌を詠じて神社に献じています。 また室町時代中期に河内の榎並に起り、やがて五流能の金春に吸収された榎並申楽(能楽の源流)の芸道者から、当社は手厚い信仰を受け、芸の上達を祈願されたもので、能楽と当社は深い因縁に結ばれているのであります。
平安時代の始め頃(約千年前)当社付近は、淀川と大和川の水路が交わる要地で、淵や瀬のおもむき、淀みに茂る水草、水鳥の風情、里の風物など、詩情豊かなところで都人や旅人に親しまれました。平安時代には高瀬の里、高瀬の淀といって有名な歌枕となり、当社を詠んだ多くの歌が詩集に残されています。
さしのぼる高瀬の里のいたずらに 通う人なき五月雨の頃 衣笠内大臣
水まさる高瀬の淀の真こも草 はつかに見てもぬるゝ袖かな 殷富門院大輔
以上、当高瀬神社は大古の昔から当地方の氏神・鎮守として鬼門の守護神、厄除神、諸道諸芸上達の神、諸願成熟、家内安全等にあらたかな御神徳をたれ給い、氏子崇敬者の信仰を集めて参りました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




高瀬神社

御祭神
日本神話によれば、天地開闢の時、高天原に最初に現れた神とされています。また天孫降臨以前から大和に居坐せし神ともいわれ、天御中主命を御祭神とするところから当社の鎮守の歴史の古いことが伺われます。従って、太古の昔から氏神として各時代の人々は、御神徳を称えて奉祀してまいりました。
式内社
当社は延長5年(927年)醍醐天皇の命により編集された延喜式の「神名帳」に所載された神社で、式内社と呼ばれ、日本神社庁所属神社79,042社の内、式内社は、3,13座に限り日本で公式な記録に残る最も古い神社のひとつであり、北河内七市ではこの式内社は五座で、当守口市では当社と金田町の津嶋部神社の二社のみであります。
また、当社付近(長池町)から出土した流水文様の弥生式土器(守口市役所に保存)は西暦紀元前後と推定され、二千年もの遠い昔から当社は五穀豊穣、災厄排除を祈る人々の心のより処となっていたことを物語っています。
鬼門の守護神、厄除の神
当社は古代の難波京(現在の大阪市)の表鬼門(東北・艮)の地に位置するところから鬼門の守護神として重責を果たして来ました。南北朝時代には、河内十七カ庄の里人が尊崇した神社でありましたが、元亀天正年間に織田、三好の兵火で焼失し、江戸中期に再建され、鬼門の守護神、厄除の神としてあがめられてきました。
諸道、諸芸の上達祈願の神
古代に当社付近は長柄船瀬という大阪湾の東端の港で、当地方は住吉大社の領有地と考えられています。住吉大社の神宮で古代難波の海上権を掌握していた名族の津守氏と当社とは永く強い結びつきがありました。津守氏は代々和歌に長じ、各勅撰、私撰集に数々の歌を遺され、平安時代から鎌倉時代にかけ津守氏の力添えを得て公家、大宮人が競って当地を訪れ、多くの歌を詠じて神社に献じています。
また室町時代中期に河内の榎並に起こり、やがて五流能の金春に吸収された榎並申楽(能楽の源流)の芸道者から、当社は手厚い信仰を受け、芸の上達を祈願されたもので、能楽と当社は深い因縁に結ばれているのであります。
高瀬の里
平安時代の初め頃(約千年前)当社付近は、淀川と大和川の水路が交わる要地で、淵や瀬のおもむき、淀みに茂る水草、水鳥の風情、里の風物など、詩情豊かなところで都人や旅人の親しまれました。
平安時代には高瀬の里、高瀬の淀といって有名な歌枕となり、当社を詠んだ多くの歌が当時の歌集に残されています。
 さしのぼる 高瀬の里のいたずらに 通う人なき五月雨の頃
   衣笠内大臣
 水まさる高瀬の淀の真こも草 はつかに見てもぬるゝ袖かな
   殷富門院大輔
又、室町時代中期に河内榎並に起こり、やがて五流能の一つ金春流に吸収された榎並猿楽の人々から、当社は手厚い信仰を受け、芸の上達を祈願されたと伝えられております。
 以上当社は、太古の昔より、当地方の氏の 神・守りの鎮守として、鬼門の守護神、除厄招福の神、諸道・諸芸上達の神、諸願成就、家内安全等、あらたかな御神徳をお授け頂き、氏子・崇敬者の信仰を大きく集めて参りました。

由緒書



高瀬神社

この神社は、延喜5年(905)から延長5年(927)にかけ作成された延喜式神名帳に記載されている由緒ある古社であります。
天正年間(1573〜92)に織田・三好の兵火で社殿は焼かれたものの、その後再建され、江戸中期頃に建てられたのが現在の社殿であります。江戸時代には、神殿その他全て備わった大社で八幡宮とも呼ばれていました。
また、平安時代この付近には高瀬川が流れており、この高瀬川は古歌に数多く歌われ、特に「高瀬の里」「高瀬の淀」は有名な歌枕となりました。
現在、南側のロータリーに「高瀬川跡」碑が建てられています。
平成2年3月
守口市教育委員会

社頭掲示板



高瀬神社

 日本神話によれば、天地開閉の時、高天原に最初に現れた神とされています。また天孫降臨依然から大和の国にい坐せしかみとも云われ、天御中主神を御祭神とするところから、当社の歴史の古い事が伺われます。太古の昔より、この地の氏神として、各時代の人々は、御神徳を称えて奉祀してまいりました。
○当社の沿革(式内社)
 当社は延長5年(927年)醍醐天皇の命により編纂された律令(法律書)延喜式の「神名帳」に所載された神社で、式内社と呼ばれ、全国約八万二千社と云われる神社の中で、この式内社は二千八百六十一社に限られ、日本で公式な記録に残る最古の神社の一つです。守口市内では、当社と金田町の津嶋部神社の二社です。又当社の付近から出土した流水文様の弥生式土器は西暦紀元前後の土器と推定され、当社では、約二千年もの昔から祭祀が行われていたと推測されております。
○鬼門の守護・厄除けの神
 当社は古代の難波の宮「現在の大阪城付近」の表鬼門の地に鎮座坐す処から、鬼門の守護神として、又 厄除けの神として、先史時代より南北時代迄は河内十七ヶ庄の里人の尊崇した神社で有りましたが、戦国時代の元亀天正年間の織田・三好の兵火で焼失、その後衰徹しましたが祭祀は続けられ、現在の本殿は貞亨4年(1687年)拝殿は文化10年(1813年)の建物であります。
○高瀬の里と諸芸・諸道上達の神
 古代、当社付近は長柄船瀬と云う大阪湾東端の港で、当地方は住吉大社の神領と考えられております。又 平安時代から鎌倉時代には、当社付近は淀川と大和川の水路の交わる要地で淵や瀬の趣、淀みに茂る水草、水鳥の風情里の風物など、詩情豊かなところで、多くの公家や大宮人等が数多く、当地を訪れ多くの和歌を当社に献じ、それが各勅撰・私撰の和歌集に遺されております。
さしのぼる 高瀬の里のいたずらに
  通う人なき 五月雨の頃
     衣笠内大臣
水まさる 高瀬の淀の真こも草
  はつかに見ても ぬるる袖かな
     殷富門院大輔
 又、室町時代中期に河内榎並に起こり、やがて五流能の一つ金春流に吸収された榎並猿楽の人々から、当社は手厚い信仰を受け、芸の上達を祈願されたと伝えられております。
 以上当社は、太古の昔より、当地方の氏の 神・守りの鎮守として、鬼門の守護神、除厄招福の神、諸道・諸芸上達の神、諸願成就、家内安全等、あらたかな御神徳をお授け頂き、氏子・崇敬者の信仰を大きく集めて参りました。

大阪府神社庁



高瀬神社

高瀬は多加勢と訓べし、和名鈔、(郡名部)高瀬、○祭神詳ならず〇小高瀬庄世木村に在す、今八幡と称す、(河内志、同名所図会)、例祭9月9日、
類社
伊賀國伊賀郡、越中國栃波郡高瀬神社、(各一座)

神社覈録



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